140. 闇より深く
「目が! 眩しいんだけどマジで!」
狭く暗い洞窟内に、流護の声が反響する。
「あ、あれぇー? っかしーなー」
カルボロの秘める属性は雷。
真っ暗な洞窟内を照らすべく、先ほどからカルボロが神詠術の照明を剣先へ点そうとしているのだが――
「まぶしっ」
瞬く光に、流護は目をつぶった。
カメラのフラッシュを数倍も強めたような閃光。目が悪くなりそうだ、と流護は目頭を押さえる。
「固定化が上手くいかねぇ……もしかしてここ、霊場なのか……?」
「れ、霊場?」
何やら不吉なものを感じさせる単語に、流護はびくりと反応する。
「ああ、リューゴは神詠術のことあんま知らないんだっけ。霊場ってのは、魂心力の恩恵が普通とは違う場所のことだよ。そういう場所だと、神詠術の現界とか固定とかが上手くできなかったりするんだ。ま、結局は個人差だと思うけどさ」
「なるほど……」
心霊スポットとかそういう意味ではないらしい。流護は胸を撫で下ろした――が、
「……気をつけろよ、リューゴ」
対照的に、カルボロの声色が緊張を帯びる。
「今試したけど、俺の技量じゃ索敵が機能しねぇ。通信もダメだ。こりゃ、慎重に進まないとだぜ」
ようやくぼんやりと光る雷球を灯すことに成功したカルボロの顔は、明らかにこわばっていた。顔色が悪く見えるのは、光の加減のせいだけではないだろう。
「……無理するなよ。どうする? 戻るか?」
自然と流護の口を突いて出た言葉に、
「馬鹿言うな、ガキの遊びじゃねぇんだ。仕事で来てるんだぜ。怖いから引き返します、なんて訳にゃいかねーよ……!」
反論するカルボロの声は、かすかに震えていた。
しかし、その瞳には強固な意志を感じさせる光が宿っている。武勇や誇りを重んじるのがレインディールの民だというが、カルボロも間違いなくその魂を宿した一人なのだろう。
林を探索しているときに「学院の子を紹介してくれ」などと言っていたことも、不安を紛らわせるための軽口だったのかもしれない。
「お前こそ……どうなんだよ、リューゴ。お前は、臨時の助っ人で呼ばれただけなんだ。無理することは……ねぇと思う」
そんなカルボロの言葉に、流護は本心で答える。
「そうだな……俺はレインディール人じゃねえし、生き残ればそれでいいと思ってる。別に正々堂々を信条としてる騎士でもない。怖けりゃ逃げるし、勝てないと思えばやっぱり逃げる」
「意外と……サバサバしてるんだな。じゃあ……」
「まあ今は別に、怖くもなけりゃ勝てねえ相手が出てくるとも思わんしな。索敵とか通信なんて、元々使えねえから関係ねえし。だから、とっとと片付けて帰ろうぜ。やばそうだったら、そん時にケツまくって逃げりゃいい」
そう告げると、カルボロは溢れんばかりの笑顔を見せた。
「お、まえ……すっげぇな! 何かよく分かんねぇけどカッコイイな! かー! 俺、お前と組んで良かったよ! もう学院の子とか紹介してくれなくていいや! お前がいればいいよ!」
「はあ、え……?」
「よーし行こうぜ、お前がいれば怖いモンなんてねぇ!」
「お、おう。それで……いや、あんまりくっつかないでくれますかね」
「何でだよ、俺の術がねぇとよく見えねーだろ? ところでどうよ、俺の明かりは。霊場にもかかわらず、この安定っぷりだぜ……?」
「散々失敗してたじゃねえか……ていうか光量抑えてやっと成功したんじゃないですかね……。つか、すごく……薄暗いです……」
やっぱり怖くなってきた。別の意味で。
前を行く流護と、後ろからピタリとついてくるカルボロ。何となく前方より背後を警戒しながら、遊撃兵は歩みを進めるのだった。
枝分かれした道を適当かつ慎重に歩き続け、十分ほども経っただろうか。迷子になっていないかそろそろ心配になってきた頃、まず流護が気付いた。
「ん? あれは……」
うねるように続く岩の洞窟――その前方から漏れる、かすかな光。
「何か……居るみてぇだな。明かり、一旦消すぜ」
カルボロが雷球を消すと、光源は前方で揺らめく橙色のみとなった。
「あれ……炎の明かりだな。何か燃えてる。焚き火みたいな……?」
自信なさげに大きく唾を飲み込むカルボロに、流護が促す。
「行ってみるか」
頷き合い、二人は暗闇の中をこれまで以上に注意深く歩き出す。少しずつ橙色がその明るさを増すと共に、パチパチと弾けるような音が耳に届き始めた。
(……これは)
溶岩溢れる洞窟などということもないだろうし、カルボロの言う通り焚き火に違いない。何者かが、この先で火を起こしている。
流護は、ふと思った疑問を口にした。
「なぁカルボロ。ドラウトローって、火を扱うような知能があるのか……?」
「どうかな……音鉱石で悪趣味な『記録』なんかするぐらいだし、火を起こすぐらいやってもおかしくはないよな」
「そう、か……」
この目で確認すれば分かることか。
二人は息を潜め、音を立てないようゆっくりと歩を進めていく。
黒い岩肌を照らす橙色が明度を増し、弾ける音が大きくなっていくにつれて、次第に鼻をつき始める――腐臭。
(ぐ……何だ、この臭い……)
流護は嘔吐きそうになるのを堪え、音を立てないように進む。
そうして、二人は奥まった曲がり角までやってきた。揺らめく橙色の光源は、おそらくこのすぐ先にある。
――この先に、いる。火を起こし、腐臭を発している何者かが。
ドラウトローなのだろうが、洞窟の閉塞感や暗さも相俟って、流護の心臓もわずかに緊張で脈打ち始め――
(……ん?)
そこで流護は違和感に気付いた。
火を起こしている? ドラウトローが?
あの怨魔に火を扱う知能があるかどうか知らないが、問題はそこではない。
流護としては、つい失念しがちなことであったが。
今はまだ昼間。
夜行性のドラウトローが、活動しているはずはないのだ。
「――――――」
その事実を思い出すと同時、流護は釣られるように曲がり角から顔を出していた。
大きく開けた空間だった。天井は高く、赤茶けた岩山や乱立した草々が点在している。
ごつごつした大地には、倒れ伏した人間が――四人。微動だにしなくなった男たちが、その身を岩肌に投げ出して横たわっていた。……当然、眠っている訳ではない。関節の一部が、曲がってはならない方向へとねじ曲がっている者もいる。戻らなかったという傭兵たちだろう。
その近くには、横倒しになった牛。貪り食われたのか、丸みを帯びた肋骨が剥き出しになっており、周囲を蝿らしき黒点が飛び交っている。その他にも、もはや原型を留めていない何かの亡骸が無数に転がっていた。農場から強奪された家畜たちか。異臭の主な原因はこれに違いなかった。
そして――広間の中央では煙を上げながら火が焚かれており、すぐ近くには仰向けで倒れている黒い怪物の姿。怨魔、ドラウトロー。
やはりいたのだ。この怪物は。
しかし人々を恐怖の底へ突き落とす黒き異形は、今この場では犠牲者となって打ち捨てられていた。ただ倒れているのではない。この怪物もまた、腕や脚の関節がおかしな方向へとねじ曲がっている。
その空間で生きているのは、焚き火の前でしゃがみ込んでいる『それ』のみ。
(……なん、だ、あいつ……!?)
流護は最初、それこそドラウトローだと思った。
しかし違う。
全身を覆う黒い体毛も、霊長類に近しいその身体つきも、ドラウトローと共通してはいる。
だが、明らかに大きい。しゃがみ込んでいるため正確な大きさは定かでないが、その身長は小柄な人間ほどもありそうだった。
そして、その体型。まるで肥えた人間のように突き出た腹。それでいて、手足の長さにドラウトローのような歪さは感じられない。全身が毛に覆われていることを除けば、肥満気味の人間に似た体格といえる。
その貌は、醜悪の極み。
唇がなく、食いしばったような歯が剥き出しとなっている。鼻も見当たらず、目の位置には真円の眼球が二つ。それはさながら、顔の皮を引き剥がした人体模型。
「……カルボロ。何だ、あいつは……? ドラウトローじゃねえ……よな?」
流護は異形の怪物に視線を固定したまま、いつの間にか自分の下から顔を出しているカルボロへ尋ねる。
「知ら、ない。あんな、奴……初めて……見た」
カルボロは、ほとんど干上がった声で呆然と呟いた。
さて、どうするか。
相手は未知の怪物。
周囲に転がっている傭兵たちやドラウトローの死体が、この化物の実力を物語っている――
――タイ、タ、マガ
「……?」
流護は眉をひそめ、音を立てないよう慎重に周囲を見渡す。
洞窟に吹き込む風の音だろうか。
――ロシ、リュ
(……いや、あの怨魔から……?)
焚き火の前で屈み込んでいるその怪物。上下する黒い肩。それは呼吸音か。何か、声のような……呼気のようなものが漏れているようだった。
(……何だってんだ。薄気味悪い野郎だな……)
怪物がこちらに気付いている様子はない。今ならば、先制を仕掛けられる。この位置から全力で石を投擲し、不意打ちの一撃で致命傷を与えられれば――
そんな流護と同じ考えだったのだろう。
明後日の方向から飛来した氷の槍が、焚き火の前で屈み込んでいる怪物の背中へ突き刺さった。後ろから突き飛ばされたかのように、黒い怨魔が前のめりとなって派手に倒れる。その身体が二転三転し、氷の槍が粉砕した。
「……お、」
目を向ければ、広間の反対側に五人の兵士たちの姿があった。班分けしたうちの一斑。
流護たちが通ってきた道だけではなく、他にもこの広間へと繋がっている道があったのだ。
「よし……仕留めたか?」
「あの怨魔は何だ……?」
声を反響させながら、兵士たちが広間へと踏み入る。
と同時、怨魔が跳ね起きた。
「お、起き上がったぞ……!?」
全力の術だったのだろう。何事もなかったかのように起き上がった怪物に、兵たちは驚愕する。
怨魔は自分を撃った兵士らへ顔を向けて、首を傾げるような仕草を見せた。
――タ、イタ マガ タイ
またも聞こえる、漏れ出る音。
それは、狙いを定める所作だったのか。
怨魔は、兵士の一人へ向かって二本足で駆け出した。まるで人間のような、しかし獣のような速さで。
「こいつ! 今の一撃が効いてないのか!?」
慌てて盾を構える兵士。
そこへ、走り込んだ怪物の振り回す右腕が直撃した。
「がっ……!」
横合いからの一撃に、盾が吹き飛んだ。
雑な一撃ゆえ威力が分散したのか、兵士はよろめきながらも辛うじてその場で踏み止まる。
それが命運を分けた。
よろけた兵士に向かって、怪物は返す刀で左腕を振るう。真横からの黒い残像。
ばき、ごきん、と。
取り返しのつかない音がした。
まともに怪物の一撃を浴びた兵士は、首を百八十度ねじ曲げ、がくりと膝をつく。そのまま、うつ伏せになって倒れ込んだ。不自然に背中まで回った顔が、力なく虚空を見つめていた。
「ひッ……」
近く聞こえたカルボロの声で、流護は我に返った。
「あ……?」
死んだ。
目の前で、人が死んだ。信じられないほど、あっさりと。ドラマや映画ではない。たった今、現実に――
「貴っ様ぁ!」
仲間の死に激昂した兵の一人が、怪物へ走り込んで剣を振るう。
袈裟掛けの一撃が、怨魔の左肩へ叩き込まれた。
「……何っ……!?」
兵士が呻き声を漏らす。
怪物は、微動だにせず。
長剣は確かに怨魔の左肩へと振り下ろされているが、黒い体毛や筋肉そのものに阻まれているのか、血の一滴すら出ていなかった。
返礼とばかりに怪物の右腕が薙がれ、兵士は吹き飛ばされる。
「ぎゃっ……!」
大柄なはずの兵士は軽々と宙を舞い、背中から岩に叩きつけられた。
痛打に顔をしかめる兵へ向かって、怨魔が走り寄る。他の兵士たちが怨魔に向かって神詠術を放つが、黒い怪物は全く意に介さず突き進む。火球を受けようが、雷撃に打たれようが、その足は止まらない。
剣も神詠術も通用しない。――兵士たちでは、この怪物を倒せない。
「くっ!」
ここで、流護が飛び出した。
「リ、リューゴ!」
後ろから聞こえたカルボロの声に反応する余裕もなく、流護は一直線に怨魔へと走り込む。
(まだ間に合う――!)
流護は半ば自分に言い聞かせるように駆け、怨魔の背中へ肉薄する。
岩を背にへたり込んだ兵士と、目が合った。
ここでようやく気付く。覚えのある顔だ。出発前、投石砲について流護に説明してくれた、ひげ面の中年兵士だった。
兵士はひげ面を恐怖に引きつらせながらも、流護を見て安堵の表情を浮かべ――
(待ってろ、今助ける――!)
凄まじい破砕音が響き渡った。
次いで、ぺき、ばきんと骨を圧壊する音。
兵士の顔に、黒い拳が容赦なく叩き込まれていた。
「――――――あ、」
奇跡も何も起こらなかった。
間に合わなかった流護の足が、もつれて止まる。
めり込んだ怪物の拳に押し出される形で、兵士の顔から左の眼球が飛び出した。ぶらりと振り子のように一度だけ揺れた後、千切れて土の大地にトンと転がり落ちる。
怪物が拳を戻す動作に従って、ぬちゃりと赤いぬめりが糸を引いた。パラパラと零れ落ちるのは――砕けた歯の欠片。
残されたのは、奇しくもこの怨魔と同じような――人体模型のような造形になってしまった、兵士の顔。
つい今しがたの、助かると安堵した表情が嘘のような、ただの肉塊。
想像もつかない。
朗らかな、人のよさそうだったあの顔が、こんな――
「あ、……」
その剥き出しの赤い顔に、
「……ああ、」
この世界へやってきて最初に出会った、あの少女の顔が――もう二度と会えない彼女の顔が、重なった。
「リューゴォッ! 来るぞ!」
反響するカルボロの叫び。
黒い怨魔は振り返って、すぐ背後の流護へと照準を合わせていた。
唸りを上げる漆黒の暴力。鉄槌のごとき右腕が流護の顔面に打ちつけられる――より早く、怨魔が横薙ぎに吹き飛んだ。
周囲の兵士たちが目を見張る。
まるで、手本のような。
流護は右脚を高く掲げたままの姿勢で、均衡を崩すことなく静止していた。
右の――上段廻し蹴り。
「立てよ」
流護は脚を下ろしながら、地面に這いつくばる怪異へと静かな声を投げかける。
「早く立て、化物」




