137. 彼らの職務・後編
「ご苦労様、遊撃兵さん。……あら、これで全部だったかしら?」
倉庫から木箱を抱えて運んできた流護だったが、その荷物を目にし超越者の老女は困ったように眉根を寄せた。
「はい……この箱はこれで最後でしたが」
「あら、ちょっと足りないわねぇ……。やっぱり、事前に連絡を入れておくべきだったわよね……」
返事を受けて、女史はわずかに勘案する素振りを見せる。
外壁へ退魔補助薬を塗布し終えて、次は学生棟……の予定だったのだが、保管されている薬液だけでは足りなかったようだ。
「仕方ないわ、呼ぶとしましょうか。怒られちゃいそうだけれど」
呼ぶ? 何を? と思う間もなく、バラレ女史の指が驚くほど滑らかに空を切る。呼応して、老女の横に煌めく波紋が現出した。通信の神詠術だ。
『あーいどちらさまー……』
ほどなくして向こう側から聞こえてきたのは、流護も知る女性の気だるげな声だった。
「あら繋がってよかった。リーヴァー、ナスタちゃん。お久しぶり。元気にしてた?」
『……げぇっ、バラレ婆!?』
(おおっ……?)
珍しく狼狽したナスタディオ学院長の声に、流護はピンとくる。これは彼女に対する流護の反応と同じ。つまり学院長はバラレ女史が苦手なのだ、と。しかし女史はそれこそ『誰か』と違って人柄も穏やかだし、苦手とする理由がよく分からない。
老女は施術のために学院へやってきたことを手短に説明し、退魔補助薬が不足していることを告げる。
「……という訳で、退魔補助薬の手配をお願いしたいのよ、ナスタちゃん。申し訳ないのだけど……確認のために、今から学院まで来られるかしら?」
『え? 今から? はっはっはっ、いやー残念残念。アタシ今、バロードレルの街にいるのよねー。学院まで早くて三日はかかる距離でしょ? 遠いからねー、すぐ行くのは無理かなぁー』
バラレ女史の通信技能の高さゆえなのか。波紋からは学院長の声に混じって、背後の環境音もはっきりと聞こえてきている。
雑踏の中にいるようで、人々の声や馬車の走る音までもが流護たちの耳に届いていた。
『残念だけど……ほんっとーに申し訳ないけど、誰か、次の宿直担当の教員とかに言っ』
「ふぅーん……ナスタちゃん今、王都にいるでしょう」
『は!? バロードレルって言ってるじゃないの、やだなーバラレ婆ったら、いよいよモウロクしちゃっ』
「今、あなたの後ろを走っていた馬車。バイラル旧式ね。その型って、今は王都の街中でしか運用されていないのよねぇ。博識なナスタちゃんでも知らなかったかしら?」
『なっ……』
「まぁ来られないなら仕方ないわよねぇ~。無理言ってごめんなさいね。それじゃあこっちは、ナスタちゃんのあんな話やこんな話で盛り上がりながら作業するとしましょうか。ふふ、そうだわ。まずは五年前、ナスタちゃんが街角で出会ったある男の子との――」
『だっ……その話は誤解だって言ってんでしょうが! あーもう分かった! 行くから! 行きゃあいいんでしょ行きゃあ!』
すげえ、あの学院長が嘘を見破られたうえに折れた。
謎の感動に打ち震える流護をよそに、交渉がまとまったようだった。
王都にいる学院長がやってくるまで四時間。
その間に外壁の防護処置を終えておくとのことで、バラレ女史が校門前に佇んでいた。目をつぶり、両手を壁に向かってかざしている。
まるで家を建てる前に行う地鎮祭のような、厳かな空気すら感じるが――
「うおっと!?」
ドン、と大地が振動した。
地震かと驚く流護だったが、そうではない。
ごくわずかな揺れと共に、学院をぐるりと囲む外壁が青白い光を放ち、陽炎のように揺らめいていた。
壁から真っ青な湯気が立ち上り、周囲の景色を歪ませている――とでも表現するべきか。
「すんげぇユラユラしてるけど……あ! これもしかして、『揺らぎ』とかってヤツか……?」
「あら。知っていましたか、アリウミ殿」
どこか誇らしげに頷いたのは、流護の隣に立つクレアリアだ。
『空気の揺らぎ』。
以前、ベルグレッテに聞いた覚えがある。あれはナスタディオ学院長と初めて対面した日だったか。
魂心力の流れか何かが周囲の空気を歪ませる現象。いわば、神詠術が発現する際に現れる前兆のようなもの。
戦闘においては、この『揺らぎ』を悟られないように立ち回ることが肝要となるが、今は戦闘中ではない。『揺らぎ』を隠す必要もないのだが、
「な……」
流護は思わず呆然と見入ってしまう。
老婆と壁の周囲だけが、別世界になったかのように揺らめいている。まるで蜃気楼。
この『揺らぎ』がそのまま、これから発動する術の強大さを物語っている。流護でもそう分かるほどの圧迫感。
「――ふっ」
女史が小さく息を吐く。
同時、とてつもなく巨大で透明なオーラめいた何かが、一瞬だけ壁全体を包み込んだ――ように見えた。
それきり。揺らめいていた青色は消え、おなじみの景色が戻る。
「はぁー……」
老女は額に汗を浮かべ、大きく息を漏らす。すかさずクレアリアが駆け寄っていき肩を支えた。
「お疲れ様です、バラレ女史」
「ありがとう。でもやっぱり、年々しんどくなっていくわねぇ……そろそろ、ミリアンちゃんにお任せかしらね」
「そのようなことを、仰らないでください……」
そんな二人をよそに、流護は目前の学院を見上げていた。城を改装して造られたという巨大な学び舎は、いつもと変わりなく見える。
「今のが……防護の術?」
「ええ。『朔影の霊壁』。バラレ殿が独自に編み出した、超高位の防護結界術ね」
いつの間にか隣へやってきたベルグレッテがそう解説する。
「これでまた、二年は効果が持続するはずだよ」
ロック博士も、疲れたように自分の肩を叩きながらやってきた。
「なるほど……」
国属の八名の『ペンタ』、その一角として数えられる老女は、クレアリアだけでなく周囲の兵たちにも労われていた。
大人しく気弱なリーフィアは例外として、ディノやナスタディオ学院長といった顔ぶれから、『圧倒的な力を振るう傍若無人な強者』という印象の抜けない『ペンタ』だったが、これが彼らの本来の姿なのだろう。
つまりは――並外れた能力を活かして、大きな仕事を遂行するエリート。
そういった意味では、アルディア王直々に遊撃兵という名目で取り立てられた流護も同じはずだ。これほどの力を振るう『ペンタ』と、変わらぬ期待を寄せられている。……多分。
魔除けの薬液で気分が悪いなんて言ってられないな、と気持ちを引き締める流護だった。
「無理だわ」
やってきて息をつく暇もなく。
必要となる薬液の分量を計算したナスタディオ学院長は、あっさりとそう言って肩を竦めた。
「壁だけで九千使ったんでしょ? このうえで残るは学生棟と校舎、研究棟。近場からかき集めようにもどこも在庫持ってないらしくて、必要な分だけ今から発注しても二週間。受け取りは二十一日になるって。予め施術に来るって分かってれば用意してたんだけど……まぁ今回、随分と急だったしね」
「困ったわねぇ……」
「バラレ婆、今はリケ・エブルに住んでるんだっけ。片道で一週間ぐらい?」
「今回は六日だったわねぇ」
「うーん。担当誰だったのよ? その間にアタシに打診してくれば、効率よかったのになー」
「ごめんなさいね……。私も、事前に連絡を入れるべきだったわね……」
「ああ、いや。バラレ婆は現場要員だしさ。問題は担当しなきゃいけない人間がサボッてたコトであって」
そう言って、学院長は美しい金髪をガリガリと掻きむしる。
退魔補助薬が足りない。近場から取り寄せようとしたが、運悪くそちらにも在庫がないらしく、どうあっても二週間かかる。バラレ女史は遠くから来ているため、一旦帰ってもらう訳にもいかない。
『ペンタ』二人のやり取りを見るに、そんな状況らしかった。
「んー……。ベルグレッテ、ちょっといい?」
「あ、はい」
学院長がちょいちょいと手招きをする。
「今、二年生の授業はどこまで進んでる?」
「……? ええと――」
意図の掴めない質問に対し、それでも真面目に答えるベルグレッテ。ふむふむと頷きながら、どこかへ通信を飛ばす学院長。
何の気なしにそんなやり取りを眺めていると、流護の服の裾がキュッと引っ張られる。
「……きっと学院長は、よからぬことを企んでいるよ……!」
流護の後ろに隠れているミアだった。
横から恐々と顔だけを覗かせてプルプルしているその姿は、天敵を前にした小動物のそれだ。学院長がやってきてからというもの、ずっとこの調子である。
「はーい、生徒のみーなさーん、ちゅーもーく!」
しばしして、その元凶こと学院長がパンパンと手を叩きながら大きく声を張る。この場にいる総勢十名ほどの生徒たちが、一斉に彼女へ目を向けた。
「アタシから皆さんに、嬉しいお知らせがありまーす」
「嬉しいー……?」
ミアが疑わしそうに眉をひそめる。
流護としても、なぜ今この状況で嬉しいお知らせとやらが出てくるのか分からなかったが、答えはすぐに明かされた。
「当初は十七日までの予定だった今回の『蒼雷鳥の休息』ですが、二十二日まで延長としまーす!」
にわかに生徒たちがざわついた。突然の宣言に、皆も喜ぶよりは困惑しているといった雰囲気だ。
「学院長……?」
隣に立つベルグレッテも、驚き顔で学院長を見上げている。
「はいはい静かにー。本日は、皆さんにバラレ氏の施術を手伝ってもらいましたが、退魔補助剤が足りていない状況です。先ほど発注したものの、やはり二週間ほど掛かってしまいます。二十一日になりますね。バラレ氏も遠いところをお越しいただいておりますので、一旦お帰り願ってまたお呼びする、というのも難しいところです。なんつっても暑いしねー」
パタパタと手で顔を扇ぎながら苦笑う。
「そこで、約二週間後の二十一日。その日に薬液が届いて防護作業を再開するとして、施術するためには学院を休みにしなければなりません。本来の予定であれば二十一日はもう平常日ですが、その日だけ休みにするとしても、学生棟に施術するためには、皆さんに外へ出てもらわなければならなくなります。全員となると、とても修練場には入りきりません」
なるほどな、と流護は理解した。
作業のため二十一日だけを休みとし、全ての生徒に学生棟から退出してもらう――といったことは難しいのだ。
通常、安息日には約五十名ほどの生徒が学院に残る。大半の者は、実家が遠くて帰れないから留まるのだ。
そこで二十一日の一日だけ施術のために学生棟から出なければならないとすると、その五十名は行き場に困ることとなってしまう。修練場に五十もの生徒は入りきらず、また食堂やシャワー室などの施設も学生棟内にある。
となればやはり、ほとんどの生徒が帰省している『蒼雷鳥の休息』中に作業を済ませてしまうのが望ましい。というよりも、長期休暇中に施術してしまうのが基本だそうだ。
「――という訳で色々と難しいので、それならいっそ『蒼雷鳥の休息』そのものを延長してしまおう、と。各学年の授業の進捗状況から考えても、問題はないと判断しました。作業を二十一日とし、早目に学院へ戻ってくる方の事情も考慮して二十二日までを休みとします」
休み中に間に合わないなら、休みを延ばしてしまえばいいじゃない――といわんばかりの発想だった。
え、じゃあ本当に? 休み長くなるの?
理解した生徒たちがざわつき始めた。空気が困惑から喜びへと変わっていく。
「はいはい静かにー。今回、バラレ氏に対応した担当の些細な手違いから、このような事態となってしまいました。将来、詠術士として国に仕えることを望んでいる人もいるかと思いますが、このようなコトがないように気をつけましょうね~」
浮つき始めた雰囲気を引き締めるように、そう言い結ぶ学院長だった。
「あー……くっそ疲れたー……」
時刻は夜十時過ぎ。
薄暗く客のいない食堂で、流護は一人だらしなく椅子へ沈み込んでいた。
かくして、施術の続きは十日以上先となる二十一日に決定。バラレ女史はそれまで王都に滞在。それに伴い、『蒼雷鳥の休息』も二十二日まで延長。
……という運びになったのだが、それでめでたしめでたし――とはいかず、むしろ当初の予定を大きく上回る忙しさに追われる一日となってしまった。
『蒼雷鳥の休息』が延長になったのはいいとして、当然それを全ての生徒に知らせなければならない。
という訳で、総勢約三百名もの学生たち全員にそれぞれ連絡を取る、という気の遠くなりそうな作業が始まった。
学院長やバラレ女史を始め、通信の得意な生徒を動員し、クモの巣を広げるように連絡を取っていく。
流護は神詠術が使えないため直接戦力ではなかったものの、それでも連絡漏れがないよう名簿を作りチェックするなど、補佐と雑務に駆け回った。
そしてつい先ほどようやく全ての仕事を終え、食事をとりにやってきたところである。
ベルグレッテたちもさすがに疲れ果てたらしく、今日は早々と床に就いてしまっていた。
(……だめだ、入らん)
流護は流護で、ガッツリしたものを食べる気がしなかったため、激辛パスタにしたのだが(そもそも長期休暇中ということでメニュー数が半減している)、それでも食が進まなかった。
疲れきって空腹すら感じない、というのは久しぶりだ。この世界へやってきてからは初だろう。
しかし、不思議と悪くない気持ちだった。
闘いに明け暮れる殺伐とした日々を過ごしていたせいか、皆で協力して一つの作業に取りかかるというのは新鮮だった。日本にいた頃の、学園祭の準備を彷彿とさせる。
そういえば、この学院にも学園祭みたいな催しはあるのだろうか――と考え始めたところで、食堂の分厚い扉が開け放たれた。
「げっ」
入ってきた人物を見て、流護はほとんど反射的に呻いてしまう。
「あら。お疲れ様、リューゴくーん」
ウインクしながらやってきたナスタディオ学院長は、当然のように対面の席へと腰掛けた。
ほとんど手つかずになっている激辛パスタを見て、不思議そうに小首を傾げる。
「食べないの?」
「あんまり食欲がなくて……」
「若いうちからそんなんじゃダメよー? あ、食べないならもらっていい?」
返事をするより早く、学院長はフォークを手に取ってパスタを口へ運んでしまう。
「あっ……、」
思わず声を上げる流護だったが、
「おー辛い! ん? 何?」
「あ、いえ、何でも」
「……ふーん。ンフフフフ」
何を思ったのか。学院長はチロリと舌を覗かせ、フォークについたペパーソースを舐め取った。その仕草はひどく妖艶で、わざと見せつけているかのよう。
「………………、」
思わず顔を逸らした流護に、
「俺が口つけたフォークなのに――って?」
デッドボールが飛んできた。
「お、おお!? お、おおお思ってねえし!」
「アラアラ。この程度でそんな様子じゃ、ベルグレッテとはまだ何もなさそうね~」
心底楽しそうに、金髪の悪女は含み笑う。
「そんなんじゃダメよー? 男の子はもっと積極的にイかなきゃ。今日はもう疲れたーなんてヘバってないで、これからベルグレッテのトコに乗り込んで五発六発とカマすぐらいじゃなきゃ」
なぜ下へ下へと往くのか。
「いや、んなことしたらクレアリアさんに見つかって五発六発と神詠術を叩き込まれそうなんで……」
「弱気になっちゃダメダメ。そん時ゃ、男嫌いのクレアリアに男の良さを教えてやるぜグヘヘヘヘ、いっそ姉妹一緒にいただいてやるわ、どっちの具合のがいいか確かめてやるわオラー! ぐらいじゃないと」
ダメだ。敵わん。
「にしても、学院長は元気っすね……」
ベルグレッテたちだけではない。他の生徒らも体力を使い果たしたのか、すでに学生棟はほとんどの部屋の明かりが消えていた。食堂へやってくるまで、これまでになく静まり返っていたのが印象に残っている。
学院長はといえば、ようやく暖気運転が終わったといわんばかりのハジケっぷりだ。
「ま、普段からこんな感じだしね。このぐらいで疲れたなんて言ってられないわよん」
実際、学院長は各地を忙しなく飛び回っている身だ。今回の件も、数ある仕事のうちの一つにすぎないのだろう。
「リューゴくんには、いずれアタシの仕事の一部を担ってもらいたいんだから。このぐらいでヘコたれてもらっちゃ困るわよ~」
「へ? 学院長の仕事? どういう?」
「ホラ、こないだのテロもそうだけど……アタシの仕事の一つとして、『単独での敵勢力制圧』があるワケよ。こういった荒事も、ゆくゆくはリューゴくんに手伝ってもらいたいなと思ってるわ」
「!」
遊撃兵となった流護だが、それは建前だとアルディア王も言っていた。
買われたのは――この世界ではありえない、その膂力。一個人としての武力だ。となれば、そういった役目が回ってくることも必然か。
「そうねぇリューゴくん、例えば複数の詠術士を同時に相手取らなきゃいけない状況になったとして……何人までならイケそう? ちなみに相手は一般兵クラス、場所は開けた空間ね。隠れる場所はナシ」
学院長は唐突に、そんなやや物騒な問いを投げかけてきた。
「え? えーと……、そうすね」
面食らいながらも、流護は考えを巡らせる。
生半可な相手であれば、何人だろうと薙ぎ倒す自信はあった。事実、ミア奪還戦にてレドラックファミリーと衝突した際、流護は一人で数十人を片付けている。
しかし相手が正規兵クラスとなれば、連中とは段違いだ。鎧などを着込まれたなら、打撃が主となる流護にとってはそれだけでやり辛くなるだろう。
一対多数において、単騎側が一度に相手取れる人数は、せいぜい四人が限度だとされている。
が、流護には掟破りの荒技があった。
レドラックファミリーの時にも使ったが、まず素早く接近し、一人を組み伏せる。そのまま、相手を『武器』として振り回す。
このグリムクロウズならではの、技とすら呼べないメチャクチャな手段だが、その効果は絶大だ。
加えて、最近では常に投擲用の小石を持ち歩くようにしている。
そういった点も踏まえて考えるならば――
「……何とも言えないですけど……二十人ぐらいまでなら、まず間違いなく」
「おぉう、言うわねー。血気盛んな兵士たちが聞いたら、ムッてしちゃいそう」
「え、じゃあ十五人ぐらいで……」
「ンフフ、頼り甲斐があって結構結構」
くすくすと笑った学院長は思い出したようにハッとして、
「そうだそうだ。前から訊こうと思ってたんだけどー」
「何すか?」
「リューゴくんて、ホントに記憶喪失なの?」
――心臓が跳ね上がった。
「……何で、そんなことを?」
肝を冷やしながら、流護は辛うじて声を絞り出す。
「うーん。記憶がないってのはつまり、何もかもが分からないってコトでしょ? それこそ、自分が何者なのかすらも。リューゴくんの場合、都・合・よ・く・自分の名前は覚えてたみたいだけど。とにかく何も分からないなんて凄く怖いコトだと思うんだけど、リューゴくんは全然気にしてる風じゃないし」
「そこは……あれですよ。あれだ、俺、バカなんでエッヘヘヘ。オデ、ダデダッケ」
自分を貶めながらも必死に踏ん張る。
フフと微笑んだ学院長は、「ま、何でもいいけど」と前置きをして、
「でも気をつけなさいよー? アルディア王からも聞いてると思うけど、スバイがいた前例もあるからね。何かあって、アタシがリューゴくんを片付けなきゃいけなくなった――なんてコトがないように、ね?」
――それは絶妙な光の加減か。
メガネの奥から色っぽく見つめてくる学院長の鳶色の瞳が、金色に濁ったような気がした。
色気とは程遠い。何か、思わず怖気立つような気配が。
少年はゴクリと喉を鳴らし、
「…………学院長は、さっきの話……何人ぐらいですか?」
考えるより早く、そんな興味本位の言葉が口を突いて出ていた。
「へ? なにが?」
「大勢の正規兵。いっぺんに、何人まで相手にできる自信があるのかな……と」
「……ふむ、そうねえ」
「――――百人でも、千人でも」
満面の笑顔で放たれる、馬鹿らしいまでの大言壮語。
そう『思いたがっている』かのように、流護は己の身から滲み出る冷たい汗を感じていた。
「いぃよーっし! そんじゃアタシは行くわよ。そもそも、バラレ婆のために滋養清茶を取りに来ただけなんだから。あのババアめ、人の良さそうな顔してアタシにだけは荒いのよ。次から次に、ごく自然に気がつけば関係ない仕事まで押し付けてくるんだから。資料の確認だけで、三日は使いそうだわ……」
そうぼやいてガタリと席を立つ。なるほど、それでバラレ女史の呼び出しに応じるのを渋っていたのだろう。
ちなみに喋りながら、流護の残した激辛パスタもしっかりと完食している。
カウンターへ向かった学院長は、眠そうにしている給仕の男性から何やら受け取り、流護のところまで戻ってきた。
「はい。アタシからサービスよん」
なみなみと液体の入った木製のコップを手渡してくる。
「あ、ども」
滋養清茶。
流護もトレーニングの際に何度か飲用している、いわば強壮ドリンクに似た飲み物だった。特別栽培したニンジンを煎じてどうたらこうたらという、何だかよく分からないがすごく効くシロモノだ。が、これは疲れたところを無理矢理に奮い立たせるためのもので、寝る前に飲むようなものではない。
怪訝そうにした流護を察したのか、
「アタシたちは仕事が残ってるからね。夜はまだまだこれからよ」
「うへえ……お疲れ様です」
「リューゴくんも、それ飲んでベルグレッテに夜這い仕掛けるんでしょ?」
「いや、そんな予定はないです」
ひとしきり笑った学院長は「それじゃまたね」とウインクを残し、慌しく食堂を出ていった。
せっかくなので、もらった滋養清茶をぐいと飲み干す。……目がギンギンしてきた。
思えば、ナスタディオ学院長と二人きりで話をしたのはこれが初めてだった。
流護自身、どちらかといえば口下手な部類のうえ、学院長に対しては苦手意識もあったのだが、驚くほど自然に談笑していたように思う。彼女の巧みな話術のなせる技か。
色々とぶっ飛んでいるが、決して悪い人物ではないのだと思う。
「あ、そういや……」
先日話題になったミディール学院の制服のデザインについて、訊いてみればよかった。すっかり忘れていた。
こうして探せば、話題などいくらでもありそうだ。遊撃兵としてやっていく以上、苦手な人物とのコミュニケーションというものも必要になるだろう。
……ふと、脳裏をよぎる。
百人……千人だろうと相手取れると言い放った、自信に満ちた笑顔。あの人らしいというべきか。事実、底知れない人物だ。本当にやってのけてしまいそうな雰囲気すら漂わせている。
そして――自分の使っていたフォークに、艶かしく舌を這わせていた顔。……見た目『だけ』は、とんでもない美人なのだ。
「…………………………」
……違うところがギンギンしてきた。
疲れてるせいだと自分に言い聞かせ、部屋へ戻るべくそそくさと食堂を出る年頃の少年だった。……ちょっとだけ、前のめりになりながら。




