116. 『ディエティ』
ブラ――、何だったか。
名前もさして印象に残らなかった燃えカスを見下ろし、ディノはコキリと首を鳴らす。
そうして、楽しげに声を発した。
「――オイ。出て来いよ」
呼びかけに答え、狭い闇の路地に白影が浮かび上がる。
「ひっひっ……気付いておったか。さすが、というべきかの」
白衣に身を包んだ、小さな老人。
見覚えのある人物だった。レドラックの件で、ディアレー郊外の廃工場へ行った際に現われた――
「オメーか……えーと、何だっけ。ゴールドボール先生だったっけ?」
「キンゾルじゃよ」
挑発にも、老人の笑みは変わらない。あの廃工場で見たときと同じ。
「なるほどな。さっきのナントカってのにオレを仕留めさせて、オメーが『融合』とやらで魂心力の宿った部位を奪う気だったワケか。なら、もうちっと強ぇヤツ連れてこいよ。いくら何でもありゃねェだろ」
「ひっひっ……お主が強かったんじゃよ。あの『勇者様』には敵わなかったとしてもな」
「チッ……」
「ひっひっ。しかしブランダルめ、適合率こそ高かったものの、所詮は凡庸な詠術士じゃったか。『吸収』もまともに使いこなせておらん。『ペンタ』の力となると、容易には行使できんものかの。さすがにそう都合よく、腕が立つうえに適合率も高い者はおらんか……」
「オメーら何モンだ?」
「おや。虫の存在など意にも介さぬディノ殿が、このワシを気に掛けるか。これは光栄じゃな」
言葉とは裏腹。嘲るように、皺だらけの顔を笑みの形に歪ませるキンゾル。
「お主。ブランダルの先ほどの話、乗ってみる気はないか?」
「後ろから刺そうとしといて何言ってんだ。見逃してやっからさっさと消えろ、ボケジジイ」
その言葉にかすか、キンゾルは眉根を八の字にした。
「ふむ……敗北によって、少しは謙虚になるかと思えばこれか。未だ十代とはいえ、腐り曲がった性根というのは治らんもんじゃの。……せっかくじゃ、お主の部位……摘出して帰るとするかのう?」
ディノはその言葉を鼻で笑う。
笑うと同時、炎の柱を右手に生み出し、そのままキンゾルへと振り下ろした。背後の壁を抉り、足元の石畳までを砕く。大地が陥没し、狭い空間に炎が撥ね、火の粉と石片が舞った。
「あんまボケっと周りに迷惑だぜ? オジーチャン」
ディノは炎を消し、くだらなそうに溜息をつく。石壁ごと崩れた路地には一瞥すらくれない。今日だけで何回、溜息をついたのか。うんざりしながらも、ディノは安宿に帰るべく歩き出す。
気配。
空気が、動く。
「――なぁに。まだまだボケてはおらんよ」
間近で、声が響いた。
ぞ、とディノの首筋に殺意の息吹が迫る。
ディノは咄嗟に横へ飛んだ。数瞬後、青年の首筋があった空間を一筋の光が薙ぐ。
炎の柱を、どうやって躱していたのか。指先を白く輝かせたキンゾルが、にたりとした笑みを貼りつけたまま滞空していた。
(――このジジイ……!)
ディノは炎の奔流を生み出し、未だ空中にいるキンゾルを羽虫のごとく薙ぎ払う。
その炎が、裂けた。
「!」
ディノは紅玉の瞳を大きく見開く。
老人が振るった五指の軌跡に従って、炎が断ち割られていた。白く光った指先で炎を散らしながら、キンゾルは素早く着地する。しかし完全には『消せ』なかったようで、白衣に小さな火がまとわりついていた。老人は素早く衣を脱ぎ捨てると、まるで獣のような四つん這いになり、蟲めいた薄気味悪い挙動でシャカシャカと間合いを取った。
「おぉ!? ハッハハハハ、何だそのダッセェ動きは! 陸に上がったアメンボかぁ!?」
が、その動き。明らかに異常だった。
ディノの一撃を躱し、反撃に転じ、炎を消失させるというその技巧。人のものとは思えぬ素早い四足歩行。
そして――白衣を脱いだ、その下の肉体。
袖なしのチュニックを着ているが、老人の身体とは思えないほどに引き締まっていた。
深い皺の刻まれた顔と相反した、瑞々しい肉体。
左肩の一部だけが異常に白い。かと思いきや、首筋の一部は浅黒い地肌を晒している。まるでそこだけ他人の皮膚がくっついているような、どこか違和感のある身体。
「ジジイ……何モンだ?」
まるでその姿勢こそが本来の姿であるかのように、四つん這いのまま老人は嗤う。
「ひっひっ……そうじゃな。通じるように言うならば――属性は融合。二つ名は『創製者』になるか。『ペンタ』、キンゾル・グランシュア――とでも名乗っておこうかの」
「……『ペンタ』、だぁ……?」
さすがにディノは驚きを隠せなかった。
融合などという聞いたこともない属性。部位の移植などという行為を可能とするその術。明らかに通常とは一線を画すと思っていたが――
「そうかそうか、そりゃーまた」
炎の獣はくっくっと笑う。
「で……オメー、この国の人間じゃねェんだよな?」
「まあ、そうじゃな」
『創製者』のキンゾル・グランシュア。聞いたことがない。偽名の可能性もあるが、その特異な能力は偽れるものではない。通じるように言うならば、とも老人は口にした。ディノが知らないような、遥か遠い地からやってきた可能性もあるだろう。
「フ……、クク」
堪えきれず、ディノは肩の震えを大きくする。
「何がおかしいかの? 小僧」
「イヤー、だってよォ……」
超越者同士の戦闘は、国によって禁じられている。
が、それは国内の『ペンタ』同士の話だ。周囲に被害を及ぼさないためというのも理由の一つではあるが、これは飽くまで、国の財産が潰し合うことを避けるために定められた法。
「――つまりよ、何のお咎めもナシに『ペンタ』と闘れるってコトじゃねェか!」
一瞬で駆け寄ったディノが、炎に包まれた腕を薙ぎ払う。
キンゾルは四足歩行のまま、獣のような動作でこれを躱す。躱しざま、あろうことか石壁にへばりつき、そのまま一気に壁を這い上がった。
「オイオイ、アメンボの次はヤモリかよ、何なんだテメーは!」
しかしセリフとは裏腹に、ディノは愉悦を隠しきれない。
殺すつもりで放った攻撃を躱した人間なんて、『アイツ』以外ではこれが初めてだ。
壁を這い上がったキンゾルは、そのまま塀の上に立ち青年を見下ろす。
「全く戦闘狂め。付き合いきれんわい」
「オイオイ、まさか逃げる気じゃねェだろうなオジーチャンよ。そりゃねェぜ。せっかく楽しくなってきたトコだろ」
「楽しいのはお前さんだけじゃ。ワシゃぁ見ての通り老体での、あまり荒事は好かんのじゃよ」
よく言う、とディノは声に出さず笑う。
本性を現したこの老人からは、腐臭が漂っている。人を殺めることを愉しむ、闇の住人の臭い。
それも、ひどくねじ曲がっている。
レドラックや先ほどの男のような、融合を施した人間を使い捨てるというやり口。それを、心の底から愉しんでいる。歪曲した愉悦という名の腐った臭いが漏れ出ているのだ。
「そうじゃの……そんなに強者と闘うことを欲するならば、しばし待っておるがよい。この融合の技術によって、いずれ生まれよう。神にも等しき存在がな」
「さっきのだって作ったヤツなんだろ? 期待できそうにねェな。オメー自身の方がまだ楽しめそうだぜ」
「そんなに闘いたいか。ならば待て。ワシがその願い、叶えてしんぜよう」
ディノは無詠唱で左手に生み出した火球を投げつける。
赤熱した一撃は塀の上に着弾し、爆炎を巻き上げるが――
「…………チッ」
当たっていない。逃げられた。
熱源反応が凄まじい速度で遠ざかっていくことを感知し、ディノは舌を打つ。
さすがに老獪、というべきか。安易な挑発に乗る気はないらしい。
周囲は、今までの戦闘が嘘のような静寂と暗闇に包まれる。
「――んだよ、ったく。ツレないねェ」
楽しい時間は終わってしまった。
今度こそ安宿へ向かって、ディノは闇の中を歩き出す。
この一週間、ずっと考えていた。
自分はどうするべきなのか。
答えは、出そうになく。
しかし幸いにして、自分には力がある。時間がある。金もある。
学院に行く必要もない。本来であれば定期的にロックウェーブ博士の検査を受けなければならないのだが、しばらく受けていない。それも今更だろう。レインディールの国属となるつもりはないのだから。
……そもそも、学院に入った理由がとてつもなくくだらないものだったりするのだ。頃合、なのかもしれない。
『まぁでもよ、この際だ。お前の力なら、何だって出来るんだぜ。国がどうしてもダメだってんなら、何でも屋だの傭兵だの……お前の力でやれるこたぁいくらでもある。ただその場合、王都にいながらってワケにはいかねぇとは思うがな』
そんなオディロンの言葉が甦る。
『竜滅』の勇者と謳われた、黒い少年との闘い。たった今繰り広げた、キンゾルとの闘い。
率直に言って、楽しかった。
『外』に出れば、またこんな戦闘が味わえるだろうか。
最強という事実さえあれば、それでいいと思っていた。欲しいのは、その称号が生む名声だけだ。それこそ、誰もがその名を知るガイセリウスのような。
しかし戦闘によって心の奥底から溢れてくる何かが、高揚を齎す。
自分の前世は、どうしようもない戦闘狂だったのかもしれない。
「とりあえず、勢いのまま出ちまうのも手か」
安宿へ入ると、すっかり顔なじみとなっている宿の主がカウンターにふんぞり返っていた。顎ひげを生やした悪人面の壮年男は、とてもまともな職の人間には見えない。そもそも客を迎える態度ですらない。
しかし、安値で『どんな人間にも』宿を提供するという、ある意味で慈愛に満ちた精神を持ち合わせている男なのだ。
もっとも、部屋はゴミ溜めと区別がつかない汚さで、食事は出ない。飽くまで雨風を凌ぐための個室を提供しているだけである。
宿の主は、日報紙に目を落としたまま声をかけてきた。
「おう、ディノか。お勤めご苦労さん。で、いきなり外で派手にヤラかしてなかったか? ここまで聞こえてたぞ」
「文句なら絡んでくる虫に言ってくれ。ここまでに二回だぜ」
主のほうも見ずに返し、ディノは自分が連泊していた部屋へ向かう。
狭苦しい廊下を抜け、部屋に入ろう――としたところで、ドアに鍵がかかっているのを思い出した。が、鍵を取り出すのももどかしいとばかりに、身体強化を施した腕力で強引に開け放つ。ばきんと甲高い音を響かせて、へし折れた留め具が宙を舞った。
「ディノ! おめぇ何壊しやがった!」などと聞こえてくる主の怒声は無視し、狭いボロ部屋に散らばっている私物や金、全てをかき集め、これもまた部屋の片隅に放置されていた麻袋へと詰め込んだ。
袋を担いで部屋を後にし、だらだらと歩きながら、カウンターの親父のところへ行く。眉を吊り上げて睨んでくる宿の主に、百万エスク分の札束を放り投げた。
「世話になった」
「は? 何だおめぇさん、出るのかよ」
「ああ」
「イキナリだな。さっきのドンパチと関係あんのか?」
「イヤ別に。釈放されたら、外でもブラついてみようかとは思ってたんだよ」
「王都出るのか? アテはあんのか」
「ねェからいいんだろ。旅だよ旅」
「へっ……相変わらず気まぐれっつーか、おかしな小僧だ。ったくよ」
「うるせーよ」
双方、軽口を叩いて笑い合う。
ディノがそのまま踵を返し、出入り口の扉に手をかけたところで、主が声を投げかけた。
「よい旅を」
「おう」
振り向かずに返し、外の闇へと繰り出す。
一日ずっと曇っていたせいだろう、夜になってもイシュ・マーニはその姿を見せる気がないらしく、空は深淵の闇に包まれている。
神に見守られていない旅立ちなど、実に自分らしい。
この身は、いつだって神に見放されてきた。
自嘲気味にそんなことを思いながら、足を踏み出す。
そうして――ディノ・ゲイルローエンは、宵闇の中へとその姿を消していった。
ひたひたと、怪老は夜の街を歩く。
周囲を見渡せば、どこか浮き足立った雰囲気に包まれた人々の群れ。平常日の夜にもかかわらず、明らかに人通りが多い。
通り沿いの屋外席から、杯を酌み交わす若者たちの声が聞こえてくる。
「おまえさ、どんな感じだったんだよ昼間。美術館、見に行ったんだろ? 野次馬から一転、人質になったんだろ?」
「いや、凄かったぜ。神詠術爆弾が仕掛けられてる……って言われた時はどうしようかと思ったけどな。でも王様なら何とかしてくれると思ってたし、例の『竜滅』の勇者って奴の活躍も見れたし」
「陛下、敵の要求を飲んだうえで完全粉砕したんだろ? やっぱすげーよ、あのお方は」
「人質はみんな無事だったしな。兵士とかは、大ケガしちゃった人もいるみてえだけど」
興奮気味に語る彼らは、話題に尽きることもないようだ。
キンゾル・グランシュアは、密かにほくそ笑む。
――それらは、自分が成したことだ。
ノルスタシオンを焚きつけ、民衆たちに非日常の興奮を提供したのは自分。そのノルスタシオンにしても、『融合』による戦力増強を示唆し、革命の夢を見させたのは自分。
今の自分は――人を創り出し、人を動かす。
まさに、神にも等しい所業。
安心するがいい、愚かな民草どもよ。
じきに、こんなモノではない……更なる娯楽を提供してやろう。
人々は平穏を望みながらも、心の奥底では『何か』を期待している。
ならば、その期待に応えようではないか。『創製者』という威名の通り。
自分ならば、『竜滅書記』に謳われるヴィントゥラシアが齎した規模の災厄を再現することもできよう。
ふと。ほくそ笑みながら通りを行くキンゾルの視界に、それが飛び込んだ。
「……おや。これはこれは。ひっひっ」
建物の石壁に貼りつけられた手配書だった。
茶色く粗雑な紙面に踊る、『拘束対象』や『キンゾル』の文字。支払われる金額。黒一色で描かれた似顔絵。
もっと男前に描かんかい、似とらんわ――と心の底で笑う老人だったが、少ない情報でそれなりに特徴を掴んでいると褒めるべきか。
良質な画材を使うだけでも違いそうだが、街中へ貼りつける手配書に質のいい紙や染色塗料を使ってしまうと、貧しい人間などが持ち去ってしまうのだ。
それはともかくとして、
(……はて)
拘束対象の賞金首、という扱い。手配書には、今日の日付。つまり、貼られて間もないもの。
この期に及んで、自分を生け捕りにしようとしているのか。
アルディアは鋭い男だと聞いている。が、これは相手の力を見誤っているのか。そうでなければ――
「む……」
そこで何気なく腹に手を当てて、キンゾルは初めて気がついた。
カサリ、という乾いた感触。
行き交う人々だけではない。自分も昂ぶっていたようだ。ここまで全く気がつかなかった。
見れば、脇腹の一部が黒く炭化している。ディノの一撃がかすめていたのだろう。
この身体……今更、痛みは感じない。が、このままにしておく訳にもいかない。
首を巡らせれば、街の片隅に佇む一人の女の姿が目に入った。
派手な身なりをした、美しい女。客引きをしている娼婦だった。歳の頃は二十そこそこか。伸ばした茶色い髪は滑らかで、その若い肌も瑞々しい。
『この女で良いだろう』。
ゆっくりと女に歩み寄ったキンゾルは、弱々しく声をかけた。
「そこのお嬢さんや……少し、宜しいかの」
客かと思いきや枯れたような老人、しかしよく見れば脇腹に派手なケガをしている――といったところか。
娼婦はがっかりしたような表情から一転、驚いた顔に変わる。
「この脇腹のケガが少し、しんどくてのう。手を貸してはもらえんか」
「そ、そう言われても。あたし、回復の術なんて使えないし……」
分かっておるわ、売女めが。優秀な術が扱えるならば、娼婦などやっておらんだろう。
キンゾルは心中で卑下と共にほくそ笑む。
「向こうの通りに、連れを待たせておる。すまんがそこまで、肩を貸してはもらえんか?」
そう言って薄暗い路地に入り込んだ後の行動は、迅速だった。
肩を貸して横へ並んだ女に対し、キンゾルは鈍い光の灯った右手を素早く閃かせた。
女の首を光が一閃する。
娼婦は声も漏らさず、その代わりのように首の切り口から大量の血飛沫を放出させた。切り口の角度をも考慮した凶行。返り血を浴びることもなく、キンゾルは愉悦の笑みをその顔に刻む。直に触れた女の、命が失われていく過程を愉しむ。
それでいて、手順の決まった仕事をこなすかのような慣れた手つきだった。これまでに幾度となく同様の行為を繰り返していることの証左でもある。
力をなくした女の身体を薄汚れた地面へと放り出し、
「ひっひっ……すまんすまん。借りるのは『肩』ではなく、『腹』なんじゃ」
微塵も悲哀の篭らぬ声で告げ、娼婦の服をはだけさせた。
おもむろに、女の腹部へ右手を突き入れる。ぷつんと皮膚が裂け、温かい肉の内側に指先がねじ込まれていく感触。
そのまま円を描くようにぐるりと指を這わせ、ぞぶぞぶと肉を裂いていく。腹の一帯を、文字通りの意味でもぎ取った。
目の高さに掲げてみる。
「ほぉ……」
指先に瑞々しい弾力を返してくるその肉塊。白く美しい皮膚に覆われた表層とは裏腹に、黄色くどろりとした脂肪が、血を滴らせながらだらしなく垂れ下がっている。
しかしその差異が、むしろ興奮を引き立てるとすら怪老には感じられた。
キンゾルは肉の塊を左手に持ち替え、今度は自分の腹――炭化した部分を、右手で丁寧に切り取って捨てる。そして、左手に持った女の肉を腹へと押し当てていく。
「ひ、ふひ……」
肉が絡み合い、混ざり合い、自分のモノとなっていく感覚に、キンゾルは涎を垂らしそうになった。
自分だけが味わえるだろう快楽。その全能感は、老いた今となっては性交などより遥かに強い刺激となってキンゾルの脳を蕩けさせる。
全てを穿つ死の右手、全てを接ぐ生の左手。
キンゾルはこうして、劣化した身体の部位を新しいものと入れ替え続けていた。
ツギハギを繰り返した身体は、部位によって色や肉質も明らかに異なっており、まさしく無理矢理に繋ぎ止めているような違和感を覚えさせる。
しかし老人は、そこに神性さえ感じるようになっていた。
神に与えられるままの肉体ではない。誰もが抗えぬ老化という現象に反逆し、思いのまま肉体を創り変える。
『おじいちゃん、やめて』
『オジイチャン』
『オジイチャン ドコニイルノ オジイチャン』
この行為に耽るたび、初めての夜を思い出す。切って、繋ぐ。千切って、接ぐ。
人類を超越していることをはっきりと認識した、あの夜を思い出す。
キンゾルの神詠術の本領は、これだった。
魂心力の宿った部位を奪うことができると気付いたのは、ほんのここ数年のことだ。これまで百年近い人生の中、ただ切り離して繋ぐことしか知らなかった。
何と無為な時間を過ごしたのだろう。己の中に眠る真の能力に気付かぬまま、膨大な時間を無駄にしてしまったのだ。
女の肉を我が物としたキンゾルは、ポンポンと腹を叩き、その感触を確かめた。
そこだけ新しく塗り替えた壁のような白さ。瑞々しい質感。女の柔肌。満足したキンゾルは、暗い夜の路地を歩き始める。ひたひたと。
さて、ノルスタシオンも中々に楽しめる玩具であった。次はどんな迷える子羊に、『力』を与えてくれようか。
まだまだ試験的な運用も試したいところではあるが――
夢想するキンゾルの耳元に、静かな波紋が広がった。幾重にも輪を描く大気の揺らぎ。指で弾いて受け取れば、
『失敬。ご無事ですか、先生』
応答するよりも先に、低く、それでいて労るような男の声が木霊する。
「おお、メルコーシアか。そういえば、夜に連絡を寄越すと言っておったかな」
興奮のためか、すっかり失念していた。しかし、通信の相手はそれで気分を害するような素振りすらみせない。逆に、気遣いに満ちた重低音を響かせる。
『は。此度は、より危険な「ディエティ」と接触するとの事でしたので。杞憂かと思いましたが、やはり――』
「ひっひっ。お主は心配性でかなわんのう。それとメルコーシアよ、この国では『ペンタ』じゃぞ。異邦人と悟られる発言は控えた方がよいな。信心深い国じゃしの、異端だなどと認識されては、どのような目に遭うやら。恐ろしいことじゃて」
腹を負傷した件は黙っておくべきかな、とキンゾルは喉の奥で笑った。この男のことだ、今すぐディノの首を獲りに行くなどと言い出しかねない。
『は……申し訳ありません。して、その「ペンタ」は』
「残念ながら、逃げられてしもうたよ」
『そうでしたか。しかし、先生がご無事ならばそれが最良です。貴方は、その地において手配を受ける身でもあります。僭越ながら、今後は自分が業務を引き継いだ方が宜しいのでは』
「考えておくとしよう。お主に仕事を奪われては、ワシのやることがなくなってしまうのでな」
生真面目な男に、老人は笑った。
「して、そちらは片付いたかの?」
『は、滞りなく。目標の盗賊団は壊滅。構成員十八名、全員の遺体を回収済みです』
「ひっひっ、さすがじゃの。単騎で賊の一団を壊滅……おとぎ話としてはありきたりじゃが、実際に成すは一流の騎士とて難し。お主の武術……ほれ、何といったか」
『――システマ、です』
「そうそう、しすてま、じゃったな。お主の真世術と武術の融合は、戦士としての極致といえようて」
『は……、光栄です』
通信の向こうで頭すら下げていそうな、低くも重い声でメルコーシアは答えた。
「さぁて……ではひとまず、臓器の選別をせねばなるまいな。大成するにも、こういった地道な作業の繰り返しじゃて」
『は。お待ちしております』
通信を終え、老人は再び歩き始める。
メルコーシアの言う通り、今や身柄を狙われる立場。融合による相性や特性も少しずつ掴めてきたところだ。そろそろ、己に忠実な兵を『作り上げ』たい頃合だった。
メルコーシア単騎でも絶大な戦力ではあるが、武力が高いに越したことはない。
新たな何かを生み出すために、試行錯誤と失敗を繰り返す。
この過程が、キンゾルにとっては愉しくて仕方のないものだった。
齢九十一にして己が愉悦のために厄災を振り撒く悪夢のような老人は、夜の街並みへとその姿を消していく。
闇の中、気だるく身を起こす。
身体にかかっていた薄手の毛布が、ぱさりとベッドから滑り落ちた。
「…………」
拾い上げるでもなく、ナスタディオはただ溜息をつく。
指先に光を点し、枕元の置き時計を確認する。まだ夜半。随分と中途半端な時間に目を覚ましてしまったようだ。
逃亡したというノルスタシオンの残党、ブランダル。
あちこちで当人らしき不審人物が目撃されていたようだが、金で雇われた偽者だ。国外逃亡を企てているとの情報もあったらしいが――
読み通りに事が運んでいれば、本物は今頃、消し炭と化しているだろう。確保すれば『融合』に関する情報が得られるかもしれないが、あまり期待はできない。
……何より、『オプト』を早く休ませてやりたいと思った。
ディノには、あえて何も伝えなかった。
ナスタディオですら文字通りの意味で目の色を変えそうになってしまう、ディノ・ゲイルローエンという逸材。造られた『紛い物』では、足元にも及びはしない。
四位のディノと二位のドニオラは、本質的に『違う』。常に闘いの中に身を置いているせいもあるだろう、油断や隙といったものが存在しない。自分に近い性質を持っているといえる。
幻覚が発動する際の『揺らぎ』を見逃さなかったのは、学院の『ペンタ』でもあの二人だけだ。結果として無自覚に破ってしまった一位も大概だが。
ふと、
『了解っす。学院長先生の教え子たちは、俺が無事に連れ帰りますんで』
昼間の、そんな少年の言葉が甦った。ディノすらも退けたという少年。
宣言通り、彼はリーフィアを……ベルグレッテたちを助けることに成功した。
さらには、リスクを承知のうえで、遊撃兵となることを決めたようだ。ただ流されるだけではなく、確かな芯も備えている。
……そこは若々しい少年。ベルグレッテと一緒にいたい気持ちもあるのだろうと考えれば、微笑ましくもなるのだが。
学院を救った。ガーティルード姉妹を救った。ミアを救った。そして、今回。
初見の幻覚も破れなかったし、最初は正直、彼の活躍というものは誇張された噂話なのではないかと思っていたが――
「アリウミリューゴくん、かー……」
ぼう、と点された指先の光。
女は気付いていない。
薄明かりに照らされた己の瞳が、どろりとした金の輝きを宿していることに。




