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神社で出会った金髪碧眼の巫女様は、なぜか俺を「勇者様」と呼んだ件

 ──まただ。

 何度も、何度も見てきた夢。

 剣と魔法の、現代とはまるで違う世界。

 俺はそこで戦っていた。人々のために。そして大切な姫のために。しかし、最後は決まって魔王との一騎打ち。

 勝ちも負けもなく、互いに斃れて、そこで幕を閉じる。それから断片的に流れる映像の中で、金髪碧眼の姫が言う。


『必ず、ここに帰ってきてください』


 とても切実に、祈るように。

 ごめん、と謝ろうとした次の瞬間、ガタンと視界は大きく揺れて。

 俺は、目を覚ましてしまった。


「……またあの夢、か」


 視界に飛び込んできたのは革張りの座席と、吊り広告、そして窓の外を流れる住宅街。

 魔王も姫もいない。

 ここは、ただの電車の中だった。

 深く息を吐く。心臓が変に速い。夢の余韻から、まだ抜けていない。

 ……ああ、なぜだろう。あの姫に『帰ってきて』と言われるたび、胸の奥に奇妙な罪悪感が残るのは。

 幼いころからボッチな俺は、そんな約束を、誰ともした覚えなんてないのに。

 キャリーケースのハンドルを握り直す。手のひらが、じんわり汗ばんでいた。

 ゆっくり顔を上げる。次の駅は目的地だ。

 降りれば、しばらくの間。

 平凡な日系男子の俺──結城(ゆうき)刀真(とうま)の新しい生活が始まる。






「おお、ここが八百万(やおよろず)市……」


 改札を抜けた瞬間、鼻先をかすめる空気の質が、まず違った。

 都内の駅に染みついた油と鉄の匂いはなく、かわりに湿り気を帯びた土と、石畳に残る朝露の冷たさが肌を撫でてくる。

 視界に広がるのは、高層ビルの林立ではなく、瓦屋根の連なり。屋根の端から端へと飛び移るように、神社で見かけるような紙垂が風に揺れていた。

 もしかして、あれは魔除けだろうか。街そのものがひとつの祭壇みたいに、神々を招き入れる準備をしているように見えた。

 遠くの山肌には薄靄がかかっていて、朝日が射すたびに輪郭がにじむ。鳴り響くのは電車のブレーキ音じゃなく、軒先に吊された風鈴の合奏だ。


「……全然、東京とは違うな」


 思わず声に出していた。

 ここは、四季ごとに神を奉り、魔除けの祭りがあるという街。

 聞きかじりの知識ではあったが、実際に立ってみると、その空気の濃さに圧倒される。通勤客の靴音さえ、この街のリズムに従っている気がした。


「よし。……今日から、ここで俺の新しい生活が始まるんだな」


 鞄を肩に掛け、小さく深呼吸する。

 明日から高校生活。両親は海外赴任中で、日本にはいない。

 そんな俺は両親に紹介されて、この地にある神社に居候することになった。

 唯一合格できた進学校に通うためでもあるが、一人暮らしではなく居候することになった大きな理由は俺の体質だ。


 そう、不幸体質。


 名前のとおり、やたらと不運を呼び寄せる厄介な属性。幼いころからずっとだ。

 例えば、階段を踏み外して捻挫。走ってきた犬に突き飛ばされて池ポチャ。いや、笑えない不幸も何度かあったか。

 親戚は笑って「ドジっ子」って言うけど、俺にとっては切実な問題だ。

 そのせいかわからないが、あれも見える。


 ──目の前の女子中学生に憑いている、黒い霧のようなもの。


 あれは普通の人間には見えないらしいが、俺には昔から見えていた。

 しかも、この黒い霧には厄介な特性がある。一つは女性に憑くこと。なんでかは知らないけど、共通しているのは俺から見て輝いている女性に憑いている気がする。

 で、普通なら男にはあまり憑かないはずなのだが、何故か俺にはバッチリ憑く。しかも、めちゃくちゃ高頻度で。

 子供の頃は、親に言っても信じてもらえなかった。むしろ気味悪がられて、黙るしかなかった。

 しかし、俺の中ではもう確定している。あれは良くないものだ、と。


「……渦巻いてるってことは、そろそろ弾けそうだな」


 しょうがない、やるか。

 眦をつり上げて、覚悟を決める。少女に気づかれないように黒い霧に触れると、それは俺に移動した。

 そして弾けた瞬間、タイミング悪く駅前を駆け抜けた一匹の黒色の猫が、俺の足元に強烈なタックルをしてきた。

 避けようとしたけど、間に合わない。足に絡みつかれ、そのまま──


「うお……っ!?」


 ズテーン、と地面に崩れ落ちる俺。足首を捻ってしまい、激痛に膝をつく。

 何も知らない女子中学生は、そんな俺をチラ見して立ち去った。

 ふう、やれやれ……俺はいつもこうやって、少女を無償で助け、己の不幸を引き受けている。

 いや、普通なら「やめとけ」と思う状況だろうが、俺は放っておけない。

 昔から困っている人がほっとけなくて、つい手助けしてしまう。そうしないと気がすまないのだ。

 まったく、俺の前世って勇者レベルの善人だったのか?






 駅から神社に向かって移動している間に、足首の捻挫は完治していた。

 昔から治癒力が人並み外れているのは、この身体の唯一の利点である。


「まぁ、骨折も一週間くらいで完治するから、医者や周りには気味悪がられたけど」


 また一つトラウマを思い出しながら坂道を上ると、桜並木が見えた。

 この先に、俺が今日から居候する──天祇(あまぎ)神社がある。

 少しだけ、歩く速度を上げた。

 神社へと続く坂道は、両脇を桜並木に挟まれている。まだ満開には早いけれど、枝先には薄桃色の花がほころび始めていて、歩くだけで胸が少し浮き立つ。

 花びらが一枚、ひらりと俺の肩に落ちてきた。まるで歓迎されてるみたいで、思わず小さく笑ってしまう。


(……こういうの、誰かと並んで歩いてたらもっと絵になるんだろうな)


 そんな妄想をしながら石畳を踏むたびに、足音が静かな参道に響いて、やけに一人きりだってことを強調してくる。

 けど、その静けさの中で、鳥のさえずりや風に揺れる枝の音が鮮やかに聞こえて、なんだか心地いい。

 ようやく朱色の鳥居が見えてきた。桜色と朱色の取り合わせが、やけに鮮やかで、ちょっとした観光地みたいに見える。

 鳥居をくぐると、空気が変わった。木々のざわめき、土の匂い、春の陽光。

 境内は静かで、朝の湿った木の匂いが心地いい──はずなんだけど、俺の周囲には自然と憑いてきた黒い霧が浮いていた。


「……はぁ、ばっちり憑かれてるな」


 境内の中を歩きながら、ふと思い出す。ここを紹介してくれた親戚の言葉を。


『あの神社なら、刀真君の不幸体質もどうにかできると思うのよ』


 これで何度目だろう、と思った。

 親が心配して、親戚がすすめて、俺自身だって藁にもすがる思いで、何度かお祓いを受けたことがある。

 けど、結果は大体同じだ。霧に憑かれて、三日後には階段から転げ落ちるか、自転車のチェーンが外れて盛大にすっ転ぶ。まったく効いていない。

 だからこそ、「神社に居候すれば運気が上がるかもしれない」なんて話を聞いた時は、正直鼻で笑った。

 運気アップだの恋愛成就だの、そんなの都市伝説みたいなものだろう。なんせ俺には、不幸の元凶が見えてるんだから。

 ちなみにネットを覗いてみれば、「巫女さんがめちゃ可愛い」「就職が決まったのはご利益だと思う!」「彼女ができました!」みたいな投稿がずらずらと並んでいる。

 ……いやいや、怪しさ満点じゃないか。証拠はないし、そんなんで信じられるわけがない。


「俺の特殊な不幸体質は治らないと思うから、普通に高校生活を送れたら御の字かな……」


 そんなネガティブ思考に陥りながら、巫女さんか誰かいないのか探す。そのときだった。


「っ!?」


 視界の端で、黒い霧が揺れた。

 反射的に足を止めてしまう。

 霧の中心に、小さな女の子がいた。母親らしき人と手をつないでいる。

 だが、その子の周囲には俺の周囲に漂う黒い霧よりも、ヤバイのがはっきり見えた。

 まるで墨汁を溶かしたみたいな黒。しかも、普通のより濃くてデカい。


(まずい……あれは、やばいやつだ)


 鳥肌が立ち、心臓が早鐘を打つ。

 黒い霧は、必ず不幸を起こして消える。

 つまり、あの子に自分と同じように、何か悪いことが起きる可能性が高い。しかもあの規模だ。下手したら命に関わるかもしれない。

 頭の中で警告が響く。けれど、そのすぐ後に、胸の奥が熱を帯びるように疼いた。


 ──助けろ。彼女を放っておくな。


 声というより、魂が訴えかけてくる感覚。

 意味はわからない。ただ、昔から不思議と抗えない強い衝動が、心臓を鷲づかみにしていた。


「……やれやれ、やっぱり神社に御利益なんて期待するだけムダなのかな」


 軽口を叩いて誤魔化しつつ、眦をつり上げ、駆け寄ろうとした瞬間。




「──(はら)(たま)い、(きよ)(たま)え、(かみ)ながら(まも)(たま)い、(さきわ)(たま)え」




 澄んだ声が、静かな空間に響いた。

 驚いた俺は目を見開く。

 金色の髪が、淡く輝いていた。

 長い髪を後ろで緩くまとめ、白い巫女服を身に纏う少女。

 青い瞳は湖のように澄んでいて、立っているだけで空気が変わったみたいに感じる。

 とんでもなく、美しい。


 俺は呆然と立ち尽くし、その光景を見た。


 少女が両手をかざすと、柔らかな光があふれ、黒い霧を包み込む。墨のような黒が、光に溶けるみたいに消えていく。

 小さな女の子の顔色は徐々に良くなり、安心したように母親の手をぎゅっと握りしめた。


「す、すげぇ……」


 その光景に思わず声が漏れる。

 まるで、魔法みたいだ。いや、魔法以上に神秘的で美しかった。

 女の子と母親は深く頭を下げ、少女にお礼を言って立ち去っていく。

 その背中を見送りながら、俺はまだ心臓の鼓動が落ち着かない。


(なんだ今の……光で、黒い霧を……?)


 俺の知る限り、あの黒い霧を祓える人間なんて見たことがない。

 ……というか、そもそも、俺以外に見える人がいたこと自体、初めてだ。

 一体何者なのか。巫女の格好から察するに、この神社に務めている人だとは思うが。

 そんな好奇心で頭がいっぱいになり、完全に油断していた俺は。


「──うわっ!」


 突然、周囲に浮いていた黒い霧が弾けて強風が吹く。そして、どこからか飛んできた新聞紙が、顔面に直撃した。


「ちょ、ま……前が見えな……!」


 慌てて剥がそうとした瞬間、運悪く足を滑らせてしまい、尻もちをつく。

 よりによって、こんなタイミングで。

 誰かに見られる前に新聞を剥がし、立ち上がろうとしたら、すっと手を差し伸べられた。


「大丈夫ですか?」


 その声に慌てて顔を上げると、目の前にさっきの少女がいた。

 思わず息を呑む。至近距離で見たその顔は、やっぱり、とんでもなく綺麗だった。


「ゆ、勇者様……?」


「え?」


 その言葉に一瞬、時が止まった。

 目を丸くすると彼女は、しまったという顔で、慌てて両手をひらひらさせる。


「ち、違います! 今のは、その……比喩です! えっと、冗談みたいなものです!」


 必死で誤魔化す彼女を前に、俺は混乱することしかできなかった。

 ……でも、何故だろう。彼女を見ていると、勇者という言葉に、不思議な感覚が胸の奥をかすめた。


 この光景を俺は、知っている気がする。


 理由なんてない。

 ただ、強烈な既視感。

 目の前の少女と、この神聖な場と、無様に尻もちをついている俺。そして『勇者』という言葉が、自分の中の何かを揺さぶった。


「えっと……、冗談……ね?」


 俺は新聞を片手に固まりつつ、彼女を見上げる。正直、混乱はしていた。

 けれど、彼女は真剣な表情で頭を下げる。


「……ごめんなさい。変なことを言いました」


 その仕草が妙に様になっていて、怒るどころか、逆に動揺してしまう。

 落ち着け俺。ここで顔を赤くしてどうする。深呼吸して落ち着くんだ。


「いや、別にいいんだけど。……その、手を貸してくれてありがとう」


 お礼を言って、差し伸べられた手を掴んで立ち上がる。彼女は巫女服の裾を直しながら、柔らかく微笑んだ。


「えっと、怪我はありませんか?」


「ちょっと尻が痛いくらいで……まあ、いつものことだから大丈夫だよ」


 そう言いながら、俺は彼女の顔を改めて見つめてしまう。

 金色の髪に、青い瞳。まるで絵本から飛び出したお姫様みたいで、正直に言うと目が離せない。どタイプだった。


「あの……」


「ん? な、なに?」


「ここに来た理由は、もしかして……」


 彼女は一瞬、言葉を探すように視線を泳がせたあと、(おもむろ)に問いかけた。


「結城刀真さん、ですよね」


「……え、なんで俺の名前を?」


「今日から、この神社に滞在されると、お母様から聞いています」


「ああ……そういうことか」


 ちょっとホッとする。

 てっきり、また意味深なことを言われるのかと思ってしまった。


「その……初めまして。私は──星ノ宮(ほしのみや)アリスと申します。お気軽に、下の名前で呼んでください」


「え? 俺達、今会ったばかりなのに?」


 思わずそう返すと、彼女はほんのり笑みを浮かべる。けれどその目は、どこか懐かしさを秘めているように見えた。

 俺は迷った。普通なら断るべきだろう。あまりにも距離が近すぎる。

 でも、彼女の真剣な表情を前にして、強く首を振れる自信はなかった。


「……わかったよ」


 喉の奥がやけに渇いて、声が上ずる。ぎこちなく、彼女の下の名前を呼んだ。


「……あ、アリス……これで良いか?」


 その瞬間、アリスは本当に嬉しそうに笑った。まるで、ずっと待ち望んでいたものをようやく手に入れたかのように。


「はい、ありがとうございます」


「……っ」


 俺は理由のわからない胸のざわめきを覚えながら、視線を逸らした。


「え、えっと……アリスは、この神社の人?」


「はい。星祇神社の宮司の一人娘で、小さいころから巫女をしています。本業は学業ですが、それ以外は神社の掃除や参拝者の対応、それと軽いお祓い等をしています」


 彼女はお手本のような一礼をした。

 なるほど、あの黒い霧を消したのは、巫女としての仕事ってわけか。

 ……にしても、ハーフなのか? 名前も見た目も、あきらかに日本人離れしてる。


「さっきさ……光で、子供に憑いてた黒い霧を消してたけど。あれ、なに?」


 アリスは一瞬、俺の顔をじっと見た。

 青い瞳が、少しだけ驚いたように揺れる。


「……やはり、刀真さんは見えるんですね」


「え?」


「私の力を説明する前に、先ずはあれについて説明しますね。あの黒い霧はご存じだとは思いますが、普通の人には見えません。古い文献に記されている〈厄災(やくさい)(きり)〉と呼ばれるものです」


 真面目な顔で彼女は言う。その言葉が耳に届いた瞬間、俺は胸の奥がざわついた。


「あの黒いの〈災厄の霧〉っていうんだ……」


「はい。人の負の感情や、呪いのようなものが集まって、あの形になるんです。放っておくと弾けて消えるかわりに、憑いた人に不幸を引き起こします。私は、それを祓う使命を幼いころに女神様から与えられました」


「……マジか、すごいな」


 思わず口を挟んでしまう。


「俺は他人に憑いているアレを、代わりに引き受けることしかできないから。祓うことができるアリスは、とてもすごいと思う」


「〈災厄の霧〉を代わりに……」


 アリスの声が、ほんの少しかたくなる。

 その瞬間、俺の胸に変な感覚が広がった。

 懐かしいような、でも思い出せない。そんな不思議で、少しもどかしい感覚。


「ふふ、なるほど。やっぱり勇者様は、自分の身を呈して人助けをしてるんですね」


「……またその呼び方」


「あ、ごめんなさい。ついクセで……」


「クセって、演劇か何かでもしてるのか?」


「そうですね。ずっと前にお姫様の役をしてたので、そのせいだと思います」


 アリスは口元に指を当て、笑みをこぼした。その笑顔が、反則レベルに眩しい。

 正直、俺の心臓がうるさいんだが。


「えっと……お母様は明日の昼まで用事で帰ってこないので、代わりに私が案内しますね。今日から滞在されるお部屋まで」


「あ、ああ。よろしく」


 俺は彼女の後ろについて歩き始める。

 神社の回廊を抜け、木の床を踏む音がやけに心地いい。けど、それ以上に彼女の横顔に、目が行って仕方なかった。

 金色の髪が、陽の光を受けてきらきらと揺れる。巫女服の白と赤が、どこか神聖で、それでいてどこか儚い。


(……なんだろう、この感覚)


 歩きながら、胸がざわついて仕方ない。

 まるで、ずっと昔に、同じような景色を見たことがあるみたいで。


「着きました。ここが刀真さんのお部屋です」


 アリスが(ふすま)を開けると、そこには畳の匂いが広がっていた。広すぎず、狭すぎず、居心地が良さそうな部屋だった。


「ありがとう。……すごいな、畳がある部屋ってなんだか久しぶりだよ」


「都内に住んでいたんでしたっけ?」


「ああ、ずっとマンションで床全部フローリングだったからさ。畳なんて一枚もなかった」


 荷物を置いて部屋の窓を開ける。コンクリートだらけの都会とは違う、森しか見えない景色に俺は口元を緩めた。

 空気が美味い。そのことをアリスに言おうと振り返ると、彼女はどこか懐かしむように目を細めていた。

 その横顔を見て、俺の胸はまたざわつく。


「……じゃあ、私はこれで」


「あ、待って」


 思わず呼び止めてしまった。

 理由なんてなかった。ただなんとなく、このまま行かれるのが、嫌だった。


「なにか?」


「えっと……さっきの、その、祓うやつ。あれって、いつもやってるのか?」


「はい。それが、私の役目ですから」


 そう言うアリスの声は優しくも、どこか淡々としていた。

 でも、その奥にほんの少し、孤独みたいなものを感じたのは気のせいだろうか。


「……そっか」


「刀真さん」


「ん?」


「もし、困ったことがあったら、私に言ってください。必ず、お守りしますから」


 一瞬、息が詰まってしまう。

 その言葉は、ただの約束じゃなく、まるで誓いのように胸に響いた。

 俺はうまく返事ができず、ただ彼女の言葉に頷くことしかできなかった。

 アリスは微笑み、静かに部屋を出て行った。その背中を見送りながら、力が抜けて畳に腰を下ろす。


「……守る、か」


 女の子から言われるなんて、不思議な気分だ。でも、その響きに、なぜだか胸が熱くなる。

 懐かしい。けれど、思い出せない。まるで遠い昔に、同じ言葉を聞いたことがあるみたいに。

 俺はふと、自分の手を見る。

 さっき、アリスに握られた手。

 あのとき、胸の奥で何かが震えた感覚を、まだ忘れられなかった。


(……なんだ、これ)


 疑問に思うが、答えは出ない。

 けれど、この神社での日々が、ただの平穏で終わらないことだけは確信できた。






 ──どうしてだろう。

 アリスのことを考えると、どこかで会ったことがあるような感覚がするのは。

 出会ったのは、ほんの数時間前。

 知り合ってまだ一日も経っていない。それなのに、どこか懐かしいような、何年も連れ立って歩いたような、不思議な親近感を覚えるのだ。

 もしかして、俺が覚えてないだけで、幼いころに会ったことがあるのか?

 そんなことを考えていたら。


「ごはん、できましたよ」


 不意に、廊下からアリスの声がした。

 その瞬間になって、俺はようやく気づく。

 ヤバイ、明日の準備が終わった後、なにもしないで座ってただけじゃないか。

 今日から居候の身なのに、台所を手伝うどころか声すらかけていない。なのに、のんきに考え事して過ごすって……これは完全に駄目人間すぎるだろ俺。

 初日から、なに腑抜けてるんだバカ。

 心の中で慌てて自分を叱り飛ばし、部屋を飛び出すと、一階のダイニングルームに向かった。


「ご、ごめん。部屋でボケっとしてた!」


「なんで謝罪してるのかはわかりませんが、のんびりできたのなら良かったです」


「……っ!?」


 アリスを見た瞬間、俺は思わず息を呑んだ。

 金色の髪を後ろでひとまとめにして、清潔感のあるブラウスやカットソーに膝丈のスカート、それに白いエプロンを身に着けた姿は、まるで料理番組のモデルみたいだった。

 いやいや、落ち着け俺。ここで変なことを考えたら、いろんな意味でバチが当たるかもしれない。

 気の利いたセリフのひとつでも出せたら良かったんだけど、俺の口から出てきたのは結局──


「……か、かわいい」


 それだけだった。

 しまった、って思った瞬間、彼女はぱっと顔を明るくして、目を細める。


「ふふ、ありがとうございます」


 まるで褒められ慣れてない子供みたいに、心から嬉しそうに。その反応に、こちらが固まってしまった。

 なんだよそれ、反則だろ。

 俺は視線を逸らす。けど、耳のあたりが熱くなるのはどうしようもない。

 頬の奥まで、じんじんしてる気がする。


 いや、待て。こんなの普通だろ?


 ただ、ちょっとした感想を言っただけで……いや、違うな。あんな風に素直に喜ばれるなんて、想定外すぎたんだ。

 しかも、その笑顔、正面から見たらたぶん、俺は耐えられないと思う。


「……そんな素直に喜ぶなよ。これくらい、その容姿なら沢山聞いてきただろ」


 思わずぼやくと、それが耳に入った彼女は首をかしげて微笑んだ。


「だって、今まで聞いてきたどの称賛の言葉よりも、すごく嬉しかったから」


 また、俺は視線を逸らした。

 完全に負けだ。勝敗なんて競ってないが、大人しく白旗をあげて席に着く。

 すると食卓に置かれたのは、アリスお手製の立派なオムライス。しかも、ケチャップで『WELCOME』と書かれていた。


「ふふ、せっかく刀真さんをお迎えするのですから、特別感を演出してみました」


 アリスは柔らかく笑って席に着いた。その笑顔、反則すぎないか?

 手を合わせて、「いただきます」と言う。それから俺はスプーンを手に取り、恐る恐るハートを崩さずにオムライスを口に運んだ。

 ──ふわとろの卵に、しっかり味の染みたケチャップライス。スーパーの弁当や冷凍食品とは次元が違う、正に家庭的な味。


「……うまっ!?」


 感動のあまり思わず声が裏返ると、それにアリスが小さく安堵する。

 しかも何がすごいって、このオムライスの具材や濃いめの味付けが、俺のドンピシャ好みだった。


「なあ、アリス……なんで、俺の好み知ってるんだ?」


 問いかけると、アリスは一瞬きょとんとした顔をして、すぐに微笑んだ。


「ふふ、ただの偶然です」


 いやいやいや、「ただの偶然」ってなんだ。普通、味の濃さとか細かい好みは分からないだろ。もしかして俺の脳内、覗かれてるのか。

 俺はケチャップの『WELCOME』をじっと見つめながら、心臓の音がやけにうるさくなっていることに気づいた。


「……うん。なんか追及するのも色々と面倒だし、そういうことにしとくわ」


「はい」


 アリスは嬉しそうに微笑み、ちょっとだけ肩を揺らした。

 その笑顔を見てると、頭に浮かんだ疑問なんてどうでもよくなるから怖い。

 とりあえず無心で食べ進めると、不意にアリスがボソッと呟いた。


「ふふ、やっぱり食べ方も昔と変わらないんですね」


「……え?」


 スプーンが止まった瞬間、彼女は何事もなかったようにお茶をすすった。

 俺の鼓動は、さらに速くなる一方だった。






 午後19時ごろ。風呂を済ませた俺は、自室の布団に倒れ込んだ。

 神社特有の木の匂いがほのかに香る部屋。なんというか、すごく落ち着く。


(……ああ、今日は色々あったな)


 オムライスうまかったし、アリスは可愛くてとても良い人だし──

 って、感想がだいぶ普通すぎないか?

 でもまあ、俺にとって「普通」ってのは、最高に幸せなことである。

 なんせ自分の周囲を浮いている、この黒い霧のせいでロクな人生じゃなかったから。


(そういえば、3時間以上経ってるのに一つしかないし、サイズも小さいな。いつもなら四つくらい集まって、サイズも五十センチくらいまで大きくなるのに)


 たぶん、この神社のおかげかもしれない。これを祓う巫女がいるのだ、親戚が言った通り、ここなら俺の不幸体質を改善できるかも。

 考えごとをしていると、不意に眠気が襲ってくる。微睡みに身を任せ、俺はそっと目を閉じた。


(……色々あったけど、明日からは高校生活。せめて、平和でありますように)


 ──それから五時間後。アラームがピピピッと、けたたましく耳元で鳴る。

 ゆっくり目を開けると、スマホの時計は午後十二時を指していた。

 アラームを止めて布団から身体を起こすと、視界を埋め尽くす程に、大量の黒い靄がふわりと浮かんでいるのが見えた。


「……やっぱり、ここでもダメか」


 決まって、人が寝静まるこの時間帯に〈災厄の霧〉が大量に集まってくる。

 理由は分からないが、たぶん一種の避雷針的な効果だと思う。実際に俺が住んでいる近所の人達は、悪夢を見なくなったとか、運が良くなったという話をしていたから。


「よし……今日も片付けるか」


 万が一にでも、室内で火災が起きるのは困る。俺は立ち上がり、外に出ようとした。

 霧の濃さ的に捻挫以上は覚悟しないといけない、そんな考えが頭をよぎる。

 でも、その瞬間。

 ガラッ、と目の前のドアが開く。


「あ……」


「どこに行くつもりですか、刀真さん」


 顔を上げると、そこには寝間着姿のアリスが立っていた。それも羽衣のような、透けた白色のネグリジェ格好だった。

 おいおいおい、深夜にそれで不意打ちはやめろ。心臓に悪い。いや、ツッコミどころはそこじゃなくって。


「な、なんで俺の部屋に……?」


「良くないものが、刀真さんに集まってるのを察知しまして」


 流石は巫女、と言うべきか。

 彼女は臆さず部屋に一歩踏み込むと、ふわりと微笑んだ。


「えっ、待っ……やばい、今すぐ離れ──」


 叫ぶ間もなく、霧が渦巻き膨張した。

 アリスを巻き込まないために下がると、彼女は距離を詰め、そっと手を伸ばす。


「祓え給い、清め給え、神ながら守り給い、幸え給え──」


 低く、澄んだ声で祝詞を唱える。

 その瞬間、霧は弾かれたように消え、濁っていた空気が澄んだ。


「……す、すごい……アレを全部……」


 呆然と呟く俺に、アリスは静かに近づく。

 そして、優しく手を握った。


「貴方が、人々の代わりに背負う重みを──“また一人で”抱えようとしないでください」


 ズキン、と胸が痛む。

 その目は、優しかった。

 でも同時に、どこか切実だった。


「ちょっ……え、え?」


 頭が追いつかないうちに、アリスはぐっと俺を布団に押し倒した。


「ちょ、ちょっと待っ──!」


「…………」


 顔を近づけてくる……のかと思いきや。

 そのまま、彼女は俺の胸に顔を埋めて、静かな寝息を立て始める。


「…………え、寝たの?」


 いやいやいや、どういう展開だよ。

 深夜二時、女子に押し倒されて、そのまま安眠モード突入ってどういうこと?

 俺はしばし呆然とした後、仕方なく肩をそっと抱き上げて、布団をかけてやった。


(……まぁ、冷えたら風邪引くしな)


 気持ち良さそうに眠る彼女の口から「勇者様……」と呟きが聞こえ、俺は小さく苦笑する。


「まったく……なんだよ、勇者様って」


 意味はまったくわからない。けれど不思議と懐かしくて、悪い気はしなくて。

 この幸せな感覚は、ただ可愛い彼女から言われるのが嬉しいとか、そんな単純な理由じゃない気がする。


「……おやすみ、アリス」


 彼女の寝顔を見ていると、胸の内側が温かくなって、ぐっすり眠れそうだった。






 夢の中で、俺は見覚えのある城の中を歩いていた。どこかで見たことがあるような長い回廊。壁にかかるタペストリーや燭台の明かりは、妙に鮮やかで現実味があった。

 やがて、大きな扉の前で足が止まる。

 心臓がやけに高鳴るのを感じながら、恐る恐る取っ手を押し下げた。

 重々しい音と共に開いたその先には、祭壇のような場所が広がっていた。

 そして中央には、一人の少女が膝をついて、神に祈りを捧げている。


「……あ」


 彼女は俺の気配に気づいたのか、ゆっくりと立ち上がった。そして振り返ると、泣きそうな顔をしてこちらに駆け寄ってくる。


「おかえりなさい、勇者様!」


 次の瞬間、少女は勢いよく俺に抱きついてきた。その顔を見たとき、俺は息をのんだ。

 彼女は、つい先日会ったばかりの、あの金髪碧眼の少女──アリスだった。


「な、なんで……」


 思わず声を上げようとした瞬間、視界がふっと白くかすんでいく。

 視界が暗転する。目を開けたとき、そこは城ではなく、見慣れない和室だった。

 天井の木目と障子。下に敷かれているのはベッドじゃなくて敷布団だ。


「ああ……そうだ。俺、昨日から神社に居候することになったんだったな」


 ぼんやりと思い出していたとき、腕に何か柔らかいものが絡みついていることに気づく。視線を下ろすと、そこには彼女の姿があった。


「え、あ……アリス?」


 どうやら昨日お祓いをしてくれた後、そのまま朝まで熟睡したらしい。

 誰かに見られたら事案レベルだが、幸いにも宮司の母親は不在で、この家には俺と彼女しかいない。


「ゆうしゃさま……」


 寝ぼけた声で、彼女は俺の腕に頬を押しつける。金色の髪がさらりと揺れて、まるで本当に夢からそのまま出てきたみたいだった。


「……お、起こしづらいな」


 苦笑しながらも、なんだか胸の奥がほんのりあたたかくなる。もしも俺が前世で勇者で、彼女がお姫様だったとしたら──。

 そんなあり得ない妄想をしていると、


 ──ピピピピピ!


 昨日遅刻しないように設定したスマホのアラームが、布団の横で鳴り響いた。


「あ、やば……入学式だ」


 一瞬にして現実に引き戻される。

 俺は慌ててスマホを手探りで止め、しがみついたままの彼女に視線を落とした。


「……とりあえず起こさないとな」


 俺は軽く彼女の肩を揺すった。





 四月の朝は、まだ少し肌寒い。

 吐く息こそ白くならないけれど、制服のブレザーの下で背筋がしゃんと伸びるのは、緊張のせいか気温のせいか。

 神社を出てすぐ、桜並木の通りを歩きながら、俺はポケットの中で手をぎゅっと握りしめた。

 桜はもう八分咲きで、風が吹くたびに花びらがちらちらと舞い落ちてくる。

 舗道のアスファルトに薄い桃色の絨毯ができていて、その上を踏むたびにカサッと小さな音が鳴った。

 通りには同じ制服を着た新入生らしき人影もちらほら見える。知らない顔ばかりで、誰もが少し背伸びをして歩いているように見えた。

 空は薄い水色で、雲はひとつもなく、春の光がやさしく差し込んでいる。

 けれど俺の胸の中は妙にざわついて落ち着かない。理由は簡単だ。隣を歩いているのが、金髪碧眼の美少女だからだ。

 ブレザーにチェックのスカート、細い脚に黒いニーソ。全部が似合いすぎて、まるで雑誌から抜け出したみたいな彼女と並んで登校する。それだけで、道行く人たちの視線が突き刺さる。

 右や左を向いても、誰かと視線が合う。そうなると、顔の向きは自然と真っすぐに固定された。


「刀真さん、小学校とか中学校のときって、どんな感じだったんですか?」


 横でアリスが俺を見上げてくる。


「ずっとボッチだったよ」


「え?」


 彼女が瞬きをする。俺は周囲に一つだけ浮いている黒い霧を指差し、苦笑して続けた。


「ほら、これのせいでトラブルに巻き込まれることが多くてさ。周りから距離置かれて、気づいたら一人。だから昼休みは図書室、放課後はゲーム。そんな毎日だった」


 言葉にしてみると、余計に情けない。

 けど、彼女は笑わなかった。

 浮いていた霧をサッと祓った後、ただじっと俺を見て、なぜか少し頬を赤らめた。


「……それでは、あの……女性とのお付き合いは……ありますか?」


 いつも落ち着いた彼女の声が、ほんの少し震えていた。


「は? ……あ、いや、ないけど」


 俺が即答すると、彼女は小さく息を吐いて、ほっとしたように微笑んだ。


「そうですか。よかったです」


「……よかったって、お前な」


 からかわれているのかと一瞬思ったけど、その笑顔はどこか本気で安心しているように見えて、俺の心臓はまた変に跳ねる。

 しかも、彼女はさらに距離を詰めてきた。ちらちらと俺の手を見て、そっと指先で袖をつまんでくる。

 いやいや、ダメだって。これ以上目立ったら、本当に公開処刑だ。

 周囲の羨望と嫉妬の視線が、もう痛いほど突き刺さっているんだから。


 ……それでも、こんなに可愛い子と並んで歩けるのを拒む理由なんて、あるはずがない。


 だから俺は冷や汗をかきながら、袖をつまむ彼女のアピールを見て見ぬふりし続けた。






 入学式を終えたばかりの教室は、まだどこか落ち着かない空気に包まれていた。

 新しい制服の擦れる音、知らない顔同士が探り合うように交わす小声の会話。

 それらが交じり合って、ざわざわとした熱気を生んでいる。

 俺の席は、一番後ろの窓際。

 しかも、奇跡というべきか悪戯というべきか、隣の席はアリスだった。


「すごいですね。隣同士だなんて……なんだか運命みたいです」


 嬉しそうに笑う彼女に、俺もぎこちなく頷く。


「……まあ、確かに奇跡みたいだな」


 ただし俺の心臓は、喜びよりも周囲から突き刺さる視線に耐えることで忙しい。窓の外に逃げたい気分だった。

 ……だってそうだろ。学校一の注目株が、いきなり俺と隣同士なんだから。

 そんな時だった。


「なるほど。あなたが、アーちゃんの言っていた“居候君”ね」


 澄んだ声とともに、すらりとした影が俺の机に腰を下ろした。

 振り返ると、そこには長い黒髪を結い上げた少女。品のある仕草に、切れ長の瞳。まるで絵巻物から抜け出してきたような大和撫子かいた。


「……えっと」


「私は夏守(なつもり)葉奈(はな)。東方の夏守神社の娘よ。よろしくね」


 自己紹介と同時に、教室の後方で俺を観察していたクラスメイトたちを一瞥すると、葉奈は小さく笑った。


「みんな驚くのも当然よ。なんせ余所者が、この街で“お姫様”的存在のアーちゃんと、仲良く登校してきたんだから」


 その言葉に、隣の彼女が頬を膨らませる。


「もう……お姫様はやめてください」


 照れ隠しのように言う彼女に、葉奈は「ふふっ」と優雅に笑って誤魔化した。

 そして今度は、葉奈の視線が鋭くなる。


「それで、同居初日はどうだった? どこまで進展した?」


「え、普通に夕食を作って……」


 彼女はさらりと答えかけて、不意に何かを思い出したのか、言葉を止めて頬を真っ赤に染めた。

 ……おい、まさか。


「へえ?」


 口角を上げる葉奈が、にやりと追及する。


「夕食のあとに何か、あったのかしら?」


「ち、ちがいます! べ、別に、なにも……!」


 慌てて両手をぶんぶん振る彼女。だがその赤面は隠せず、逆に図星を突かれたみたいで余計に怪しい。


「ふふ、なるほどね」


「ちょ、ちょっと葉奈ちゃん、からかわないでください……!」


 隣で必死にあたふたする彼女に、俺は思わず目を逸らす。……いや、どう考えても余計に誤解される展開だろこれ。

 と、ちょうどその時、教室のドアが開き、担任らしき教師が入ってきた。

 ざわめいていた空気がすっと静まり、みんなこちらを見ながらも、自分の席へと戻っていく。

 葉奈も腰を上げて俺の机から離れると、ふとこちらを振り返る。


「彼女は人気者だから、これから色々と大変だと思うけど……頑張ってね、“勇者くん”」


「……おまえもか」


 思わず呟いた俺に、葉奈は悪戯っぽく笑ってから自分の席に戻っていった。

 入学初日から、どうにも平穏な学園生活は望めそうにない気がした。






 あれから数時間後。

 昼下がりの住宅街を、俺とアリスは並んで歩いていた。

 いや、正確には──逃げ出してきた。

 ホームルームが終わった瞬間、抑え込まれていたクラスメイトたちの好奇心、それが一気に決壊したのだ。


「──ねえ、どこから来たの?」


「──二人ってどういう関係なの?」


「──え、付き合ってるの?」


 矢継ぎ早に浴びせられる質問。押し寄せる波は、一息つく間もなかった。

 たまらず俺は「ごめん、用事がある!」と言って彼女の手を握り、脱出した。

 ……けど、冷静になった今思う。その場しのぎに逃げてしまったが、これって明日がもっと怖くなるんじゃないか?

 背筋にぞわりと冷たいものが走る。

 そんな感じで俺が震えていると、隣を歩く彼女がふふっと小さく笑った。


「一晩経てば、興奮していた彼らも少しは冷静になると思いますよ」


「……そうだと良いんだけど」


 本当に、冷めてるだろうか。

 俺は不安を拭えなかった。むしろ、彼女がそう言うからこそ余計に意識してしまう。

 期待と、恐れと、くすぐったさと。

 色々と考えてしまって、深いため息を吐く。そんな俺に、アリスはこう提案した。


「刀真さん、実は帰り道に寄りたいお店があるんですけど、良いですか?」


「お店?」


「はい。おすすめのシュークリームがある洋菓子店です。疲れているときには甘いものが一番良いんです」


 金色の髪が陽の光を受けてきらめく。彼女はさらりと言うけど、俺の心臓は別の意味でバクバクした。


「……まあ、甘いものは嫌いじゃないけど」


「では、決まりですね」


 彼女は小さくうなずき、ほんの一瞬だけ俺の手に触れ──すぐに離した。

 わざとじゃないんだろうけど、それだけで俺の心臓は跳ね上がった。

 それから少し歩くと、古びた木造家屋の並びに混ざって、一軒だけ妙に明るい建物が見えてくる。

 白い外壁に大きなガラス窓。外からでもショーケースの光がちらちら覗いて、街の中でやたらと浮いている。

 扉を押すと、ふわりと甘い香りが広がった。小さく清潔感のある店内。ショーケースの中には、焼き色のきれいなシュークリームや色とりどりのケーキが並んでいる。


「こんにちは、甘橋(あまばし)さん。いつものシュークリームを二つお願いします」


 彼女が親しそうな声で告げると、ショーケースの奥で作業していた女性が顔を上げた。


「おや、アリスちゃん。二つなんて珍しいね──」


 振り返ったその人は、俺を見てぴたりと固まる。目を丸くし、そして意味ありげに微笑んだ。


「……なるほど。そういうことか」


「え?」


 女性は軽く会釈をし、落ち着いた調子で言った。


「はじめまして、私はこの店の店長、甘橋(つむぎ)だよ。よろしくね」


「よ、よろしくお願いします……」


 挨拶で安心しかけた俺に、さらに追い打ちが飛んでくる。


「ふむふむ……キミが、例の勇者くんか」


「ぶっ……勇者!?」


 俺は変な声を出してしまった。


「ち、違います! 甘橋さん、誤解を招くようなことは言わないでください!」


 アリスは真っ赤になり、慌てて訂正する。

 そんな彼女を見て、甘橋さんはくすりと笑い、俺の方をじっと見てから口を開いた。


「この街にはね、古い伝承があるんだ。

『闇を祓ふ黄金の姫まれ出でて、久遠の旅より勇者、姫の御許に帰りまうで来む』──そう語り継がれている」


「……その伝承、本当にあるんですか?」


 自分でも少し子どもじみた質問だと思った。

 けれど、彼女の語り口があまりにも自然で、まるで昨日聞いた話でもするような軽さだったから、つい確かめたくなったのだ。


「ふふ、半信半疑って顔だね」


 甘橋さんはアリスを一瞥した後、カウンター越しに俺へと微笑んだ。


「だがね、本当にあるんだよ。その言葉を記した石碑も、この街の北の丘に今も残っている」


「石碑……?」


「そう。誰が刻んだのかも分からないけど、江戸よりもずっと昔からあるとされていてね。……この土地は昔から、“日本で一番、怪異の報告が多い場所”なんだよ。夜道に光る影、空から降る声、何百年も変わらぬ姿の子ども……。そんな“あり得ないこと”が、普通に記録に残っている」


 その言葉に、背筋がぞわりとした。

 冗談にしては、彼女の目が真剣すぎた。


「だからこそ、そういう伝承がいくつも語り継がれている。この街は、“異界との境界が薄い”と言われているんだ」


 甘橋さんの声が、低く落ちる。

 その瞬間、外で鳴る風鈴の音がやけに澄んで聞こえた。

 ガラス越しに見える通りは、まだ昼間だというのに、なんだか不気味に感じる。


 ──闇を祓う黄金の姫。久遠の旅より帰る勇者。


 もし、それが本当にこの街に関係しているのだとしたら……。

 そんな馬鹿な、と心の中で否定しながらも、なぜか目が離せなかった。

 甘橋さんは何かを見透かすように俺を見つめ、穏やかに続けた。


「この街に来たばかりなら、知らなくても仕方ないさ。でもね……“その勇者”が誰なのか、今も時折、議論になるんだよ」


「勇者が……?」


「ああ。──もしかすると、君のような人かもしれないね」


 冗談めかして笑った彼女の声が、どこか現実離れして響いた。

 俺は思わず息を呑んで、隣にいるアリスをチラ見する。すると彼女は小さく首を振り、必死に否定した。


「たしかに色々と不思議なことが起きる街ですが、伝承に関しては、本当にただの伝承です。気にしないでください」


「まあ、勇者なんて呼び方は肩が重いだろうしね」


 甘橋さんは軽く笑いながらも、俺の胸元をじっと見る。


「でも──君からは、不思議な空気を感じるよ。勇ましいとか派手とか、そういうものじゃなくて……隣にいると、安心するような空気だ」


「えっ……」


「だからアリスちゃんも、無意識に裾を握っちゃうんだろうね」


「っ……!」


 視線を落とすと、本当に制服の裾を彼女がつまんでいた。

 彼女は自分でも気づいたらしく、はっとして手を放す。そして、頬をかすかに赤らめ、俯いた。


「ち、違います……。その、なんとなくです」


 消え入りそうな声。耳まで赤い。普段は誰の視線も跳ね返すような雰囲気を纏っているのに、今は小動物みたいに縮こまっている。

 俺の心臓はバクバクどころか爆発寸前だ。


「ああ、いいね。とても胸焼けしそうなほど、甘い青春をありがとう」


 甘橋さんは楽しそうに笑い、ショーケースから取り出し、シュークリームやケーキを詰めた紙袋を差し出した。


「これは私からのプレゼントだよ」


「えっ、そんな……良いんですか?」 


「良いの良いの。これからよろしくって意味と、それにあのアリスちゃんの可愛い一面を見せてもらえたんだ。二人で仲良く食べておくれ」


 俺は袋を受け取り、横目でアリスを見た。

 彼女はまだ頬を赤らめているけれど、その唇の端がほんの少しだけ緩んでいた。


「……甘橋さん、ありがとうございます」


 小さな声でそう言う彼女の横顔が、どうしようもなく眩しく見えた。

 甘いのは、スイーツの匂いで満たされた店の空気だけのはずなのに。

 それ以上に甘い感覚が、何故か俺の胸の奥まで満たしていく……。






 ふわりと甘い香りが口いっぱいに広がる。

 噛むたびに濃厚なクリームがとろけて……ああ、至福ってこういうことを言うんだと思った。


「幸せそうですね」


 隣を歩くアリスが、嬉しそうに微笑んだ。


「いや、これは本当に美味いよ。くどくない甘さ、サクサクの生地、全部が最高のバランスだ」


「ふふ、夢中になりすぎて頬にクリームが付いてますよ?」


「……あ」


 指摘されて、慌てて頬を手で拭う。するとたしかに、頬にクリームが付いていた。


「は、恥ずかしいなぁ……」


 思わず苦笑いしつつ、前を向く。

 木造の民家が並ぶ通りは、どこか懐かしい匂いがした。畳を干す匂い、味噌汁のような温かい香り、庭先で芽吹いた草の青い匂い。古びた瓦屋根の上を、春風がさらりと撫でていく。

 もう少し歩けば、神社が見えてくる。

 今日は家事を手伝う。そう自分に言い聞かせていると──そこで、ふと見覚えのある小さな背中を見つけた。


「もしかして、あの子は……」


「はい、先日お祓いに来ていた子です」


 幼い少女。その場で立ち尽くす彼女の周囲には……あの黒い霧が漂っていた。

 昨日祓ったはずなのに、なぜ?

 まさか、俺と同じように憑かれやすい体質なのか。いや、違う今やらなければいけないのは。

 黒い霧は蛇のように幼女の身体に絡みつき、肌を蝕むかのように蠢いている。


「大丈夫ですか!?」


 慌てて駆け寄ったアリスが祝詞を唱える。白い光が迸り、黒い霧は一度は散ったが。

 散った瞬間にぐるんと再び集まり、少女の身体に巻き付いてしまう。


「そんな……また戻ってきました……!?」


 それから何度祓っても、霧は形を変えて復活する。幼女の顔色は見る見るうちに悪くなり、足元に崩れ落ちそうだった。


「嘘、こんなこと……初めてです……」


 途方に暮れるアリスの横顔。

 それを見た俺は、祓う力がないけど一か八か幼女に手を伸ばした。


「ぐっ!?」


「刀真さん!」


 だが、霧に触れると弾かれてしまった。

 大きく後に仰け反った俺は、なんとか踏ん張って転倒を回避する。

 驚いたアリスは、その様子を見てホッと胸を撫で下ろした。


「だ、大丈夫ですか?」


「ああ、なんとか……」


「気をつけて下さい。……この〈厄災の霧〉は今まで見てきたものとは少し様子が違います」


「くそ、困ったな。俺が引き受けたら、なんとかなると思ったんだけど……」


「……こんな時に、お母様がいてくれたら」


「アリスのお母さんがいたら、どうにかなるのか?」


 俺の質問に、アリスは小さく頷いた。


「はい。霧の祓い方を教えてくれたお母様なら、この特異な霧を祓う方法も知ってるはずです」


「なるほど、それで連絡を取ることは?」


「ごめんなさい。お母様、こんな時にスマホを家に忘れてしまって。今日帰ってくる予定ですが、詳しい時間もわからないんです。最悪の場合、夕方に帰ってくる可能性が……」


 つまり、ここをアリスに任せて俺が走って神社に行ったとしても、彼女の母親が帰ってきているとは限らない。


「……っ」


 時間稼ぎに祓い続ける彼女は、精神力を消耗するのか表情が険しくなっていく。

 頑張っているアリスを前に、苦しんでいる幼女を前に、俺はなにもできない。

 無力感に唇を噛んだ、その瞬間。

 俺の脳裏に、知らない光景が広がった。


 ──石造りの神殿のような場所。


 そこで神官のような衣を纏った彼女が、必死に祈りの言葉を捧げていた。目の前では黒い霧に囚われた幼女が泣き叫び、光と闇がせめぎ合っている。

 なぜか胸が締めつけられる。見たこともないはずの光景なのに、懐かしささえ込み上げた。

 気づけば、身体が勝手に前へ出ていた。頭で考えるよりも、心が動いてしまう。


 ──誰かが困っているなら、“勇者”として俺が助けないと。


 ああ、そうだ……。

 昔からそうだった。小さなことでも、気づけば手を伸ばしてしまう。

 ただの性分だと思っていた。けれど今、胸の奥から熱のような衝動があふれてくる。

 それが何なのか分からない。だけど確かに、いつも俺を突き動かすものと同じだった。

 だから、迷いはなかった。

 困っているアリスの肩に手を置き、言葉が自然に口を突く。


「もう一度、俺に任せてくれ」


「刀真さん!?」


 しつこく幼女にまとわりつく、醜悪な黒い霧へ、そっと手を伸ばす。

 霧は俺を強く拒絶する。踏ん張らなければ、ふっ飛ばされてしまいそうな程の衝撃が右手を襲う。

 骨が折れても、肉が裂けても構わない。

 歯を食いしばって耐えて、突破した次の瞬間、それは俺に移り……さらに力を込めて引き剝がすと、幼女の体内に巣食っていた霧の核らしきモノまでもが、まとめて引きずり出された。

 暴れる影が幼女へ戻ろうとする。


「行かせるかよッ!」


 両手で霧を掴んで押さえつける。息が詰まりそうな重圧の中、叫んだ。


「今だ、頼む!」


 アリスは俺の声に応じ、両手を上げる。




「──祓え給い、清め給え、神ながら守り給い、幸え給え!」




 彼女の声と同時に、純白の光が霧を包み込み、断末魔のようなうねりを上げながら掻き消えた。






 その後すぐに甘橋さんが、迎えに来ていた幼女の母親と駆けつけてくれて。

 幼女は呼んだ救急車に母親と乗って、近くの大きな病院に運ばれた。

 一安心した甘橋さんは礼を言って店に戻り、それからポツンと残された俺達は、しばし無言のまま神社に向かって歩いていた。


「……刀真さん、ありがとうございます」


 アリスがふと立ち止まり、桜が舞う中で静かに微笑む。


「刀真さんがいなかったら、あの子を救うことはできませんでした」


「……まぁ、なんとかなって良かったよ」


「でも、かなり無茶をしましたね。まさかアレを引っ張り出すなんて。もしも私が祓えなくて、ご自身の身に万が一のことがあったらどうするつもりだったんですか?」


「一応、俺の身体は大怪我してもすぐ治るからさ。あの子を救えるなら、そっちのほうが良いと思って痛──っ!?」


 思ったことを素直に口にすると、不意に額に強い衝撃を受ける。

 目を丸くすると、アリスが不機嫌そうな顔で打撃を放った指を引っ込める。

 デコピンをされた。なんで?

 意味がわからなくて困惑してる俺に、彼女は口をへの字に曲げて言った。


「私は、刀真さんが大怪我する姿なんてみたくありませんからね」


「……ご、ごめん」


「わかったのなら良いんです」


「……あれ? なんだか、以前も似たようなやり取りを……っ!?」


 懐かしい感覚に首をかしげていると。

 すっと背後に気配が立つ。振り返れば、金髪の彼女とよく似た雰囲気を持つ巫女装束で黒髪の女性が佇んでいた。


「はじめまして、刀真くん。私は星ノ宮日和(ひより)よ」


「え、もしかして貴女が……」


「お母様、なんでここに!?」


 隣にいたアリスが小走りで歩み寄る。その声色には安堵が混じっていた。

 日和さんは、そんな娘を優しく抱き寄せると、俺へと視線を向け、微笑んだ。


「不穏な気配を察知したから、慌てて来たんだけど。まさかアレを二人でなんとかしちゃうなんてね。相性抜群みたいで安心したわ」


「……え? あ、相性って……どういう意味ですか?」


 いまいち要領を得ず、俺は思わず問い返す。日和さんは懐から一枚の紙を取り出し、ひらりと掲げて言った。


「あら、両親からなにも聞いてないの? アリスの婿を探してたら、喜んで貴方のことを推薦してくれたんだけど」


「……はぁっ!?」


 目を剥く俺に、しっかりと両親の承諾書を突きつけてくる。

 間違いない。滅多に会わないが、この筆跡は親父と母さんのものだ。

 ということは、俺とアリスは婚約関係?

 頭が真っ白になった瞬間、いつの間にか俺に憑いていた小さい黒霧が渦を巻いた。


「うわっ」


「刀真さん、危ないです!」


 足を滑らせて、バランスが崩れた俺の身体を、慌ててアリスが抱きとめる。


「っ……!」


 柔らかく押し付けられた感触に、心臓が跳ね上がる。

 そんな俺を見て、日和さんはニヤニヤと意地悪そうな笑みを浮かべた。


「そういうことだから、婿殿。今日からよろしくね」


 軽やかに去っていく後ろ姿を呆然と見送り、残された俺はアリスと目を合わせる。


「……ふ、不束者ですが、よろしくお願いします……」


「ま、マジかよ……」


 潤んだ瞳と、誰もが振り返る美貌に気圧され、俺はただ頷くしかなかった。


 ……今後、俺はどうなるんだろう。




 ──それから俺は様々な前世の友人を名乗る者達と出会い、アリスと共にこの街が抱えている問題の解決に奮闘し、そして前世で果たせなかったお姫様との青春を謳歌するのだが。


 それは俺を蘇らせた、この世界の神様にしか分からないことであった。

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