6 神話
兄のシメオンが、城での仕事があるという話を持ってきてくれた。嫌ならいいのだし、無理はしなくても断れる。と何度も言われたが、城で働けるのはうれしい。二つ返事をしたが、なぜかシメオンが良い顔をしなかった。
そこまで言われると不安になってくる。何か問題があるのか。アンリエットが問えば、シメオンは城での注意を教えてくれた。
「まず、城の仕事は、殿下の手伝いになる」
「殿下、ですか?」
「殿下は危険な男だから、何でも鵜呑みにしないように!」
「その殿下は、王太子殿下ということでしょうか?」
その王太子が危険な男とは? アンリエットが首を傾げると、シメオンは肩を掴んで首を振る。
「顔だけはいい。性格は最悪だ。女性に心がない」
「そ、そうなのですか?」
「一番、近付いてはならない方だ。アンリエットは特に!」
「ですが、その方のお手伝いということでは」
「だから、できるだけ近付かないでほしい!」
シメオンは力説した。クライエン王国の王太子殿下はとても女性に人気のある人だが、女性に対しての優しさが皆無で、婚約者候補を相手にもせず何年も放置し、その上婚約する気もまったくない。男女の区別はないが、その分デリカシーのない男なのだと。
そう説明を受けて、その程度ならば気にしないとやってきたのだが。
(まさか、この方が王太子殿下だなんて)
「また会ったな」
「あの時は助けていただき、ありがとうございます。お礼もできず、申し訳ありません」
「気にする必要はない。あの時は俺も忍びだったからな。必要のない助けだっただろうが」
「とんでもないことでございます」
「腕があることはわかった。しかし、君がシメオンの妹だとは思わなかったな」
「改めまして、アンリエット・デラフォアと申します。どうぞよろしくお願いいたします」
町でスリから助けてくれた男、ヴィクトル王太子殿下は、書類だらけの部屋でアンリエットを迎えた。
(これは、お話に聞いていた以上に切羽詰まっていらっしゃるみたい)
だが、他国の政務を担っていた者に、そう易々と重要事項を渡せるわけがないのだから、手伝うと言っても限定的になるだろう。アンリエットはどこまで自分に手伝えるのか、不安を覚えた。深いところまで手伝えないとなると、あまり役に立たないかもしれない。
そう思うと、どこか胸が痛むような気がした。用無しの王太子代理。十年もの間滞在し、長く王政に従事して、不要と言われたアンリエットだ。
(気軽にやってみたいなんて言ってしまったけれど、役に立てるかしら)
「まずは、仕事内容を把握できるように集中してもらいたい。忌憚ない意見をいただきたいが、まずは城の中を案内させよう。補佐のトビアスだ。彼女を頼む」
後ろにいたトビアスに命じて、アンリエットを部屋から出す。
まず先に、城の説明を受けることになった。
明るい日差しの入る廊下を歩み、どこに何の部署があるのか教えてもらう。書類によっては直接聞きに行くこともあるため、把握してほしいとのことだった。人が足りていないというだけあって、案内は足早だ。終わったらすぐに書類仕事になると聞いて、アンリエットは安堵した。アンリエットでも触れる書類があるようだ。
「殿下の机を見ていただいて分かる通り、本当に書類が溜まってしまっていまして」
「お一人の方が、多くの仕事を担っていたと伺いましたが」
「よくできた方で、仕事が早いんですよ。そもそも人数が少ないので、その方が欠けただけであのようなことに。まあ、殿下の自業自得なんですが」
「どういう意味でしょう?」
「結婚が面倒で、仕事をしているふりをしているだけなんです。あ、実際に仕事はしていますよ。王妃様からの圧力を忙しいから、で避けているので。わざと忙しくしされているんです」
「結婚を避けるため、ですか」
シメオンも言っていたが、婚約者候補を放置するほど結婚を嫌がっているようだ。
(仕事の方が好きなのかしら?)
「ですから、女性を執務室に入れたことにより、少々、その、念の為、お気を付けください」
「なにをでしょうか?」
「シメオン様の紹介とはいえ、年の近い男女ですので」
ぼやかした言い方をされて、アンリエットは察した。仕事をするのにそんな目で見られるのか。そう思ったが、普通はそうだろう。と思い直す。仕事をしていて、アンリエットを助けてくれるのは男性ばかりだったが、婚約者のエダンもそこに入っている。誤解など起きるはずがなく、男性が何人執務を助けてくれても問題にならなかった。
だが今回は、婚約もしていないヴィクトルと、婚約破棄されたアンリエットだ。事実無根でも妙な噂が流れる可能性は高い。
「気を付けます。殿下と二人にならないように。殿下にご迷惑をかける真似はいたしません」
「いえ、そういう意味も、あるのですが、それとは別に」
しどろもどろと話されて、アンリエットは首を傾げそうになる。ヴィクトルと妙な噂を立てられないように気を付けろという話ではないのだろうか。
「殿下の婚約者候補の一人というのが、中々、嫉妬深いと申しますか。近くで仕事をされる女性を、誤解する可能性もありますので、不快な思いをされるかもしれません」
「なるほど。でも大丈夫ですわ。何もないのですから、きちんと説明させていただきます。その方のお名前を伺っておいてもよろしいですか?」
「ドロテーア・ベンディクス様です」
「わかりました」
婚約者候補とはいえ、長い間候補に納まっているのだから、ヴィクトルとの婚約は望んでいるのだろうし、そこにぽっと出の女が近寄ったら、仕事でも嫌な気分になるに違いない。ヴィクトルがどう思っているかはともかく、婚約者候補の気持ちも汲み取らなければ。
その気持ちは痛いほど分かる。別の誰かが好きな人の腕をとっているのを見るのは、哀しいだけでは済まない。
その姿が思い出されて、アンリエットは首を振った。ことあるごとに思い出してしまう。思い出しても仕方がないのに。
アンリエットは誠実にして婚約者候補を不快にさせないようにすると伝えたが、トビアスは納得できないような顔をしていた。
(よほど嫉妬深い方なのね。ならば、よくよく気を付けなくては)
城内を歩き続けていると、騎士たちの演習が見えた。王宮騎士団が鍛錬しているようだ。その中にシメオンの姿が見える。シメオンはいち早くアンリエットに気付き、軽く手を上げた。しかし、遠巻きに令嬢たちが集まっていて眺めていたので、ぎろりとアンリエットを睨み付けてくる。
シメオンを見学しているのか、他の騎士たちだろうか。自分はただの妹だと言いたいが、これがヴィクトル相手だったらと思うと、すぐに誤解を解くのは難しいかもしれない。確かに気を付けなければならないだろう。
騎士たちの演習所を後にして、魔法使いのいる建物を案内され、軽く見て回る。興味津々と見られるのに恥ずかしさもあるが、軽く会釈してその場を過ぎる。
「こちらが書庫です。許可を得れば誰でも入れます。仕事で使用するような資料は別の書庫に入っていますから、そちらも後で案内いたします。この書庫は、令嬢も好きに使用されて問題ありませんよ」
「まあ、本当ですか? とても広いのですね」
「ええ、蔵書数は我が国の中でも一番ですから、と、少々お待ちいただけますか。好きに見て回っていただいて結構ですよ」
トビアスが誰かに呼ばれて、忙しそうに書庫から出ていく。トビアスは補佐をしているのだから、実のところ、アンリエットを案内している暇はないのだろう。
できるだけ早く仕事に慣れなければ。そう意気込みながら、アンリエットはふらりと書庫を見回す。蔵書数が多いと言うだけあって、かなりの量だ。本を読んだり書き記したりしている人も多い。ふと、アンリエットは足を止めた。スファルツ王国の本がある。
「他国の書庫で、スファルツ王国の本を見るのも新鮮ね」
スファルツ王国の本は隣国だけあって揃えられているようで、見覚えのある本ばかり並んでいた。懐かしさを感じるほど離れている時間は長くないのに、気になってしまう。けれど、それらをゆっくり眺めているだけで、気持ちが暗くなってくるのを感じた。無駄な真似をしているような気がして、アンリエットは避けるように踵を返した。
「わっ!」
「あ、申し訳ありません! 大丈夫ですか?」
「だ、大丈夫です」
いきなり振り向いたので、別の棚を見ていた男の子にぶつかりそうになった。驚いて持っていた本を落としてしまったので、アンリエットがすぐに拾う。ふと題名を見て、アンリエットはその男の子の顔を見つめた。アンリエットより年下だろう。青年とも子供とも言えない、学生のような男の子が読むにしては難しい本だ。
「申し訳ありません。私が突然振り向いたので」
「とんでもないです。僕が本を眺めて歩いていたから。あの、ありがとうございます」
「難しい本を読んでいらっしゃるんですね。スファルツ王国の、もう使われていない古代語で書かれた本をお読みに?」
「あ、はい。物語調になっていて、面白くて」
「この本は私も読んだことがありますわ。子供の頃ではとても読めませんでしたけれど」
スファルツ王国で最初に読まされたのが、この古代語で記された古い神話だ。スファルツ王国が王太子を盲目的に信頼するきっかけになった、神話が描かれている。
「この本を読まれるんですか? スファルツ王国の古代神話を読まれる人なんて、家庭教師以外で初めて会いました。古代語の本もあまりなくて、読むの、大変ですよね」
「現在使われている言葉ではありませんし、スファルツ王国でも読める者はほとんどおりませんからね」
それを、若い男の子が読んでいることに、アンリエットも驚きを隠せない。よほど優秀な子供なのだ。
「あの、では、もしかして、この章を読めたりしますか?」
「精霊と人間が隔たれて、精霊は姿を消した。精霊から見放された人間の世界は、魔物に支配される」
古くは精霊と人間が仲良く暮らし、精霊が魔物を追い払ってくれていた。けれど人間はその平穏に慣れて精霊を蔑ろにしてしまった。その結果精霊と共に暮らす世界は終わり、人間は魔物との戦いを強いられる。この世界は魔物がいて、その魔物に人間は今でも苦しめられている。
これは古き神話だ。精霊は人間を捨ててしまった。けれどその後のいつかの時代、精霊から助けを得る者が現れる。結局精霊は人間を助けることになった。精霊から選ばれた者。スファルツ王が好んだ話に繋がるのである。
男の子は、人間を捨てることになったという辺りで詰まっているようだ。
「精霊たちは、隔離した世界から、人々の愚かさを嘲るのだと」
「そう訳すんですね。興味深い話です。その精霊たちがいる場所はまだあるのだと、家庭教師に聞いたことがあります。だから悪いことをする人はそこには行けないのだと教えられました。それで、この本を原本で読んでみたくなり、翻訳に力を入れていて」
「まあ、それは素敵ですわ。この本自体珍しいものですし、大変な試みですね」
子供なのになんて偉いのだろう。心からそう思って褒めると、男の子は顔を赤くした。城で本を探して読んでいるとなると、併設されたアカデミーの子供だろう。アカデミーの書庫を使わず、城の書庫まで来るのは、蔵書数の多さのためか。
「あの、もしよかったら、」
男の子が何か言おうとした時、トビアスが急いで戻ってきた。アンリエットを探しているのだろう。
「申し訳ありません、私はこれで失礼しますね」
「あ、」
なにか言いたそうにしたが、トビアスの顔色が悪い。焦っているように見えたので、急いでトビアスを呼ぶ。
「令嬢。問題があったので、一度戻りましょう」
「何があったのですか?」
「魔物が出たようです」




