38 迷い
「殿下、お兄様」
エダンとの話が終わり、討伐の開始位置へ移動するため馬を繋げていた場所まで行くと、まずシメオンが目くじらを立てた。エダンがアンリエットと同じように木々の中へ姿を消したのに気付いたのだろう。シメオンならばエダンを見ていたはずだ。
「あの野郎は、何の用だったんだい?」
「メッツァラが妙な動きをしているそうです。誰かを目的としているかもしれませんので、できるだけ気を付けた方が良いと。何かあれば、連絡を。魔物討伐中におかしな動きをされては、綻びも出るでしょう。被害を少なくするためにも、注視すべきかと」
「そうか。あの場では口にできない話だな」
ヴィクトルは表情なく返してくる。顔色が悪いわけではないが、表情に力が感じられなかった。
(いえ、違うわ。何だか少しだけ)
テントの中で、メッツァラ家の騎士団長と魔法使いの長がいる場所で、エダンはヴィクトルにそんなことは伝えられない。だからアンリエットに伝えるのは仕方のないことだ。エダンとアンリエットが、隠れて話すしかない。
ヴィクトルが自分自身に言い聞かせるような、覇気のない声を出すのだから。アンリエットにはそんな風に聞こえた。
殿下が想像していることではありません。そう言ったとて、何の慰めにもならないだろう。
(私の態度が、殿下を惑わせているのかしら)
けれど、この討伐が終われば、エダンに会うことはない。クライエン王国にいるアンリエットが国境を越えることはないからだ。たとえ王に呼ばれたとしても、行くことはないはずだ。そもそも王がアンリエットを呼ぶことはない。エダンが王配になることはないとしても、王の代わりに国を跨ぐことがあるかはわからない。
だから、会うのはこれが最後だ。
そう思うと、妙に胸がざわついた。
一度でいいから、機会をくれと言ったのはエダンだが、その機会はあるのだろうか。あったとして、アンリエットはどうすればいいのか。まだ決めきれていない。
ただ、エダンに変化があったことはわかった。彼は変わろうとしているのだ。アンリエットのために。
それが、不思議な感覚を作り出していた。
(あんな風に笑うのね)
エダンが笑ったところを見たことがないわけではない。エダンだって笑うし、感情をあらわにすることもある。ただそれが、人よりも少ないだけで。
先ほどの笑みは、それよりもずっと穏やかで、温かな笑みだった。
エダンが、アンリエットを想っているのだとわかる微笑みだ。
その微笑みを見て、急に涙が出そうになった。
胸が高鳴るのとは少し違う。むしろ胸が苦しくなるような、そんな感覚だった。
笑い顔に動揺して、怪我の様子はどうなのか聞くのを忘れてしまった。崖から落ちた時の怪我がそんな簡単に治るはずがない。エダンが討伐の先導をするだろうが、ある程度下がって指揮するだろう。
(無理をしなければいいけれど)
「移動するぞ」
ヴィクトルの声にハッとして、アンリエットは急いで馬に跨った。今は魔物討伐に集中しなければ。気を散らすと、仲間に迷惑をかけてしまう。
テントから離れ、自分たちの担当の場所に各々分かれる。いくつかの部隊に分かれて魔物を山の方へ追い込むのだが、この規模で動くのはアンリエットも初めてだった。アンリエットはパルシネン家領地とメッツァラ家領地の境の道へ向かうように待機する。共同討伐とはいえクライエン王国の方が魔物の出没率は少ないので、戦いが進めばどちらかの隊と合流するかもしれない。
(メッツァラ家の家臣たちに背中を預けるのは怖いわね)
スファルツ王国は各領地の騎士や魔法使いが自領を守るが、数が足りないため、他領の者たちや王宮から派遣された者たちと協力して行われる。
エダンはその指揮を執らなければならない。
皆が皆、同じ方向を向いて戦うのならば問題ないだろうが、その中にメッツァラの部下たちがいる。彼らがエダンの指示通り動くかはわからなかった。
(王女はどこで待機するのかしら。待機場所によっては、彼女に危険が及ぶ)
今回、王女が討伐に参加した理由が、ヴィクトルに会うためだと聞かされて、さすがのアンリエットも苛立ちを隠せなかった。これほど大規模な討伐を行うのに、無神経すぎる。何かあった場合、王女を命懸けで守らなければならないからだ。
エダンたちは、魔物を呼び寄せるブローチを持った王女を守りながら戦う必要がある。それは大きな負担になるだろう。
「アンリエット嬢、シメオン。無理はするなよ」
「殿下こそ、あまり前に出ないでくださいよ。指揮官は構えている方が良いのですから」
シメオンはできるだけ後ろにいてくれと思っているのだろう。しかし、ヴィクトルは戦う気で、聞かないふりをした。
王宮から来た騎士は、副団長のシメオンが総括する。アンリエットと共にヴィクトルの側で戦う予定だ。
シーデーン家領地のあの道は封じているが、あそこから魔物が溢れることもあるだろう。ヴィクトルももちろんわかっていると、そちらに騎士を割いた。
できるだけメッツァラ家の領地に入らないように戦うつもりではあるが、戦いによっては国境を跨ぐことになるかもしれない。その時にメッツァラの部下たちはどう動くだろう。
十年前、マルスランが待機していた場所は、パルシネン家領地内だった。メッツァラ家の領地ではない。マルスランが魔物に襲われたという情報はないため、その前にブローチを捨てたのだろうか。
マルスランは他の騎士たちや魔法使いたちと一緒だった。近くで魔物との戦いが始まり、そちらに赴く途中、森の中で忽然と姿を消した。
(精霊が伯父様を連れていった。そうであれば、入り口はどこにあるのかしら?)
フランが面白い仮説を立てていた。十年に一度の魔物の増加は、精霊が入り口を開くからではないか。魔物が光を嫌がって逃げるため、増加するように見えるのではないか。
ならば、入り口は少しずつ開いていっているのだろうか。
「合図だ」
角笛の音が森の中に響いた。魔物討伐の開始だ。
まずは騎士たちが隊列を組んで森の中へ入っていく。囲み漁のようなものだ。そこから魔物が溢れないように、山の方へ追いやりながら戦いを行う。村などに影響が出ないようにするための戦いだ。深入りはしない。
騎士たちの後を追うように、アンリエットたちも森に入った。気のせいか、木々が騒がしい。風で梢が揺れて動物たちが一斉に逃げていく。
「来るぞ!」
シメオンの声に、皆が緊張した面持ちになった。




