28 誘い
『そんなに心配か?』
ヴィクトルに問われて、何と返答すれば良いのか、アンリエットは言葉が出てこなかった。
逃げるように去っていったヴィクトルの背を追うこともできなかった。
時間もわからなくなるほどエダンの側にいたのだから、何と答えれば良かったのだろう。
(もう、こんな時間なのね)
部屋に戻り窓の外を見れば夕暮れで、すぐに闇が空を覆う時間になっていた。そろそろエダンと王女を迎えにスファルツ王国の騎士たちが屋敷に訪れるはずだ。知らせはすぐに出し、状況確認のために騎士が二人やって来たが、エダンが気を失っていたため、医師と馬車を用意するのに戻っていったそうだ。
王女だけでも連れていくべきだっただろうが、王女が拒否をしたのだと、廊下で会った騎士が教えてくれた。
王女は、一度もエダンの部屋に訪れなかった。エダンの無事を確認することもしなかった。
何より、エダンに助けられながら周囲に何をしていたのか叱責し、エダンが倒れていることも気付かなかったことに、アンリエットは驚きを隠せなかった。
(私が気にすることではないだろうけれど)
そう、気にすることではないのだ。アンリエットがどうこう言う問題ではない。
今はとにかく、エダンに無理をさせないことだ。エダンのことだからすぐに動こうとするだろう。頭を打ったのだから、しばらくは安静にすべきだ。馬車は揺れるし、肋骨を痛めているのだから移動するのも苦労する。魔物と戦っても無理をする人だ。言っても聞かないかもしれないが。
そう考えて、アンリエットは自嘲する。もう婚約者ではないのに、何を心配しているのかと。
簡単に捨てられて、失意の中自国に帰ってきて、その悲しみも消えないまま、記憶の奥底に閉じ込めようとしていたのに、エダンは時折出てきてアンリエットを苦しめていた。
(二度と会うことはないと思っていたのに)
倒れていたエダンを見て、あの日の悲しみと恨みなどまるでなかったかのように、一瞬で忘れてエダンを呼んだ。
自分が吹っ切れていなかったことが、よくよくわかる。
けれど、エダンがあんなことを口にするとも思わなかったのだ。
『全てを終わらせたら一度だけ会ってくれ。一度でいい。だから、それまで待ってほしい』
それでは今までの努力が無駄になってしまう。そう問うことができないほど、驚愕した。
エダンの信念を曲げるような言葉だ。
「もう今の私の立場では、あなたの役には立てない。私ではおじい様は止められないわ。だから別れに納得したのよ」
今のアンリエットの立場では、エダンを助けることはできない。
けれどエダンは、その立場でもいいと言う。
王女との婚約は、エダンの立場を確立するためのものだ。揺るぎない立場を得て、エダンは王に一矢報いるのだろう。それなのに。
あの言葉を聞いて、アンリエットの感情はごちゃ混ぜになって、ただただ、涙が流れそうになった。
エダンの言葉は、確かにアンリエットの心に残り、アンリエットの心をかき乱していった。
そして、ヴィクトルの言葉も。
寝不足も相まって、今はただ休みたい。食事もせずにそのままベッドに寝転びたいと思った時、扉を叩く音が部屋に響いた。
「お話をするのに、外へ行かれるのですか?」
「あ、あの。どうしても、お見せしたいところがあるんです。どうか、お願いします」
アンリエットの部屋に訪れたのは、シーデーンの娘。ドロテーアの友人で、茶会で花を持っていた令嬢だ。
話があるから一緒に来てほしいと言い、アンリエットを外に連れ出した。
「デラフォア令嬢には申し訳ないと思っているのです。ですが、大切なお話もあって」
その話をするためには、ある場所へ行かなければならないと言う。しかも距離があるらしく、シーデーン令嬢はアンリエットに馬車へ乗るように促した。
「その前に、馬車を確認してよろしいですか? 何か仕掛けられていたら嫌ですので」
「ど、どうぞ」
アンリエットは一息吐いて、ぐるりと馬車を一周する。御者は屋敷の者。アンリエットが視線を向けると、体をすくめて首を垂れる。
「よろしいでしょうか?」
「ええ。では、参りましょう」
アンリエットが馬車に乗ると、シーデーン令嬢は安堵したか、肩の力を抜く。対面になった馬車の中で、カラリと音を立てて動き始めた音が聞こえた。
「では、私に何を見せたいのでしょうか」
「あの、見ていただいたらわかると思います。その、口で説明するのは難しくて」
「そうですか」
シーデーン令嬢はアンリエットと直接膝を向け合って会話をするのは緊張するようだ。また肩に力を入れて、膝に置いていた手をギュッと握る。視界に入ったその手には、指輪がはめられていた。
前にあのような大きな指輪をしていただろうか。
アンリエットの視線に気付くと、すぐにその拳を緩め、手を組んで指輪を隠した。
「シーデーン令嬢は、」
「は、はいっ!」
明らかにびくついた反応で、アンリエットは目を眇めてしまう。
元々気が弱い女性なのか、それとも、別の理由か。
「な、なんでしょうか?」
「私に何か言いたいことはございませんか?」
「え? で、ですから、到着したらご説明を」
「その話ではありません」
「え? では、何の話でしょうか?」
「先にお話しいただければ、影響は少なくなるでしょう」
「どういう意味でしょうか?」
「令嬢と、ご家族への影響です」
何とは言わず、アンリエットはシーデーン令嬢をまっすぐに見つめた。
シーデーン令嬢は笑顔を絶やさないように努力をしているが、アンリエットの視線に尻込みするように、ごくりと唾を飲み込む。口元はキュッと閉じられていたが、太ももの上で重ねている手を振るわせていた。
「今なら間に合うでしょう。ですがこの機会を失すれば、後に響くことを理解してください」
「なんのことだか」
シーデーン令嬢は意味がわからないと、笑顔のまま首を傾げる。
あくまでその姿勢を崩さぬつもりならば、アンリエットがそれ以上言うことはなかった。
「そうですか。では、目的地まで待ちましょう」
馬車は速さを上げて進んでいた。辺りは暗闇で、どこを走っているのかよく見えない。けれど風の音や梢が揺れる音は耳に入る。どの方向へ向かっているのか、アンリエットは何となくだがわかりはじめていた。
「到着したようですわ」
長い時間走らせた馬車はゆっくりと停まる。アンリエットの気のせいでなければ、停まる直前に大きく旋回したように思えた。
御者が扉を開け、手を伸ばす。シーデーン令嬢は先に降りた。御者はアンリエットにも手を伸ばしてきたため、アンリエットもその手を取った。
その時だった。御者がアンリエットの手を勢いよく引っ張ったのだ。
地面に転ばされて、アンリエットは受け身を取った。その速さにシーデーン令嬢が悲鳴を上げる。
「は、早く出して!!」
シーデーン令嬢はすぐに馬車に入り扉を閉めた。御者は急いで馬に鞭を振るう。馬のいななきが木々の中をこだまして、馬車はアンリエットを置いて駆け出した。
アンリエットを一人置いて、あっという間に姿を消してしまった。
周囲に明かりはない。かろうじて月明かりが差していたが、木々の梢に邪魔されて、微かな光しか目に入らなかった。
アンリエットは走ってもう見えなくなった馬車を見送って、小さく息を吐いた。
「忠告はしたのだから、後で恨まないでほしいわ」
アンリエットは手のひらに魔法で炎を灯す。先ほどまで聞こえていた虫の音が消えた。風の音もなくなり、辺りはシンと静まる。
「さて、どうしましょうかしらねえ」
呟いて、背後から飛びかかってきた大きな影に、アンリエットは手のひらの炎を放出した。




