3−2 町
シメオンは町を案内しながら、色々な説明をしてくれた。アンリエットがいた頃とは変わっており、新しい道や建物が増えているからだ。
「ああ、忘れ物をしてしまったようだ。アンリエット、ここで少し待っていてくれるかい?」
何の忘れ物を? 問う前にシメオンは日傘をアンリエットに返すと、一瞬でいなくなってしまった。騎士が二分されて半分がシメオンの後を追う。メイドのリノンがあちらで待っていましょうと、アンリエットをベンチに促した。
その時だった。きゃっ、と女性の悲鳴が聞こえると、誰かが走ってくるのが見えた。
「泥棒!」
その声に男が反応するが、足を止める気配がない。
「アンリエット様?」
リノンの声を耳にしながら、アンリエットは日傘を一度閉じて、走ってくる男の行く道を遮るようにその日傘を開いた。
「うわっ!」
「あら、ごめんなさいね」
男が日傘に驚いて、つんのめって転げそうになる。
「てめえ!」
転ばずに済んだ男は、怒鳴りながらもアンリエットを避けて逃げようとした。しかし、すぐに閉じられた傘が過ぎようとした男のふくらはぎを打ちつけた。
「うわっ!」
男は勢いよく転んだが、すぐにアンリエットを睨みつけて拳を握る。
「この野郎!」
アンリエットは殴りかかろうとしてくる男の攻撃を軽やかに避けると、勢いでガラ空きになった男の背中を日傘で強く打ちつけた。男は止まらぬ勢いに任せて店の看板へ激突する。大仰な音を立てたが、そこまでの怪我はないようだ。
男は顔を真っ赤にして起き上がると、今度はナイフを取り出してアンリエットに飛びかかってきた。
「アンリエット様!」
首の後ろでも打ち付けて気を失わせた方が早いか。周囲の悲鳴を横にして、日傘を持ってその姿勢をとった時、黒い影が横切った。
鞘に入った剣が振り下ろされて、男が横に吹っ飛んだ。転がった男は白目を剥いて気を失っている。こめかみに打ちつけた速さは、中々の手練だ。
「勇ましい女性だな」
「助けていただきありがとうございます」
男を倒したのは、アンリエットよりずっと身長の高い青年だった。フードをかぶっているが、間近で顔を見上げたので、青年の顔がよく見えた。柔らかそうな黒髪が目元で揺れ、深い海のようなコバルトブルー色の瞳が見え隠れする。通った鼻に、形の良い唇の端が軽く上がっていた。
「ご無事ですか!? 申し訳ありません。すぐに男を衛兵に引き渡して参ります!」
騎士たちが急いで寄ってくる。転がった男は騎士たちが押さえていた。アンリエットがいきなり戦い始めたため、面食らって動けなかったようだ。
「大丈夫よ。それよりリノン、女性の荷物を渡してあげて」
アンリエットは転がっている男の処分を任せると、追いかけてきた被害者の女性を見遣った。後から追ってきていたが、無事に荷物が取り戻せてリノンにお礼を言っている。リノンは捕えたのは別の人だと説明をして、アンリエットに礼を促していたが、衛兵も騒ぎに気付いて集まってきていた。
さすがに目立ちすぎたか、アンリエットは踵を返した。シメオンに知られたら心配をかけてしまう。
「あら、先ほどの男性は?」
「すぐに去っていきました。どこかの傭兵でしょうか」
「そうね……」
騎士たちは顔をはっきり見なかったか、服装だけで青年の身分を判断した。
青年の服装はそこまで高価な物ではなく、その辺で働く傭兵のような格好をしていたが、やけにアンバランスに見えた。服装と顔が合っていないように思えたのだ。
「気のせいかしら」
「アンリエット!? 何があったんだ!」
タイミングが悪い。シメオンがやってきて、騒ぎに目を丸くした。それどころか剣呑な空気をまとい、騎士たちを睨みつける。
「お兄様、えーと、スリがいたようなのよ。それより、忘れ物は見つかったのかしら?」
「あ、ああ。これを」
アンリエットが襲われそうになったことは黙っておいて話を逸らすと、シメオンは懐から小さな箱を取り出した。
「これは?」
「開けてみてくれ」
リボンのついた箱の中には、アクセサリーを入れる箱が入っている。アンリエットが顔を上げると、シメオンは優しく微笑んだ。
「こういったものの方が好みそうだったから」
中に入っていたのは、粒のような宝石がついたネックレス。アンリエットが見ていた、エメラルドのアクセサリーだ。
まさか、このためにわざわざ店に戻ったのか?
「着けてあげようか?」
アンリエットが頷くと、シメオンはいたずらっぽく笑いながら、そっと首に着けてくれる。
「よく似合うよ」
役目を全うできず戻ってきた妹に、シメオンは優しくて、アンリエットは涙が出そうになった。
「……ありがとうございます」
「アンリエット、これからは僕たち家族がお前を守るから、何の遠慮もしなくていいんだ。言いたいことを言って、教えてくれればいい。そうだろう? それほど僕たちは離れて暮らして、幼い頃からどう好みが変わったとか、まったくわからないんだ。これからたくさん話して、今までの時間をうめていきたいんだよ」
「お兄様……」
「そろそろ帰ろうか。父上も母上も、アンリエットを独り占めしていると怒るだろうからね」
シメオンの優しさに、涙しか出ない。アンリエットは何度も頷いて、屋敷に戻った時は涙で目が真っ赤になっていた。それを両親に咎められたシメオンには、謝るしかない。
「ヴィクトル様。そろそろ城にお戻りください。王妃様とのお約束の時間に遅れてしまいます」
護衛の一人が焦ったように近寄ってきた。呼ばれたヴィクトルは軽く手を振りながら、小道を足早に歩く。
「先ほどの令嬢を見たことはあるか?」
「いえ、初めて拝見しました。まだお若いようでしたし、デビュタントを済ませていないのでは?」
「そこまで子供ではないだろう」
遠目だったから護衛からは見えなかったか。護衛をまいて令嬢の手助けをしたため、はっきり見えなくて当然だが。
ヴィクトルは自分の記憶にある、同じくらいの年の令嬢たちの顔を引き摺り出す。しかし、あの令嬢に見覚えはなかった。美しい生糸のような黒髪。一度見たら忘れられないほど印象的なまっすぐな瞳。悪漢一人くらい簡単にいなすほどの腕と度胸がある、魅力的な令嬢。
「あの落ち着き、その辺の騎士たちより動きが早かったな。俺が止めなくとも問題なかっただろう」
「止めていなければ大怪我をしたのはあのスリでは? 令嬢は手加減をしないつもりのように見えました」
「日傘を構え直していたからな」
刃物を持った相手に、日傘で対抗しようとする。それが愚かな真似に見えない。令嬢の構えは、基礎のしっかりした剣を持つ者の構えだったからだ。
とはいえ、若い女性に刃物を持った犯罪者の相手をさせるわけにはいかない。横入りしてスリをのしたわけだが、
「名を聞いておけばよかったな」
「町で王子がナンパなどなさらないでください」
口うるさい護衛に苦言され、ヴィクトルは肩を竦める。時を知らせる鐘が鳴り響いたのを耳にして、ヴィクトルは急いで城へ戻ることにした。




