4.結の章
「でも、それだと前世とかの記憶を持つ人とかの説明には色々と足りないわ」
「多分、足りているよ」
「何処がよ」
「漂い始めた霊体が消滅する前に新しい入れ物を得たのだとしたら?」
「そういった可能性は残るって?」
「前世が何百年も前とかって人は、多分、あんまり居ないと思うんだよね。それがどうしても納得出来ないなら、共通意識とかって考え方で、そこを経由して記憶だけが偶然残ってしまったって感じでもいいけど」
「共通意識、ねぇ」
「でも、まあ、人類全員が繋がってるとかよりはまだ、僕の考え方のほうが納得しやすいんじゃないかって気はしてるんだけどね」
「まあ、ね」
「それでも納得できないのなら、霧散した魂が新しい魂の原料としてかき集められていく時に、麻雀の天和みたいな感じで偶然、前の体の記憶が一部残った可能性とかでも良いよ。人間の記憶とかが魂とかに宿るのかどうかは別の議論になるかもしれないけどさ……」
「命の元になるエネルギーってヤツが色んな命の間でシェアされている可能性があって、その魂同士のやりとりの際に、本当に偶然で前の魂にあった記憶がそのまま引き継がれる事がある。そういった考え方とかの方がまだ分かりやすいってのは、分かるんだけど……」
んー、と悩みながら。コツコツと床でテーブツを叩きながら。ギュッと眉を寄せて見せる。
「それならそれでも良いんだけど……。どうも、ねぇ?」
「釈然としないって顔をしてるね」
「なんとか、アンタのその腐った考え方をブチ壊してやりたくてイライラしてるのよ」
「僕としても否定して欲しいんだけどね」
「アンタは正しくないって?」
「うん」
「なんでよ」
「だって、こんなの寂しすぎるじゃないか」
神様なんて居ない。天使も悪魔も居ないし、天界も魔界もあの世も地獄も何もない。全てが人間の妄想の産物であり、僕達に与えられているのはココだけで死んだらそれまでだ等と……。
「こんなの、嫌だよ」
そんな自分の考えを心底嫌がってるらしい男に、女は思わず笑みを浮かべていた。
「それじゃあ、頑張ってもうちょっと抵抗してみようかな」
「うん。お願い」
言外に、どうせ雨が止むまで動けないのだからと滲ませながら。
「死んだらエネルギーが霧散するっていうのなら、新しく生まれてくる命はどうやって体に宿るっていうの?」
「アメーバみたいに分裂してるんじゃないかって、さっき自分で言ってたよね?」
「そうかも知れないわね。そうなると、精子とか卵子には両親の魂の切れ端が混じってるって事になるの?」
「それはそれで色々嫌になるけど……。一応は、あのサイズでも命があるらしいからね……。それも一応は正しいのかもしれない」
ため息混じりに、ふと視線を窓ガラスに向けるとそこには無数の雨つぶが張り付いてた。
「命が分け与えられたから子供が出来たのか、それとも子供が出来たから命が宿るのか……」
雨つぶはガラスの表面を流れ落ち、そこにある無数の雨粒と触れ合い、大きな雨粒となって流れて落ちて行く。雨が上がるまでには、まだ暫くかかりそうだった。
「……ただの分裂だけじゃないのかもしれない」
「え?」
「僕達は魂の受け皿を作ってるだけなのかも知れないね」
「受精卵?」
「うん。受精卵には魂という名前のエネルギー……仮に生命エネルギーとでも呼ぼうか。そういった拡散して漂っていた魂の原料みたいなのが引き寄せられて魂を形成するのかなって……。さっきまでは、ずっとそう思ってたんだ。でも、それだけだと弱いんだよね。……もっと現実の世界にある様な物理法則とかに似た現象でないとイメージしずらいしさ。何よりも自分が納得できないんだ。だから、受精卵と生命のエネルギーってヤツを星の誕生に似たプロセスだと考えてみたんだ」
星の核が自らの重力によってガスやチリを引き寄せて球体になっていったように。静電気や表面張力によって雨つぶ同士が引き寄せられて1つの大きな雨粒になっていくかのようにして。
「きっと最初は双方から分け与えられた命の欠片なんだ。男のモノと女のモノ。精子と卵子。それらが互いに絡み合って……。こう、何というか……周囲にある『似たもの』? そういったエネルギーを引き寄せる磁石、核みたいなモノになって引き寄せ始めるのかもしれない。段々と集まっていって小さな核が大きな星になっていくかのようにして……」
その話は確かにイメージしやすかった。無論、真偽はともかくとして。
「なるほどね……。アンタにとって、ズバリ命って静電気とか磁場とか、そういった類のエネルギーだと思ってるのね」
「そうだね。きっと、そういった認識が僕の話の根底にはあるんだと思う」
命が生まれる時にかき集められ、命が終わる時に拡散して放出されていく。そういった未知のエネルギーの存在と流動性を前提とした話をしていたのだから、その結論だけは恐らくは間違いなかったのだ。だからこそ、そこから先の話にも進むべきだと考えたのかも知れない。
「……で?」
「でって?」
「アンタの事だから、どーせ、そういった結論が出たからって、それで終わりって訳じゃなかったんでしょ?」
何に悩んでるのよ、とストレートに訪ねてくる女に男は『叶わないなぁ』といった類の苦笑を浮かべて答えていた。
「……命が、そういった類の存在なのだとしたら、僕達の中にある記憶って何なんだろう?」
「記憶は記憶でしょ? 自分の中に過去の出来事を記録しておいて、次の世代に受け継いでいくために必要になる、とっても大事な機能だと思わない?」
「それって本能って言わない?」
「違うわよ。本能と経験則は違うでしょ?」
「本能と経験則、か」
「体験しないと分からない事とか、自分で味あわないと分からない痛みとか苦しみってモノは意外に沢山あるものよ。これを食べると死ぬから食べるなよとか、こういった外見をした生き物に噛まれたり刺されたりすると死ぬから逃げろよとかでもいいけど……。そういった知識ってモノは、生き物の本能とは違うモノでしょ? 知性と知識をゴッチャにすると、色々混乱するわよ?」
自分が出来ること、自分に備わっている機能。自分がやらなくてはならないこと。そういった事柄を誰かに教えられるまでもなく知っている、あるいは自然と継承されていくものが本能と呼ぶべきモノであり、経験から学ぶべき事柄は知識として継承されていくべきものである。だからこそ、その継承のために記憶というものは必要になる。それはひどく分かりやすい順序だった理屈ではあったのだろう。
「じゃあ、意識は?」
「意識?」
「自我でもいいけど……」
ゆらり、と瞳の中の光が弱く揺らめいて見えていた。
「僕が僕だと思っている自分は、本当に存在しているのかな?」
そこにあったのは、弱気。
「アンタの周囲にあるすべての物が嘘っぱちで、それら全てが出来の良いフェイクであったとしても。そして、アンタの目の前に座っている私はおろか、アンタ自身ですらもアンタがこの世から消え去る瞬間に妄想している刹那の幻であったとしても……」
それが例え胡蝶の夢でしかない世界においてすらも。
「それでもアンタは、ここにいるのよ。自分の周囲の全てが幻で、この世界そのものすらも存在を疑い、実際には存在してないんじゃないかって疑って思い悩んでいる。そんなアンタであっても、ここにこうして存在していて自分のことを疑っている自分が居るの。そのことを否定することはアンタ自身にすらも出来はしないのよ」
少なくとも、そのことを疑っている自分の意識だけは存在を疑いようがないのだから。
「自分とは何か、自分はなぜここに存在しているのか、そして何故ここにあり、何処に向かおうとしているのか。それを常に疑い、考え続けることこそがアンタ自身の存在を証明してくれているの。だから、アンタは、そのことを全ての起点、中心に据えて考えれば良いのよ。それだけは事実なんだから。そのことを前提として一つ一つ、確かめていけばいいわ」
それこそが『コギト・エルゴ・スム-我思う故に我あり』であった。それはルネ・デカルトが自著「方法序説」の中で提唱した有名な命題である。
「自我の存在を疑う自分が、僕という存在の証明になる?」
「アンタが自分というモノの存在を疑えるってことは、それが確かに存在しているって事を逆説的に説明しているってことよ」
例え、私が幻に過ぎない存在であったとしても、ね。
そんな言葉に男は小さく笑みを浮かべながら。
「じゃあ、僕はもしかすると幻を相手に話をしているかもしれないってこと?」
「アンタにとって、目の前に座っている私は確かに存在しているのかもしれないわ。でも、他の人にとってはどうかしらね……? それに、ここは本当に喫茶店の中なの? さっき私達に珈琲と紅茶を持ってきてくれたおじさんは、本当に存在しているの? ……そもそも、ここは本当に日本なの? 私達、本当に生きているの? 私達、ここに座る前には、何処に居て、そこで何をしていたか覚えてる?」
一つを疑いだすと全てを疑わなければならなくなる。これはそういった話だった。だからこそ、なにか一つだけでもいいから確実に間違いない事実を中心に用意して、そこを起点として確かめていくことで存在を確かめていくことが出来るのだろう。
「もしかすると、この出来事って、全てアンタの見ている夢のなかでの出来事に過ぎないのかもしれないわよ?」
「そんな怖いこと言わないでよ」
「だって、アンタ、さっき、自分で言ってたでしょ。人間は妄想や想像力だけで記憶を作り出す生き物なんだって。……夢の中にいる自分は、その妄想の産物でしかない世界を現実だと思ってるのよ。そのことを、アンタはもっと真剣に捉えたほうがいいわ」
大真面目に。苦笑を浮かべたまま。そう女は冷めた紅茶を飲みながら口にする。
「じゃあ、僕はどうやって、この不安を消していったらいいんだよ」
「そんなの簡単よ」
カチャッと音を立ててカップをソーサーに戻して。すっと手を伸ばして、珈琲を持ったままの手に触れる。そのぬくもりに男の瞳の弱気僅かに和らいでいた。
「幻なら、触れないでしょ?」
「……確かにね」
「アンタの手、冷たいわねぇ」
「君の手はあったかいね」
「……もう一回聞くわよ。私は、幻?」
「違うと思う」
「じゃあ、私の手に触って顔を赤くしてるアンタは幻なの?」
「そんな訳無いよ」
そう。私もアンタも幻なんかじゃない。そうニッコリ笑って頷いて見せる。
「今、こうして二人でいる事に不安を感じたなら、工夫してソレを確かめれば良いのよ」
自分はココに確かに存在している。そして、相手も確かに存在している。このぬくもりがソレを教えてくれている。そのことを疑いたくなくなるまで確かめれば、それによってこうして不安は消えていく事になるのだから。
「……さっき、ちゃんと教えてあげたでしょ。神様は、出来の悪い子供達に、もっとお互いを知ることを努力しなさいって言ってくれてるのよ?」
そんな女に男は弱々しく答えていた。
「魂に普遍性がなく、記憶すらも頼りにならない。そんな世界の中にあって、僕には自我はあっても、僕という存在をとりまく世界というモノに今ひとつ確信が持てないでいる。……そんな僕の抱いている気持ちは、本当に僕のモノであるのか。本当の僕が感じている気持ちなのか。これが本当の出来事であるかどうか……。僕は、まだ確信が持てないで居るんだ」
記憶や自我という代物が。これが所詮はただの脳内の電気信号の結果に過ぎない錯覚であったとしても。ただのシナプスの結合と分離によって引き起こされた妄想の産物であったとしてさえ。
「僕が、君を好きだというこの気持ちは、本当に信じて良いものなのかな?」
「それが本当の自分の気持ちなのかどうか分からない?」
「僕はまだ確信がもてないでいる」
うつむいて。言い訳を探すようにしながら。それでも何処か許しを求めるようにしながら。
「これが僕の夢の中でないという確信もないんだ」
「夢なら夢でも良いんじゃないの?」
「……そうなの?」
「これが夢だったなら、目が覚めた後にまた同じように告白すれば良いのよ」
こうして、手に触れて。今度は相手の目を真っ直ぐに見つめながら。
「貴方を愛しています」
「……」
「……ね? 簡単でしょ?」
そんなウィンク混じりの言葉に、男は叶わないなと降参して負けを認めたのだった。




