表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

趣味が人間観察の人間の感覚

作者: 空野 奏多

 たぶん何人かは怒るし。

 おそらく何人かは気分を害す。

 そういう類の話だと思う。


 なので不快になりそうな人は、自主的に避けてくれるとありがたい。


 あまり人間観察をしない同僚は、「自分以外はNPC」と言った。またある人は「話しかけてきたら対応するだけ」といい、別の人は「風景が話しかけてくると知り合いになる」と言った。



 そして私はというとずっと、「人間ってアリみたいだよなー」と思っている。



 ちなみに今まで何人かとそういう話をしたのだけど、「なるほど」と言ってくれた人は1人しかいない。大抵「えぇ……?」と困惑される。親にこんな話をしたらほぼ怒られるだろう。



 だけど私は、わりとずっとそう考えている。



 社会のために産まれ、社会のために働いて、社会の歯車として死んでいく——アリの生態を知らない人には調べて欲しいのだけれど、アリの社会は実に秩序的で整っている。とても効率的でさえある。


 みんなアリを下等だと思って舐めているようだけれど、むしろ、実際の資本主義の目指してる先はこのような効率化社会だろうと思う。


 無駄も余裕もない仕事ぶりは、金銭的価値観しか持ち合わせないならむしろ見習いたいと思わない点しかないと思うのだけれど。滅びに緩やかに向かう日本人より、よほど優れていると思う。(喧嘩売ってないです)




 さて、どうしてみんなそう思いたくないか。




 アリを下等としているから。

 それはそうだけれど。

 たぶん理由はそれだけではなく。




 おそらくほぼ全員、「自分だけは価値がある人間である」と思いたいから、というのが今のところの私の結論になる。



 まぁ別にそれは変なことではなくて、当然と言えば当然。大抵の人間は自分の意識を元にして周りを見るのだから、自分が中心の世界で物事を見るのもまた必然。自分視点でしか物事を見る事ができない、とも言える。



 偉そうに語っている私だってそう。

 そうだけれど、ただ違うこともある。

 それは、もっと俯瞰的に見ていること。



 私は自分が人間という枠にいることを理解していて、その上ですぐに死んでしまう存在であることを知っている。


 アリは人間に踏まれれば死ぬけれど、人間だってトラックに轢かれたら死ぬ。クマに襲われても死ぬ。ビルの上から物が落ちてきたら死ぬし、結構ちっぽけなものだと思う。



 そういう意味では、たいして虫と変わらない。



 私たちが意味があるものだと信じたい人生は、どれだけ対策したとしても、予想外の出来事で消える儚さを消し去る事ができない。


 宇宙の中のちっぽけな生物であることを考えたら、よそから見たら人間だって虫のようなものでしかない。それが神様でもいい、万能な神様から見たら、人間も虫も大して変わらないよではないか。



 まぁ、多くの人間はそう思いたくないから、人間こそは神様に選ばれたものであると疑わないわけだけれど。



 人は自分の価値を信じている。

 人生の意味を探して迷う。

 だけどそんなもの、本当にあるのだろうか?



 そもそもそんなもの、産まれた時にあっただろうか?



 私はないと思う。親に望まれて産まれたとして、それを望んだのは親であり、親の価値観を自分のもののように見ているだけでしかない。それは自他境界を曖昧にして、他人の軸を使っているだけではないか。


 人生の意味を、自分を探しに世界へ旅に行く人もいるけれど、それでわかるのは世界は広いこと、場所により価値観は違うという比較の話でしかない。人生の意味なんて精々人類繁栄のための歯車くらいしかないのだけれど、まぁそこに気づくことはないだろう。



 これらは、自分の中に潜らないと出てこない考えだと思う。つまり、他者ばかり意識しても、おそらくは辿りつかない、または無意識に目を向けないようにしているものだと考えている。



 だって人によっては、これ以上ない残酷な事実なのだから。



 自分の価値を他人に決めてもらっているうちは安定しないし、自分の生きる意味を追い求めているうちは見つかることはない。最初からないものは見つからない、見つけた気になることはできるけれど。


 実際に追い求めて正当に見ようとすればするほど、社会の都合であることを直視することになるだろう。ただそれを人は信じたくないので、見なかったことにすると思うけれど。



 だけどたまに「見つけた」という人もいる。

 それもまた嘘ではないと思う。

 価値や意味はそのくらい曖昧だから。



 実は追い求めているほとんどを決めるのは、他人ではなく自分だったりする。理由が後付けでも、別に人生の指標になるのであれば悪くはない。それをなしで生きるには、人生はあまりにも長すぎるものになってしまっているーーまぁ、それでも簡単に死ぬ可能性もあるのだけれど。



 人は楽しく生きている時、困らない時、自分のそばに潜むリスクというものを考えなくなってしまう。



 そうでないと、生きていくにはあまりにも辛すぎるのが現実だから。俯瞰的になればなるほど現実が見えるのならば、主観的になればなるほど見えないということでもある。



 そこから考えると、自分の意識しかない世界はとても生きやすい世界ということになる。ほとんどがそうあるべきということになる。生きる上では、実に合理的ということになる。



 「自分以外はNPC」と言った同僚も、ま「話しかけてきたら対応するだけ」と言った人も、「風景が話しかけてくると知り合いになる」と言った人も、『主観としての自分が社会の中にいる』というものを語ったものであると考えられる。つまりこれが、当然の考えだったのだ。



 そうなると……おやぁ?

 アリとか言ってる私の方がおかしい。

 そのことに気づいてしまいましたねぇ。



 おそらくはキリギリスだったのでしょう。間違っても神様なんかじゃありません。人間観察する人間は別にリスク減ってるわけじゃないですからねー。ただちょっと観察して娯楽ばかりに勤しむ変わり者、そんな感じでしょう。

まぁこんな考え方してるので、物語作るのには苦労しないわけですけど。その代わり簡単な話が作れなくて困っています。ややこしく考えすぎなんですよね〜。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
「人生の意味なんて精々人類繁栄のための歯車くらいしかない」という部分に、とても興味を惹かれました。この考えは、何らかの個人的な思想(ニヒリズムなど)に基づくものでしょうか。それとも、アリの話が本文に…
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ