布石
酒場内の会話から少し離れた人の気配が薄い廊下に、微かな水音が響いていた。
胸元を少しだけはだけさせたユエンは壁にもたれ、腰のグラスを弄びながら待つ。淡く濁った液体が揺れるたび、鼻をくすぐる香が立ち上った。グラスに仕込んだ妙薬は、五感を狂わせ欲望を増幅させる。こんなものを使わなくてもあの欲にまみれた騎士団長を陥落させるのは簡単そうに見えたが念には念を、だ。あとは獲物が自ら罠にかかるだけだった。
扉が開き、廊下を歩く音とともに騎士団長が姿を現す。長い茶髪を振り払い、威圧感を纏って歩くその姿に、ユエンは一歩踏み出した。
「――っ」
わざと出会い頭に体をぶつける。手にしていたグラスが揺れ、中身が騎士団長の胸元へと盛大にぶちまけられた。ふわりと、妙薬の甘い香りが周りに漂う。
「まあ、ごめんなさい……! お召し物を、わたくしの不注意で……」
ユエンは大げさに口元を覆い、しおらしく頭を下げた。その上目遣いに、濡れた胸元を強調するような姿勢。懐から取り出した白布で騎士団長の鎧と、そして鎧の隙間に手を入れて胸板を拭きながら、わざと身体を密着させる。指先が鎧の隙間をなぞり、胸元から首筋へと触れるたび、男の目はとろんと濁っていった。
「……っ……」
ユエンのその動きは、普段なら警戒して距離を取るであろう行為だった。しかしながら騎士団長は口を開くこともできず、ただ視線を彷徨わせている。理性は、薬の効力とユエンの妖艶さに呑まれ、無力化されていた。
ユエンはその瞳を覗き込み、確信する。
「お詫びに……お着替えをご用意いたします。わたくしの部屋で、たっぷりと……お世話をさせていただきますわ」
わざとらしく耳元に口を近づけ行った囁きは、騎士団長の耳元に熱を残す。そしてユエンが人差し指を騎士団長の顎から首筋へと滑らせると男の喉が鳴り、生唾を飲み込んだ。もはや抗う余地はない。頷き以外の選択肢を、彼は失っていた。
ユエンは騎士団長とともに海浜亭を出ると腕を取り、自らの柔らかな胸に押しつける。わざと足元をふらつかせ、酔いを演じながら街路を歩いた。道行く人々の視線を意に介することなく、甘えるように騎士団長に寄り添い、自分の宿へと誘い込む。
部屋に入るや否や、ユエンは男をベッドへと押し倒した。彼女の手が懐から取り出したのは、闇を閉じ込めたかのような黒水晶のペンダント。滑らかな手つきで男の首にかけ、周りの目につかないように胸元へと押し込む。
「……これから、あなたはこのペンダントを誰になんと言われようと、肌身離さず持ち歩くの。そうすれば、もっと気持ちよくなれるかもしれないわ」
先程までの桃色の甘えた声から一変し、冷徹な響きを帯びる。
虚ろな瞳の騎士団長はこくりと頷くだけ。もはや意志はなかった。
「もうこれで用は済んだわ。帰っていいのよ」
ユエンが身を離すと、騎士団長は魂を抜かれた人形のようにふらりと立ち上がり、無言で扉の外へと消えていった。
騎士団長が扉の外に出て無事役割を追えたことを確認するとユエンは大きく息を吐き出し安堵する。
「男って、本当に単純よね」
しかしそうつぶやくユエンの頬はお酒と、そして自分の妙薬によって少し火照った身体で紅潮していたことは本人も知るよしはなかった。
***
ユエンは昨夜のことをカグロウに伝え、カグロウとユエンは自分たちのセレフィア王国での仕事が終わったことを確認すると疑いを持たれる前にそのまま急ぎ足でヴェルナードを出てザイレム帝国へと戻った。
帝都へと戻ったユエンとカグロウは、玉座の間へと続く広い石廊を歩いていた。冷たい大理石の床に、二人の足音だけが響く。
謁見の間のすぐ脇にある黒漆塗りの長机が置かれた部屋の奥に、帝王カイエンが座していた。
「遠路、ご苦労だった。よく戻った」
低く響く声が、心の底から二人をねぎらっていた。
ユエンとカグロウはカイエンを中心としてイスに腰掛ける。
二人が席に着くと同時にカイエンは改めて二人に報告を促すとカグロウが口を開いた。
「黒の器については、確かにフェン村に存在していたようです。ですが、すでに数年前に追放されており……今は生死もわかりません」
「まったく……あの黒の器を追い出して野放しにするだなんて、うちの国じゃ考えられないのに。知らないって怖いわね」
ちがいない、とカイエンはあごひげを触りながら頷く。
カグロウが補足する。
「ただ、周囲で強力な邪鬼が発生したという話はなかったので、おそらく黒の器は何かしらの形で生きている可能性が高いかと」
「なるほど。では、ヴェルナードの件は?」
ユエンの唇にわずかな笑みが浮かんだ。
「例の好き勝手やってる騎士団長に、吸穢の石を使ったペンダントで穢気を集めるよう仕込んできたわ。あの男は、自らの欲望のままに動くはずよ。いずれ己の穢れに溺れ、邪鬼へと変貌するはずだわ」
ユエンはそこまで言って一言付け足す。
「ま、あの様子じゃ私たちが手を出すまでもなく、いずれ墜ちてた可能性はあるけど」
カグロウは海浜亭での騎士団長の様子を思い出したのか、大きく頷きながらも嫌な物を思い出した、といった顔をしている。
「そうか。これで、この国の中から崩れる土台ができたな」
カイエンの目が愉快そうに細まる。
「では、こちらからも少し状況を共有しておこう」
そういって、カイエンは懐から一通の封書を取り出し、二人の前に置いた。重厚な封蝋が割られ、中身はすでに読まれている。
「これを見てみろ」
ユエンが封を手に取り開くと、文面が目に飛び込んできた。
――中立国ノイエル、ザイレム帝国との軍事同盟を締結する。
「まあ……これはまた」
ユエンは驚きの声を抑えながら、顎に手を添えた。
「おおっ! ついにですな!」
カグロウは拳を握り、満面の笑みを浮かべる。
カイエンは二人の反応を楽しむように口角を上げた。
「魔導石の供給量と価格を譲歩する代わりに、ノイエルは我らの後背を守る。……取引条件としては悪くない。国内の労働力を魔導石の採掘に向けることで国民の懐も潤うし、軍事的にはセレフィア王国がノイエルに補給路を置かれる心配がなくなる」
「他国が攻め入ろうとしてもノイエルは協力しない。これは大きいですぞ」
カイエンとカグロウが満足そうに話をする中、ユエンは冷静に言葉を選ぶ。
「では、あとは攻め込まれるのを待つだけ?」
顎を指先でなぞりながら、ユエンが問う。
カイエンは首を横に振った。
「いや……奴らはプライドが高い。自分たちが属国になれといっていた相手国同士が手を結んだらそのプライドはズタズタだろう。だから、この同盟を公開すれば、セレフィア王国はこちらに対抗せざるを得ない。だからこそ――我らも同時に動くのだ」
その瞳に炎が宿る。
「情報を流すと同時に、こちらも先手を打つ。ユエン、カグロウ……すぐにセレフィア王国へ潜入しておけ」
二人は深く頷いた。
「承知しました」
「それと――今回はセルギスとカレンも同行させる。お前たちのやり方に任せるが……念のためだ」
カイエンの言葉に、一瞬の沈黙。だがすぐにカグロウは喜ぶ。
「それは心強い。それでは、まずはフェン村を攻めて黒の器をあぶり出しましょうぞ。あの戦力の有無を確認しない状態でこの先戦争を続けるのは非常に大きなリスクです」
「ああ、間違いないな。そしてもし黒の器と接触することができたならば……」
そこまでいってカイエンは少し言葉を選んでいたが言葉を続ける。
「こちら側につくつもりがないか、話をしてみてほしい」
そこには、ユエンが首を縦に振る。
「そうね、もしこちらの味方に付ければセルギス様の負担も少し減らせる」
ユエンの言葉にカイエンはゆっくりと頷く。
「うむ。 とにかく……この地を、そして我らが帝国の民を守るために戦うのだ」
重々しい言葉が部屋内に響いた。だが、その声音には確かな決意が混じっていた。
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