第51転 醜女餓鬼・温羅
実のところ、不死者には定まった形はない。その肉体の基本は闇の元素――精神物質だからだ。強すぎる怨念が魔力を宿して、凝り集まって魂の器となるのだ。死肉も骸骨も不死者の本質ではない。故に心の有様で如何様にもその姿を変えられる。
「オオオォオオオォオオオォオオオオオ……!」
温羅が這いずり追ってくる。口から吐く呪詛は最早言葉にならない。
温羅の怨念が自身の滅びを許さず、上半身になっても動き続け、失った下半身を補おうと餓鬼や黄泉醜女を吸収したのだ。それがあの悍ましき姿だ。だが、その代償に奴は理性を失った。幾十もの他者と融合した事で、自我が混在してしまったのだ。
今の奴はただ妄念に突き動かされる獣でしかない。いや、獣以下の暴力の塊だ。
「何でつかアレ、キッモ!」
温羅の現状を見たカルルが悲鳴を上げる。各国神話・各地伝承を調べてきた彼女でもあそこまでグロテスクな化け物はそうそう見た事はなかったのだろう。正直な反応だ。
温羅との距離まで残り一〇〇メートル。
「まずいな。思っていたよりも足が速ぇぞ、あいつ」
波旬が温羅の進行速度を分析する。猛然と疾駆する温羅は想像以上に速く、ぐんぐんと近付いてくる。このままではじきに追い付かれるのは必至だ。
温羅との距離まで残り九〇メートル。
「オルフェウス! 現世まではまだあるの!?」
「あと少しだ。もう一キロメートルもない。頑張って」
竹の問いにオルフェウスが淡々と答える。淡々とはいえ、彼とて息を切らし、額に玉の汗を浮かべている。ここまで走り続けてきて平静という訳ではないのだ。
温羅との距離まで残り八〇メートル。
「皆、もう少し速く走れるかい?」
「無茶言うなですぞ! 今だって全力疾走なんでつからな!」
「私も……! これ以上は無理……!」
オルフェウスが急ぐように促すが、カルルと竹が難しいと返す。そりゃそうだ。幾ら輪廻転生者、幾ら異世界転生者といえどもこの距離を走ってきて、なお加速しろというのは厳しい。体力的にも精神的にも限界だ。
かくいう僕もきつい。ネロの体重が軽いとはいえ、人一人を背負って走るのは負荷が強い。これ以上の加速は不可能だ。
温羅との距離まで残り七〇メートル。
「……おい、お前ら。どうしようもなくなったら俺がアレを足止めする。その間に行け」
「ちょっと……何を言っているんですか、KIPさん! 貴方は『輪廻転生者最強の男』でしょうが。そんな人がここで脱落していい訳がないでしょう!」
「そうも言っていられねえだろ。お前らは人だが、俺は神だ。俺なら冥府に取り残されてもどうとでもなる。是非もなし」
本当にそうなのか。本当に冥府に残っても大丈夫なのか。分からない。神について俺も多くの事を知っている訳ではない。実際に問題ないのかもしれないし、波旬が俺達を助ける為に嘘を吐いている可能性もある。冥府の権能には神々ですら逆らえないのが神話の定番だ。
温羅との距離まで残り六〇メートル。
「あいつは、温羅は俺の因縁の敵です。残るなら俺でしょう!」
「お前はネロを背負っているだろうが。いいから年長者に任せておけ」
「くっ……でも!」
確かにここでネロを下ろす訳にはいかない。波旬にネロを渡している余裕もない。俺はこのまま走り続けるしかない。だからといって、波旬に足止めをさせていいものだろうか。ここで彼を切り捨てるのは致命的なのではないか。
温羅との距離まで残り五〇メートル。
「オオオォオオオオオ――GYAAAOOOOOOOOOO――!」
突然、温羅が雄叫びと共に爆発した。
ただの爆発ではない。後半身を炸裂させて、その爆風で飛んだのだ。一気に距離を詰めてきた上に、四本脚となって身軽になった温羅が更に猛然と迫ってくる。温羅との距離まで最早一〇メートルもない。
まずい。まずい、まずい。まずいまずいまずい! このままだと本当に追い付かれてしまう!
だが、どうする。本気で波旬に任せていいのか。しかし、他の方法など思い付かない。波旬が足止めする以外に俺達が温羅に捕まらない方法がない。
温羅との距離まで残り僅か一メートル。
五〇センチメートル。
二五センチメートル。
一〇センチメートル。
一センチメートル――駄目だ、捕まる……!
「――【道術・乾坤圏】」
俺のすぐ横を二つの輪が通り過ぎたのはその瞬間だった。
金色の輪だ。輪状の刃が二枚、温羅の左肩と右胸を抉った。
「GY……GAAA……!」
刃でありながらその威力は砲弾の如きであったらしく、温羅の巨体が仰け反り、たたらを踏み、仰向けに倒れた。あの巨大な蜘蛛が裏返ったのだ。
金色の輪は弧を描いて元の場所に戻っていく。軌道を目で辿れば光が見えた。出口だ。冥府還りの終点――現世が見えてきたのだ。
そのまま立ち止まる事なく出口を抜ける。目に入ってきたのは一面の緑だ。木々や葉、鬱蒼と生い茂る草木が広がっていた。振り向けばそこは洞窟と高い峰が見えた。どうやらここはどこかの山の中であるらしい。
「はぁはぁ……温羅は?」
「気配はしません。もう追ってきていないですぞ」
「であるな。死者であるあいつは現世の境界線を潜る事ができなかったのさ。そうでなくともあのダメージだ。すぐには動けやしねえだろうよ」
どうなる事かと思ったが、温羅を撒く事ができたようだ。俺達は助かったのだ。
「やあ! ハデスから連絡があってね。キミ達がここに来ると言われて、一番近い場所に来たボクが迎えに来たという訳だ。いやあ間に合ってよかったよ」
「ああ、助かった。あんたは?」
洞窟の出入り口に立っていたのは若い男――いや、若い女性だった。黒髪蓮眼の東洋人だ。短髪でスレンダーな体型がボーイッシュなので、一瞬男性に見えてしまったのだ。
金色の輪は持っていない。代わりによく似た金色の腕輪をしていた。先刻はこの腕輪を投擲したのだろうか。腰には妙な迫力を感じる布が巻かれていた。
「ボクは哪吒。『人間兵器』哪吒だ。以後お見知り置きを」
そう言って女性――哪吒は爽やかに前髪を掻き上げた。




