第50転 十の悪角
「これはこれはこれはー!? どういう事だー!? 闇が晴れたと思ったら温羅選手がKOしているぞー!?」
悪夢から現実世界に帰還した俺達を出迎えたのは、エルジェーベトの実況だった。
見れば、闇魔法が放たれる前と景色は大して変わっていない。相違点を挙げるなら竹の立ち位置が俺と隣になっている事と、温羅が真っ二つになって地に伏せている事くらいだ。
「し、しかし、しかし、しかァし! まだ終わらないぞ! そろそろ結界の維持も限界な筈。億体もの不死者が雪崩れ込んでくれば、こちらの逆転勝利だ!」
倒れた温羅を眼下にしてもエルジェーベトの士気は下がらなかった。確かに結界の外、不死者が群れを成している音が聞こえる。あれが攻め込んでくるのはマズい。加えて俺の肋骨はバキバキに折れている。これ以上の戦闘は厳しい。
情けないが、仲間の奮闘に期待するしかないが……ガブリエラもクラネスも健在だ。どうする……?
「更に更にィ! オレの奥の手はまだ残っている。行くぞ、死霊招来――え?」
「え? あ……」
「あぁあああああぁあぁあぁああああああああああっ!」
エルジェーベトが奥の手とやらを繰り出そうとした瞬間、ネロが疾駆した。爆発したかのような勢いで地を蹴り、右拳を突き出す。エルジェーベトの背後に立つ餓者髑髏が両手を盾にして主を守る。
その両手の盾ごとネロがエルジェーベトを打ち砕いた。
白骨が破片となって舞う中、ネロの拳がエルジェーベトの腹部を貫通し、血飛沫と臓物を散らした。
「な……んで……? さっきよりも強い……?」
愕然とした顔でエルジェーベトが本殿の屋根から落下する。受け身など取れる筈もなく、エルジェーベトは無様に地面にバウンドした。
エルジェーベトはネロの強さを知らないのだから驚くのも無理はない。ネロには【七の獣頭】以外にもう一つ、恐るべき魔技が存在する。
それこそが【十の悪角】――『黙示録の獣』の力である。
世界宗教には八つの枢要罪が定められている。実際の犯罪行為ではなく、人間を罪に導くとされた欲望や感情の事だ。内訳は『暴食』、『淫蕩』、『強欲』、『嫌気』、『悲嘆』、『憤怒』、『虚飾』、『傲慢』である。後に『虚飾』が『傲慢』に取り込まれて一つになり、『嫌気』と『悲嘆』が統合されて『怠惰』になり、更に『嫉妬』が追加されて七つの大罪となった。
【十の悪角】とはネロが『暴食』、『淫蕩』、『強欲』、『嫌気』、『悲嘆』、『憤怒』、『虚飾』、『傲慢』、『怠惰』、『嫉妬』の感情を懐く程に、ネロの身体能力が上がる技だ。力や脚力、動体視力や反応速度――魔法世界でいうところのパラメーターの数値が格段に上昇する。
エルジェーベトが【上級闇黒魔法】を二度も掛けたせいで、ネロの激情が振り切れてしまったのだ。その結果があの爆発的な攻撃力だ。
「馬鹿ですぞ、逆鱗に触れましたな」
カルルが呆れ半分に転がるエルジェーベトを見下ろす。指揮者がいなくなったからか、ガブリエラもクラネスも動きが鈍化していた。もう戦えないと見ていいだろう。
これにて試合終了だ。
「あああぁあああぁあああぁああああああああああっ!」
「いや、まだだ! まだネロの暴走が収まっていない!」
跳躍したネロがエルジェーベトに向けて両拳を振り下ろす。|握り拳を密着させて叩く技だ。エルジェーベトが既に意識消失しているのをネロは気付いていない。
「いけない、あの威力では神社ごと壊してしまうわ!」
「オルフェウス!」
「うん。――【夢に堕ちる眠歌】」
オルフェウスの甲高くも優しい音色が喉から響く。途端、ネロの険しい表情がフッと解けた。目を閉じ、そのまま地面に落下する。安らかに眠りに就いたようだ。石神社が倒壊されずに済んでホッと胸を撫で下ろす。
「これで終わりでいいのかな?」
「いや、まだ外に不死者の軍勢が集まっている。この小娘が倒れた今、統率はなくなったが……だからこそ、かえって好き勝手に暴れ回るぞ」
「であるな、死者は生者を妬む。近くを通るだけで襲われるだろうよ」
俺の楽観をハデスと波旬が否定する。
死者は自分の死が悲しくて認められない為、生者を敵視する。生者を殺して自分達と同じところにまで引き摺り下ろそうとする。その怨念を力に変えたのが不死者という魔物だ。だから不死者は本能的に生者を襲う。
エルジェーベトが倒れた事で一気に圧殺される事はなくなったが、不死者の人壁で殆ど閉じ込められた状況だ。どうする……?
「仕方ない。忙しないが、我輩の役割を果たそう」
ハデスが本殿の正面に立ち、何やら念じ始めた。何事かと見守っていると紫色の燐光が彼の身から溢れた。美しくも厳かな雰囲気の紫光だ。燐光は地面に触れると石神社の外へと伸びた。
「冥府還りの道だ。この道を辿れば現世に戻れる」
「おお、ようやく帰れるんですな!」
「そうだ。本来、色々と話すべき事があるのだが……致し方あるまい。今はここを脱出するのが先決だ」
即席の黄泉平坂という訳か。さすが名高きギリシアの冥王、他所の冥府でもこんな真似ができるとはやはり敏腕だ。
「我輩は道を維持する為にここから離れられん。オルフェウス、先導を頼んだぞ」
「うん、任せて」
先導者はオルフェウスだ。かつて冥府を行きて戻った逸話を持つ人物だ。これ以上ない適任だろう。
「お世話になりました、ハデス様。この御恩はまたいずれ」
「うむ。現世を頼んだぞ」
竹が恭しくハデスに礼を告げ、ハデスも鷹揚に頷く。竹にしては珍しい、神として凛然とした態度だった。こういうところはさすが姫としてしっかりしている。
「行こう。走って」
「ああ。ネロは俺が担いでいこう」
「お願いしますぞ、吉備之介殿」
オルフェウスが先頭に立ち、駆け出す。気絶したネロは俺が背負っていく事にした。あれだけ暴れ回る戦闘力があるとは思えないほどネロの体重は軽かった。
燐光の端は境界線となって不死者の侵入を防いでいた。不死者がこちらを恨めしそうに見えてくるが、手を出す事は叶わない。動く骸骨や人魂が燐光の端に沿って群がるので、まるで塀のようだ。
このまま行けば無事に根の国を脱出できる。そう思っていた。だが、
「…………? 何だ?」
遠くから地響きが聞こえてきた。地鳴りとは違う。犇めいている音とも違う。巨大な生物が走ってきているかのような音だ。
「おいおいおい、何だありゃ」
波旬が道の後方を向いて言う。合わせて振り返ってみれば、そこには筆舌に尽くしがたいグロテスクなモノがいた。
餓鬼や黄泉醜女を粘土細工のように無造作に一塊にした化け物だ。六本ある脚部はまるで巨大な蜘蛛だ。六本脚を前へ前へ交互に動かして、俺達を猛然と追ってくる。
巨大蜘蛛の頭頂部の位置には一人の鬼女が生えていた。
「逃ガサンゾ、桃太郎……!」
温羅だった。




