第43転 うら・ら
……っと、いけないいけない。興奮している場合じゃない。見知らぬ人物がまだそこに突っ立っているのだ。無視するのは失礼だったな。
「すみません、お待たせしました。あんたは?」
「我輩はハデス。冥王ハデスである」
「!」
冥王ハデス。
ギリシア神話における冥府の神。富める者。死後の世界の支配者。主神と海神の長兄。地下の神である為、天上のオリュンポス十二神には数えられていないが、充分に比肩する地位と実力を持つ。
「ギリシアの神がどうして日本に?」
「異世界転生軍との戦いに備えての作業の為だ。秘密作戦であるが故に詳細は明かせん。それと、イザナミの代わりとしてそなたらに応対しに来た」
「イザナミとは会えないのか?」
ハデスは頷き、社の奥の闇の柱を顎で指した。
「イザナミは今、自分自身に祈祷を捧げ、あの闇の柱を制御している。他所に割く集中力はなく、また他者と会話する事も儘ならん。そこでたまたま根の国に来ていた我輩が代行を買って出たのだ」
「そりゃあわざわざどうも……お人好しだな、あんた」
現代社会でいえば大臣とかの国家重鎮に相当するだろ、この神。となれば、ここ根の国では客人として扱われている筈だ。しかも賓客として。その賓客が他国の遣いをやっているんだから、お人好しというか面倒見がよすぎる。というか、ぶっちゃけ変人の域にいる。何なんだ、この神。
「そなたら輪廻転生者は異世界転生軍に対抗する唯一の戦力。ここ冥府の住人にする訳にはいかん。幸い、まだ命は繋いでいる。であれば、現世に戻る事も可能だ」
生者が冥府を生きたまま往復する伝承は世界各地にある。この日本でもイザナミの夫神イザナギがそうだったし、そこのオルフェウスも経験者だ。死した妻を現世に蘇らせる為にオルフェウスは冥府を降り、ハデスと交渉して妻を取り戻すのだ。結末は失敗に終わり、妻は冥府から出る事はできなかったが、それでもオルフェウスただ一人は生還した。
「我輩が現世に通ずる道を作ろう。オルフェウスがその案内人となる」
「うん、ぼくに任せてくれ。無事にきみ達を送り届けよう」
「であるか。そいつぁ頼もしいな、是非もなし」
確かに冥府還りの実績があるオルフェウスが案内人となってくれるのであれば頼りになる。根の国に来てしまったと聞いた時には最早これまでと半分くらい思っていたのだが、これで一安心だ。
「さて、そうなるとあとはカルとタケを待つだけなんだけど……ああ、噂をすれば来たみたいだヨ」
ネロが顔を向けた先からは三人の女性が来ていた。一人は竹、一人はカルル、もう一人は鬼女だ。ここからだと暗くて顔がよく見えない。
「獣月宮、カルル。無事だったか」
「おお、吉備之介殿!」
「あ、百地……」
「?」
駆け寄って声を掛けるとカルルが朗らかに、竹がぎこちなく応答してきた。頬が若干赤いように見えるが、どうしたのだろう。
近付いた事でようやく鬼女の顔が視認できるようになった。何故かずっと俯いていた頭を上げた彼女の顔は――
「――そいつから離れろ、お前ら!」
「え……?」
竹が虚を突かれた顔をする。竹の思考が纏まるよりも早く鬼女の爪が竹へと奔った。咄嗟に竹が身構えるが、もう遅い。爪撃は竹の反射速度を悠々と超えて迫り、竹には回避する事も防御する事も叶わない。
それよりも更に速く、カルルが竹と鬼女との間に割って入った。カルルが身を挺して竹を庇い、その背中に爪撃を受ける。血飛沫が飛び散り、血痕が地面に染み込んでいった。
「畜生……絶対防御が間に合いませんでしたか」
「カル!」
カルルのチートスキル【海の王者】の発動が遅かったせいでカルルは背中を負傷した。だが、完全に間に合わなかった訳ではなく、一命は取り留めたようだ。そうでなければ、か弱い人間の血肉など爪撃で爆散していた事だろう。
刀を抜いて鬼女に向かって構える。鬼女は口端が裂けんばかりに哄笑し、指を鉤爪にして構えた。
「お前、温羅ァ!」
「くくく、カカカカカ! 久しいなあ、桃太郎!」
鬼女の正体はかつて吉備地方を治めていた暴君、かつて常世を脅かした破落戸共の王者、鬼ノ城の城主にして鬼ヶ島の族長。『悪鬼』温羅だった。




