第41転 根の国のオルフェウス
瞼を開けた時、最初に視界に入ったのは岩だった。
「……どこだ、ここ?」
身を起こして四方を見渡すが、どこもかしこも岩だらけだった。地面もごつごつした岩だし、あちらこちらに岩の柱が立っている。右も左も前も後ろも奥行きは見通せず、かなり広い空間だ。上は天井が見えないほど高い。知らない天井どころではない。
薄暗くはあるが、何も見えないというほど真っ暗闇でもない。ぱっと見、光源になるものは見当たらないが、どうなっているのだろうか。
「……洞窟だな。どこの洞窟だ?」
いや、ここはどこかもそうだが、なんでこんなところにいるのかも疑問だ。俺は……そうだ、確か魔王城にいた筈だ。あの富士山頂から噴出してきた闇に呑まれて意識を失ったところまでは覚えている。アレはさすがに死んだかと思ったが、俺は生きているのか?
……脈拍はある。呼吸もしている。右手は刀を手放していない。とりあえずは生きていると判断していいだろう。闇に呑まれた後、気絶していたようだ。
「気絶している間にちょっと眠ったか。体力と気力もそこそこ回復できたな」
だが、生きているとして、何故ここにいるんだ。魔王城から何をどう経由してここに来たんだ?
「獣月宮は? あいつらはどこにいるんだ?」
周囲には誰もいない。ここには俺一人だけだ。あいつらもここに来ているのなら探しに行かなくてはならない。出口も見つけなくては。
そう思って踏み出そうとした時だった。
洞窟の奥から青白い火の玉が大量に現れた。
「何だ!? 異世界転生軍の攻撃か!?」
迫る火の玉はまるで魚群だ。訳も分からず刀を振るう。だが、火の玉は刃をすり抜けて何の変化もなかった。火の玉の群れが俺の身体に当たり、通り過ぎる瞬間、筆舌に尽くしがたい悪寒に襲われた。寿命を削られたかのような冷たい感覚。この感覚は桃太郎時代に味わった事がある。
「人魂か!」
死後の魂が呪いを仮初の肉体としたもの。死霊、怨霊とも呼ばれる不死者の一種だ。平安時代、人魂を操る鬼と戦った事がある。鬼といえば強壮なイメージがあるが、中国では鬼とは死霊を意味していた。鬼と死霊術の相性はいい。
「霊相手ならこれだ。――【大神霊実流剣術春聯】」
刃に破邪の霊力を纏う。途端、死霊の群れが動揺した動きを見せた。やはりこの技はこいつらにも有効らしい。分かりやすい連中だ。
「ここがどこでお前らが誰かは知らないが、俺に挑むっていうんなら斬るぜ」
先刻の冷たい感覚。あれはヤバい。理屈は分からないが、あれに触れ続けたらヤバいと直感した。あいつらと同じ死者に近付く予感がする。だから、そうなる前にここであいつらを全て倒さなくてはならない。
「――――」
果たして人魂が何を言ったのか、再び群れがこちらへと突っ込んできた。俺は一つ一つの人魂の動きを見極め、その悉くを斬り落とさんと刀を振るい、
「~♪ ~♪」
激突する直前に何者かの横槍が入った。
こんな暗い洞窟には似つかわしくない、飴のように甘い音色だ。これは竪琴の音か。音の出所を探せば、小高い岩の上に一人の人間が立っていた。
「……女? いや、男か?」
そこに立っていたのは金髪碧眼の人物だ。髪が踝にまで届くほど長く、容貌が華奢な為、一目では男性か女性かの区別が付けられない。服装は男物の燕尾服である事から、ひとまずは男性と見なす。長い金髪は後頭部で緩く一本に纏められていた。
男の手にあるのは武器ではなかった。剣でも槍でもなければ弓でも棍棒でもない。楽器だ。彼はその腕に抱える竪琴を弾いていたのだ。この場が洞窟ではなく、劇場ではないかと勘違いするほどの演奏ぶりだ。
「すまない、刃を納めてくれ。彼らは驚いて反射的に攻撃してしまっただけなんだ。本来は死者しかいないこの場所に生者が現れたのだからね」
青年の表情は穏やかで圧がない。だが、この場において沈着に振舞える事こそが如何なる者でも口を挟めない存在感を醸し出していた。
気付けば、人魂はいなくなっていた。どういう原理かは分からないが、今の竪琴の音色を聞いて退散したようだ。
「……あんたは?」
刀を鞘に納めながら男の名を尋ねる。問答無用でこちらを攻撃してこなかったところを見ると異世界転生軍ではないようだが、かといって味方と断定するのもまだ早い。
「ぼくはオルフェウス。輪廻転生者の一人、しがない詩人だよ」
「オルフェウス! あんたが……!」
元来、ギリシア神話には転生の概念はない。全ての死者は冥府に送られ、冥王の所有物となるからだ。
だが、例外が存在した。死んだ妻を迎えに行く為に冥府を下り、冥王に現世への帰還を許された男がかつていた。
冥府を往還した男はある密儀宗教を開いた。人間の霊魂には神性を有している。神性は不死性に繋がる一方、霊魂は肉体に拘束される。それ故に不死なる霊魂は次なる肉体に宿り、再び生を繰り返す。
死者の魂は冥府には行かず、地上で輪廻転生を繰り返すのだ――そんな教義を神代のギリシア世界で説いて回った男がいた。
宗教の名はオルペウス教。その開祖こそが伝説の詩人、オルフェウスだ。
「桃太郎の転生者、百地吉備之介だ」
「そう。よろしく、吉備之介くん」
オルフェウスが右手を差し出す。朗らかとはまた違う、たおやかというべき優しい仕草だ。応じて俺も右手を差し出し、握手を交わす。
「あんた、もしかして琴ノ音オルフ?」
「知っているのかい?」
「知っているも何も有名人だろ、あんた」
琴ノ音オルフ。
動画サイトで歌ってみた系の動画を中心に投稿している配信者だ。近年、テレビの視聴率が下がり、Webが席巻する世の中で彼の動画は爆発的人気を博していた。若者の間で彼の名を知らない者は殆どいないと言ってもいい。最新鋭のアイドル歌手である。
「あの琴ノ音オルフの正体がまさかオルフェウスだったなんてな。まあ、名前からすれば一目瞭然ではあるんだが。会えて感激です。あとでサイン下さい」
「ありがとう。ふふふ、こそばゆいね」
「オリ曲の『ゴー・ゴー・アルゴー』は鬼リピートさせて貰いました。世間的には『冥間飛行』が一番人気らしいですけど、俺はあっちの方が好みで」
「ああ、アップテンポな曲調がいいんだ。ぼくもアレは歌っていて気分が上がるね」
いやはやまさかあのオルフと知り合えるとは。人生いつ何が起きるか分からないものだ。感動だ。
……おっと、いけないいけない。談笑している場合ではないのだ。まだ状況が殆ど分かっていないというのに。
「あんたはなんでここにいるんです? ていうか、まずここはどこなんですか?」
「そうだね。色々説明したい事もあるし、歩きながら話そうか」
オルフェウスが先導する。そうだ、早く竹達とも合流しなくてはならない。ここで立ち止まってはいられない。
自分の後をついてきた俺を見て、オルフェウスは淡く笑う。
「それじゃあ、案内しよう。ようこそ、根の国へ」




