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研究レポート 朝倉景綱・信景

【著者】木瓜会 第七十二期生 津田秀綱



* * *



序章 はじめに


今回研究発表するのは、故郷の偉人・朝倉景綱親子についてです。

景綱とその子・信景は全国的にみると知名度が低く、その活躍が余り知られていません。

同時代に活躍した英雄・織田信清と親交を結んでいたというのにです。

そこで、景綱と信景の事績をレポートして知名度の向上を図りたいと思います。


景綱を語る時に外せない、特筆すべきことがあります。

それは、景綱と特に親交の深かった織田信清を置いて他にありません。

よって、まずは信清について述べたいと思います。



* * *



第一章 織田信清


この国の歴史上において、最も知名度が高くファンも多いのは織田信長と織田信清であると言っても過言ではないでしょう。

彼らは戦国の世を終わらせ、大日本国と言う基礎を築いた偉人です。


歴史ファンでなくとも、名前や簡単な事績くらいは言うことが出来るでしょう。

小説やマンガ、ドラマにゲームなど様々な媒介で紹介され、何度も繰り返し題材にされ続けている二人ですから。


さて、信長は「人格者の天下人」と言う表現をよく使われます。

信清は、その信長に天下を取らせた人と言う印象です。


余談ですが、とある調査によると信清には「影の宰相」というイメージがあるそうです。

実際には影に隠れることもなく、普通に宰相の立場であったのですが。

これは信清が忍衆を組織し、裏側からの働きを得意としたせいでしょう。


また、とある題材で織田忍軍の棟梁として描かれたのが印象に残ったためとも考えられます。

謀神、忍使しのびつかいなどと渾名される由縁かも知れません。


話を戻しますが、信清は信長に天下を取らせました。

信長も信清を信頼・重用し、最終的に五ヵ国の太守にまでなりました。

その領地は西に東に中央に、正にその立ち位置を示すが如きに広がっていました。


信清の人脈は多岐に渡り、織田家の中で疎遠な人は一人も居ないと言われる程です。

そんな信清ですが、織田家以外で特に仲良くしていたのが北条氏政と朝倉景綱だったと言われています。


ここで北条氏政についても少し触れておきます。


氏政は、伊勢宗瑞に始まる関東北条氏の四代目で、英邁な一族が多い中でも突出して優秀だったとされています。

北条氏の最盛期を築き、織田幕府において何と信清を超える六ヵ国の太守となっています。

六ヵ国(伊豆・相模・武蔵・上総・下総・安房)は彼の次代で分割されますが、確固たる地盤を築いたことは間違いありません。

更に嫡男・氏直の正室に信清の娘を迎え、北条宗家を織田家一門扱いとするなど、安定化に尽力しています。


戦国時代の雄として著名であり、詳細はともかくその名を知らぬ人は少ないことでしょう。


他方、朝倉景綱は二人と比べて明らかに知名度に劣り、名前すら知らない人も少なくありません。

次章では信長、信清、氏政らと同時代を生き、活躍した景綱の事績に迫りたいと思います。



* * *



第二章 朝倉景綱


そもそも朝倉景綱とは何者なのでしょうか。


彼は越前に根を張る朝倉氏の一族です。

朝倉氏は、室町時代に越前守護職となった斯波氏の下で守護代など要職を務めていました。

その後徐々に力を蓄え、遂には斯波氏を追い出して越前守護職にまでなったのです。


景綱はそのかなり初期に分かれた一族で、宗家から見るとかなり縁遠い一門衆でした。

そのため朝倉一門での序列もそう高い方ではありません。

もっとも要衝を任されていたことから、冷遇されていたと言う訳ではないようですが。


さて、朝倉景綱という戦国武将は前章で出てきた華々しい活躍をした人物たちとは異なり、とても地味です。

理由を察するに、越前を治めていた戦国大名・朝倉義景の庶流が滅亡を免れ織田家に臣従。

そこで所領安堵を受けて命脈を保ちますが、どこの太守にもなっていないせいでしょう。


戦国大名としての朝倉家は、宗家当主の義景が織田家に滅ぼされてしまいます。

義景の嫡子は助命され、後に景元と名乗り織田幕府の旗本となりました。

他の一族も、そのほとんどが旗本程度の存在でした。


しかし景綱は地味ながら大名に列し、一門の誰よりも繁栄しています。


では何故、景綱は繁栄することが出来たのでしょうか。


景綱の領地は越前織田庄にあります。

交通の要衝であり、そこに城を築いて居住していました。


越前織田庄は、織田家発祥の地と言われ、尾張織田一族にとっても重要な場所でした。


通常、家の原点はとても大切にされ、他家に任せることなど有り得ません。

良くて転封、悪くすれば滅亡の憂き目に遭う可能性もありました。


しかし景綱は織田家に臣従し、宗家が滅んでも本領安堵を受けています。

それどころか、先にも述べた通り他の有力一門が衰退するなか最も繁栄することとなります。

一体何故でしょうか。


その理由は、景綱の人物によるところが大きいとみています。

景綱は、名家にありがちな無駄に高いプライドを持つような人物ではありませんでした。

朝倉初期より連綿と続く傍流の家に生まれ、一門の序列も高くなかったことがその要因だと考えられます。



織田家が足利義昭を将軍として推戴した時、朝倉家に上洛の依頼が舞い込みます。

使者となったのは斯波義銀。

元・越前守護職であった斯波氏の末裔で、この頃は織田家の庇護下にありました。

副使に織田信家と織田信清を連れての談判でした。


信家は尾張守護代家の嫡流で、世が世なら朝倉宗家の同輩と言うことになります。

義銀に至っては旧主筋です。

そして、織田家を主導する立場に連なる信清。


この三名が使者として越前に来ると言うのは、朝倉側にとって痛烈な皮肉としか映りませんでした。


しかし斯波義銀は将軍の名代。

大っぴらに追い返す訳にも行きません。


そこで、織田城主だった朝倉景綱に白羽の矢が当たったのです。

織田家発祥の地、織田庄を領す景綱が朝倉家の代表として幕府へ出仕。

皮肉には皮肉で返す。

裏に込められた意図は、誰の目にも明らかでした。


そしてこの時、景綱の運命は確かに変わったのです。


当初気が重いとこぼしていた景綱でしたが、徐々に変化が起きて行きます。

景綱が越前側の窓口を任されたことと、使者に立った義銀・信家・信清の三人が気を遣ってくれたためです。

そして景綱もまた、変に意地を張らずに三人と付き合うことが出来る人物でした。


守護、守護代の立場にありながら穏やかで人当たりの良い三人。

伝統に縛られない、織田家の強さ。

景綱は、様々な面で越前との格差が非常に大きいことを知ってしまいます。


そして遂に、運命の岐路を迎えるのです。


織田家は順調に勢力を広げて行きます。

西へ進んで中国地方を領する毛利家との対決が避けられなくなります。

東へ進み、甲信から南西へ進出を図る武田家と衝突するのは時間の問題でした。


越前は平穏でしたが、畿内周辺で織田家に臣従しない勢力は邪魔以外何物でもありません。

織田家内部で朝倉討伐論が台頭し、景綱は厳しい立場に追い込まれます。

何とか戦を回避させようと、上位一門の上洛を促す書状を何度も送りますが黙殺されます。

むしろ、足利義昭との繋ぎを取るよう指示されてしまいます。


景綱は悩みますが、別口で使者の往来が進んでおり、最早手遅れでした。


足利義昭は将軍として、信長に対して五箇条の要求を出します。

その第四項に「朝倉義景と吉良義昭を管領とせよ」とありました。


水面下で織田家と将軍家の決裂は決定的となり、朝倉討伐が決定しました。

事此処に至り、景綱もまた決断します。


自発的に織田家に近付く、と。


織田家は将軍の命として朝倉義景に出仕を命じますが、将軍家と密約を結んだ義景はこれを黙殺。

戦支度を始めます。

景綱の下にも帰国の指示が来ていました。


景綱は指示を無視し、朝倉家の動きを信家へ通報。

信家は情報を信長・信清に渡し、景綱の動きについても報告していました。


織田家は朝倉討伐に乗り出し、朝倉に同調して挙兵した浅井家諸共討ち果たします。

越前に乱入された朝倉家は一族重臣の討死、離反が相次ぎ遂に降服。

義景は自害して果てました。


所領を安堵された朝倉一門は、僅かに三名。

そんな中、景綱のみは本領安堵に加えて加増されています。

この時点で朝倉氏随一の大身は景綱であり、この系統が他に抜かれることは幕末までありませんでした。


戦後、越前に入った信長と信清は、景綱の案内で織田庄を視察します。

織田家発祥の地を隅々まで確認した信長は、戦々恐々とする景綱に本領安堵を通達。

次いで信清より、追加で加増の達しがありました。


織田庄は確かに織田家発祥の地ですが、信長や信清にとってはただそれだけとも言えます。

彼らの本拠地は尾張であり、美濃なのです。

越前も織田家の支配下となった今、敢えて織田庄に拘る必要はない。

それよりも、朝倉討伐が始まる前に臣従を決断した景綱の心意気に報いるべきと考えたのです。

功臣の所領を取り上げるなど、とんでもないことでした。


結果として景綱は織田城主としての地位を守り、別口で加増されて叙任も行われました。

さらに織田家と縁を結ぶことも約束され、後年信清の姪が景綱の嫡子・信景に嫁ぐことで果たされました。


織田家の家臣となった後、景綱は基本的に信家と行動を共にし、北陸征伐軍に組み込まれます。

義銀の働きで最上や大崎と言った東北の斯波一族が従属を申し出てきた時、その補佐をしたのは景綱でした。

東北から使者がやって来た時は、流れで信清の側近としても働いたという記録が残っています。


このように、景綱は基本この三名と仕事をすることが多かったようです。


そして、越中侵攻の時に嫡子・信景が初陣を果たします。

越後上杉討伐の時まで同陣し、景綱は越後平定後に越前へ帰還しました。

帰国した景綱は領地の安定に力を注ぎ、表舞台にはほとんど姿を見せなくなります。


東北平定から天下統一まで、そしてその後の活躍は嫡子・信景のものとなります。

次章では、信景の事績に付いて紹介したいと思います。



* * *



第三章 朝倉信景


朝倉信景は景綱の嫡子です。

信景の「信」は織田信清からの偏諱で、越前朝倉氏の筆頭として立派な名乗りだと当時の記録にもあります。

また、彼の正室は信清の弟・広良の娘で織田家の準一門衆に列せられました。


信景は初陣を果たすまで信清の傍近くに見習いとして仕えており、その活躍を間近で見ていました。

その活躍を若い信景はよく理解、吸収して自分のものとします。

信清と離れてからの活躍は、この時の経験が生きたものでした。


初陣は父と同道した越中侵攻。

そのまま越後平定を成し遂げ、ここで父と別れます。

信景は信家に従い、出羽で最上らとともにその平定に尽力。

小野寺攻めでは目覚ましい武功を上げました。

出羽・奥州平定後に信清は帰洛しますが、信景は信家と共に戦後処理に力を尽くしました。


その後まもなく、織田家による天下平定が為されます。

しかし信景は更なる北方への進出を唱え、信家を通じて信清に訴え出ます。

信清はこれを取り上げ、蝦夷地開拓主管を織田長益に命じ、信景はその補佐を任されました。


信景は硬軟巧みに使い分け職務を推進、遂には蝦夷地を越えて樺太の領有に成功します。

その功績により樺太の太守にしてはどうかと言う声もありましたが、信景は固辞して帰国。

父の後を継いで越前織田城主となりました。


信景の功績に対し、時の将軍・織田信忠は南樺太に領地を宛がいます。

太守は固辞しましたが領地は拝領し、代官を置いて積極的に開発に努めました。

南樺太の朝倉領は後に分立し、樺太朝倉家として現在までその血脈を守っています。

ちなみに当代は、筆者の先輩でもある木瓜会第六十九期生である朝倉景守氏です。


余談ですが、信景はマメ日記をつけていたようで『朝倉文庫』に現存しています。

中には「信長様、マジ人格者。これが天下人って奴か。すげぇ!(意訳)」や、

「信清様の頭ん中どうなってんだ?能臣ってレベルじゃねぇーぞ!(意訳)」

と言った記述があり、彼ら二人を敬慕していたことが窺えます。


信景が活躍したのは戦国時代の末期。

それも耳目を集める西国の戦いではなく、何となく地味な印象の強い北陸から東北にかけてでした。

そして、すぐに天下統一が成し遂げられます。

よって、彼の人生の大部分は蝦夷地と樺太の開拓に費やされ、功績の大きさに比して光の当たり難いことが、今日の彼らの知名度の低さに繋がっていると言えるでしょう。


なお、越前の太守は信清の弟・広良に始まり、その子・広長へと受け継がれて行きました。

朝倉家が越前の太守となる日は終ぞ来ず、それでも各地に広がった朝倉一族の領地を全て併せれば越前太守の所領は軽く凌ぐと言う事実を記しておきます。



* * *



終章 まとめ


安土時代における越前織田城主・朝倉景綱は、主家や同僚が衰退する中で上手く泳ぎ切り、次代へとバトンを手渡しました。

次代である朝倉信景は、その溢れる知性と行動力、人脈を生かして朝倉家興隆の基盤を築きました。


二人とも、時代を精一杯生きて大きな功績を残しています。

同時代に生きた信長や信清、氏政らの影に隠れてしまいがちですが、その活躍は立派なものです。


特に信景は大日本国の当時の北限、樺太領有に成功するという偉業を成し遂げています。

それは、父・景綱が信清と深い親交を持っていたが故と言えるでしょう。


このように事績を書き連ねてきましたが、少しでも知名度の向上に役立てば幸いです。



参考文献:『織田大日本史』『織田太平記』『朝倉文庫』『木瓜会文書集』

     『蝦夷・千島』『樺太探索記』『有楽日誌』『安土時代の太守大系』

     『信清の野望』『三英傑』『織田時代考証』『天下の副将軍(笑)』



全部フィクションです。

久しぶりに読み返してみたら、朝倉のこと書いてないなと思い至りまして。

方向性が妙な感じになりましたが書いてみました。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 面白くてペース良く読めました。 [一言] この世界での信清の評価的なものが見たいです。ゲームをやって信清に持っている印象や世間での一般的評価、人気などですね。もしくはネットのスレみたいな物…
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