3
翌日から私は紅貴妃様の宮殿の掃除の仕事に移った。とは言っても紅貴妃様や皇子の居室などは貴妃様付きの女官が担当なので、私は女官の部屋の掃除や滅多に使われない高貴な客人のための部屋の掃除、外観や庭の掃除などが主な仕事だ。
貴妃様の宮殿ともなると広いので、掃除をする場所も多い。私は黙々と手を動かした。
見たこともないような豪華な調度品を丁寧に拭く。宮殿内には風に乗って香の香りが漂っている。
紅貴妃様の宮殿にはひっきりなしに妃嬪が訪れていた。権力に縋りたい者が多いのだろう。
私はやってくる妃嬪の顔を覚えようと努める。どの妃嬪が紅貴妃様の勢力に入っているのか、把握しておけば今後役に立つこともあるだろう。
それに加えて、女官達の噂話にも聞き耳を立てた。いつ姉の死に繋がる話を聞けるかわからない。
基本的にはくだらない日常会話だったが、時折他の妃嬪の噂話もしている。ただ、貴妃様は位が高すぎるからか、貴人についての話は滅多に聞かれない。
そんなある日、日中に陛下が紅貴妃様の宮殿にやってきた。陛下の来訪は夜が主だが、友のように親しい紅貴妃様のところには、時折話をするためだけに日中訪れることがあるらしい。
後宮に入って、初めて陛下を間近で拝見することが叶う。姉と、少なくとも一夜を過ごした相手だ。
今すぐ陛下に駆け寄って姉のことを聞きたい。姉のことを覚えているか、誰が殺したと思うのか。
そんなことをしては後ろに控える侍衛たちにすぐに捕えられてしまうことはわかっている。庭を掃除していた私は、後宮内で普段はほとんど見かけない侍衛を従えた陛下に膝をついて礼をした。顔を上げることは許されないので、足元を見るだけだ。
陛下が紅貴妃様の居室に入ると、おずおずと頭を上げる。侍衛の集団が庭で陛下が戻ってくるまで控えていた。
と。その中に一人、なぜか目を引く者がいて、よく見ると私を見ている凌崔だった。
侍衛集団の後方に控える凌崔は二人で会う時より神妙な顔をしていて思わず笑いそうになってしまう。目が合った凌崔は片目をつぶって私に口の動きで合図を送ってくる。
「あとで」
陛下がお帰りになりしばらくしてから私はいつもの建物へと向かう。そこには既に凌崔がいて、私を待っていた。
「よう」
紅貴妃様の宮殿で見た時の神妙な凌崔ではなく、いつも通りの力の抜けた姿だ。
「本当に侍衛だったんだね」
「疑ってたのかよ」
凌崔は私の頭をこづく。
「陛下の警護を任されるなんてすごいじゃない」
「今日はたまたまな。でも夏珠とも約束したし、早いところ出世しないよな」
私を守るなら出世してよ、という私の冗談を、凌崔は思いの外覚えていてくれたらしい。
「夏珠こそ、本当に紅貴妃様の宮殿で働いてるんだな」
「掃除女官に変わりはないけどね。あれ以来紅貴妃様ともお話できてはないし」
「掃除女官がそう何度も貴妃様と話せるかよ」
凌崔の言う通りだ。妃嬪と話せる機会が多い女官なんて、お付きの女官の中でも特に信頼されている女官しか無理だろう。お付きの女官ですらない私ならなおさらだ。
「でも貴妃様は身分の割に女官が少ないんだ。疑り深く慎重なお方なんだろうな。そんな貴妃様に気に入られたんだ。そのうち運も巡ってくるさ」
「そうだといいけれど」
たしかに紅貴妃様の宮殿の女官はいつも忙しそうで慌ただしくしている。貴妃様自身も人手が足りないと言っていた。
そんな貴妃様に気に入られたのだったらいいが、姉と同じ髪色なので、何かしら関係があるのかもしれないと引き立てられたのかもしれない。疑り深く慎重なら、姉の関係者かもしれない私を懐に入れて監視したかった可能性もある。
生前の姉と関わりがあったとか、もしくは貴妃様自身に姉に関して後ろ暗いことがあるか。
私は小さく頭を振った。疑い始めてはキリがない。
犯人の候補は後宮にいる人間全員だ。一人一人疑っていては大変だった。
「夏珠のくせに難しい顔をしているな」
「私にもいろいろあるのよ」
「それは何となくわかるけどよ。……それを俺に言う気はないのか?」
珍しく迷った末に尋ねられて、私は凌崔の顔をまじまじと見る。凌崔とはもう何度もこの場所で会って言葉を交わした。中庭に妃嬪がよく来ると教えてくれたのも凌崔で、そのおかげで貴妃様の宮殿で働くこともできるようになった。
凌崔は後宮の人間でもなく、私を守ると言ってくれた。
──信用して話してもいいのだろうか。
姉のことは自分だけでなんとかする。誰にも頼らない。
そう決めて後宮に入った。だけど、一人の力でやることにも限界がある。
姉のことを口にして、凌崔が後宮を管理する内務府に私のことを報告したら、私は後宮にいられなくなる。そういう懸念もある。
──だけど。
私は凌崔を信じたいのだ。何度か会ううちに、私は凌崔に気を許し始めている。
凌崔といると安心するし落ち着く。何より楽しくて、私は凌崔といる時間が好きだ。
凌崔に姉のことを話して協力してもらえたらどんなにいいだろう。
そう思いかけて、ふと思い止まる。私が姉の復讐のことを話して無事にそれが達成できた時、誰にも悟られずにいられるだろうか。
もし私がしたことが明るみに出て、協力してくれた凌崔まで捕えられることになってしまったら──
私は恐ろしくて身震いする。
「それは言えな……」
言えない、と断りを入れようとしたところで私は言葉を発せなくなった。口が塞がれたのだ。
何に──? 私は何が起こっているのかわからなくて固まってしまう。
目の前には近すぎてよく見えないけれど凌崔の顔と、唇には温かくて柔らかい何か。そして身体中に広がる凌崔の落ち着く香り。
唇から温かいものが離れ、凌崔の顔が間近ではっきりと確認できるようになる。そこでようやく、私は凌崔に口付けをされたのだと気がついた。
心臓の音が凌崔に聞こえてしまうんじゃないかというくらい大きく鳴っている。
「りょ、凌崔……」
「今、余計なことを考えていただろう、夏珠」
凌崔の顔は怒っていた。
「一人で抱え込むのはよくない」
「でも……」
「でも、じゃない」
凌崔はいつものように手で私のおでこをこづくのではなく、自分のおでこを私の頭に軽くぶつけた。その近さにドキリと胸が高鳴る。
「俺が夏珠の力になりたいんだ。例えどういう結末になったとしても」
凌崔には姉のことをまったく伝えていないのに、まるですべてを知っているかのような口ぶりに驚く。しかし、嫌な気分はしない。
「夏珠が何かを抱えているのはわかってる。初めからそういう顔をしているからな」
「私、そんなにわかりやすいのかなぁ」
「他のやつらにはわからないんじゃないか」
凌崔はそう言って私をぎゅっと抱きすくめる。
「だから教えてくれよ、夏珠。夏珠のすべてを知りたいんだ」




