27/幸せへの選択で、ましまし(2)
その日のうちから、わたしの葛藤は始まった。
カレンダー上の数字は、善三の告げたタイムリミットに段々と近づいていく。社の人間は見守るばかり。どうやら広瀬さんが全員を集め、説明をし、尚かつ口をはさむべからずと説得したようだ。おかげで早崎くんさえ大人しい。そしてわたしは、揺れている。
毎日どころか、分刻みで心は揺れ動くばかりだ。
自分がこんなにも優柔不断だとは思ってもみなかった。決断は速い方だと自任していた。しかし違った。
本当は告白したかった、高嶺の花のおんなの子。
もっと上を狙いたかった大学受験。
別れたくなかった彼女。
就職だってそうだ。今の職場に不満はない。人間関係は良好だ。給料は高いわけではないが、延滞があった事はない。しかしやりたかった仕事かと問われれば違う。
わたしは決断が速いのではない。諦めが速かったのだ。
高嶺の花だから、最初からダメだと諦め。
上を狙って落ちた時を想像し、妥協し。
自分よりもふさわしい男がいるからと、彼女をひきとめもせず。
やりたい事ができる人間は一握りだからと、就職先を深く考えもせずに決めた。もうひと頑張りができない。
だから自信をもって決められない。
善三に全てを任せるのが、間違いないはずだ。最善を選ぶなら、羽鳥組だ。その方がメジロもわたしも安心だ。なのに、ぐずぐずと決められずにいる。
昼休みに善三が来る。
その度にわたしは、用事をつくって外へ出た。善三と顔を会わせれば、穏やかではいられなかった。善三は何か言いたげだが、口にはださない。いつもはあんなにうるさい男なのに、黙ってわたしの背を見送るばかりだ。その視線が痛い。速く決断しろと催促されている様な、焦りを覚える。
※ ※ ※
「はい。お祝い」
そう言って、わたしに自販機の缶珈琲を投げてよこしたのは、山田准教授だ。わたしは館大事務室前の長椅子にいた。入札が終わった直後だった。
空中で受け取った缶は暖かい。手のひらに伝わってくる熱が、わたしにあいつらを思い出せる。
にーくんの手伝いをしろと、まっしーも家に置いて来ている。肩からも、ポケットからも、メジロ共の暖かさは消えてしまった。
いつもだったら嬉しい山田准教授との出会いも。奢りの缶珈琲も、なんだかやるせなくて、わたしは手にした缶を、むやみやたらと捏ねくり回した。
「ありがとうございます」
「心ここにあらずだねえ」
そう言って山田准教授は隣に腰かける。
「いえ、終わって、ちょっと気が抜けちゃって。ハハ」
笑い声がむなしく響く。山田准教授が眉をひそめる。
そりゃそうだ。どっからどう見ても、今のわたしは腑抜けだ。結果は我が社の採用だったのに、このありさま。
昨年からの案件だ。嬉しくないはずがない。嬉しいんだ。なのに心は、いまひとつ浮き立たない。
もしメジローずがいたらと、想像してしまう。チータカチータカ、ラインダンスのひとつでも踊ってくれただろう。
ーーお祝いでありますな。
きっと、にーくんは真っ先に喜んでくれる。
ーーでは、僕は安納さんでの乾杯を、おすすめするであります。
無理矢理自分優先で希望をだすのは、やっくんだ。
ーー乾杯とは飲み物で、ましまし。午後ティーで祝杯で、ましまし。
やっくんにツッコむのは、まっしーのはずだ。
いかん。想像してしまうと、余計に虚しくなる。わたしは頭を左右に振った。山田准教授は、いぶかしそうな目つきをしている。いたたまれない。
「書類できましたから、サインお願いしまーーす」
都合よく、事務員さんがわたしを呼ぶ。
「あ、はい」
わたしは椅子から立ち上がると、山田准教授に頭を下げた。
「珈琲ありがとうございました。納品については、追って事務を通して黒崎教授にご連絡致します」
そのまますたこらと、事務員さんの待つ窓口へ行く。
山田准教授も善三も、前向きで明るく、眩しすぎる人達だ。今のわたしは彼らの近くに居ると、少しだけ苦しくなってしまう。
※ ※ ※
就業時間の過ぎた事務所で、わたしはカレンダーの前に立った。
×印は五ヶ連なっている。明日は土曜日。そして明後日には善三がきった七日目がくる。決断しなければならない。いや、とっくに決めていた。
やっくんと、にーくん。孵ってくる雛たちを思えば、わたしが決める答えはとうに出ていた。もう迷っている場合ではない。
わたしは更衣室から出て来た広瀬さんに声をかけた。
「広瀬さん!」
わたしの呼びかけに「なに?」広瀬さんが、こちらに来る。
その様子がいつもと違う。もはや死語になりつつある花金だからか? 本日の広瀬さんは気合いのはいった装いだ。
普段の適当なトレーナーとズボン姿ではない。目にも鮮やかな真っ青なスーツ。しかも妙に時代とずれたデザイン。けれど力がはいっているのは分かる。化粧の厚さも完璧だ。これはもしやプライベート飲み会か、ご主人とのデートであろうか。だとしたら速攻告げてしまって、この苦悩には幕を下ろしてしまうんだ。
わたしは目の前に立った広瀬さんに、「今回のメジロの件では、お世話になりました。腹が決まりました」そう告げた。
広瀬さんは「そう」静かに頷く
あまり広瀬さんらしからぬ、物言いではあったが、なにせわたしも切羽詰まっていた。彼女の神妙な顔つきを気にもせずに、新入社員よろしく気をつけの姿勢をとると、一気に言った。
「やっくんと、にーくんは卵ごと、羽鳥組にお願いします」
誰かがひゅっ、と息を吸い込んだ音がした。
「そう」
広瀬さんはあくまで静かだった。
「はい」
ついに、言った。宣言してしまった。
これでもう後戻りはできない。これで迷いの退路を塞いだ。
だからと言って迷いが消えるわけではない。悔いを噛み締める夜は、いくつもあるだろう。けれど考えて、迷って。答えはひとつしかなかった。
善三の条件を、わたしが半月の間やりとげる自信がない。失敗して、卵をダメにしてしまうのが恐ろしい。にーくんとやっくんの初めての卵だ。万全の準備のできる環境で、孵って欲しい。
その為には、わたしのちっぽけな感傷や寂しさなど考えるな。
これは諦めじゃない。最善を選ぶための我慢だ。そう何度も自分に言い聞かせた。
「前迫くんが決めた事に、私は口をはさまない。あなたも色々悩んで大変だったでしょうし」
わたしは広瀬さんの慰めの言葉に、気をつけの姿勢を崩した。あげていた顔をさげ、広瀬さんを見下ろした。
「あの、今回は色々と、心配をおかけしてしまい……」
言葉に詰まった。
端的に言って、広瀬さんは怒っていた。鬼の形相もかくやという顔つきであった。冷静な言葉なのに、鬼の顔つき。そのギャップに背筋が凍る。
「……あの。なにか、気にさわりましたか、ええと」
「いいえ。全然」
鬼のまま、広瀬さんはにっこりと口元だけで笑う。
わたし達を中心に、事務所内の温度が一気に下がる。
所長は音をたてながら、新聞を広げた。斎藤さんはとっくに電源をおとしているパソコンの前に隠れた。そして外回りから戻って来た早崎くんが、ドアの取っ手に手をかけたまま、フリーズしているのが目の端に映る。頼む、入って来てくれ。空気を読まないお前の発言で、この場を何とかしてくれ。カツ丼でもケーキセットでも奢ってやるから。そう目で訴えたのに、そこは早崎くんだ。見事なまでのスルーで、そっとドアを閉めやがった。
「前迫さんの決断を私は尊重する。けれど、そういう考えなら私がメジローずの飼い主にさせてもらいます」
ふんぬと、わたしを睨みつけ、広瀬さんは言った。
「いや。無理です!」
わたしは、すぐさま叫んだ。
「わたしが涙を飲んで諦めるというのに、なんで棚からぼた餅で、広瀬さんがメジローずを手に入れるんですか!?」
「だって、前迫くんいらないんでしょう? だから私がもらってあげる」
なんだよ、その上から目線。怒りがこみあげてくる。
「いりますよ! いるに決まっているじゃないですか。でも雛の安全を考えたら、わたしが世話をするのには限度と無理があるんです」
「前迫くんに限度と無理があっても、私なら大丈夫」
広瀬さんは持論を引っ込めない。
「人間の赤ん坊は二十四時間態勢での授乳に抱っこ、排泄の始末。それが一年以上続く。けれどメジロちゃんは違う。日が落ちれば餌は欲しがらない。抱っこする必要もない。親鳥さえ育児放棄しなければ、保温も万全。排泄だって勝手にやってくれる。私なら絶対やりとげられる。だから安心して私に譲ってちょうだい」
「だから無理ですって。メジロボールの譲渡は禁じられているんです」
「それ、丹羽くんに、ちゃんと確かめたの?」
広瀬さんが訊く。わたしは狼狽えた。
「いえ、人から聞いた話しで。でもメジロボールの経験者からです。信憑性はあります」
「そうかもしれない」
広瀬さんがずいっと、一歩前にでる。
「でも、丹羽くんがどう言うか、やってみなくちゃ分からないじゃない。一度目でダメでも二度目。それでもダメなら三度でも四度でも粘ればいいじゃない。なんなら土下座して、頭を地面にこすりつければ良いじゃない。私は、大事なものの為ならそこまでする。
前迫くんは何にもしないで、大事なものを手放してしまうの? もっとどうにかできないかって、自分の足で確かめて、相手と交渉してみようって気概はないの? あなた腐っても営業でしょう」
「それは……」
言い淀んだわたしに、「まだまだヒヨッこねえ」フッと笑って、広瀬さんはわたしを追い越して行く。本気だ。きっと今から羽鳥組へ行き、善三に頼み込み、必要があれば土下座までしてメジローずを手にいれる気だ。
「待ってください」
わたしは広瀬さんを引き止めた。
「急いでいるんだけど?」
肩ごしに振り返った顔は眦が、あがっている。
「広瀬さん。わたしに言いましたよね? 外野は口をはさまないって」
「言ったわ」
「なのに、これはナイんじゃないですか? 口はさみまくりどころじゃないですよ。こんな、横暴にも程がある!」
わたしは広瀬さんコワさも何もかも放り出し叫んだ。母のお口ミッフィーの合い言葉は、どこぞに吹っ飛んだ。
「あら、前迫くん。よく覚えているじゃない」
広瀬さんが、わたしなんぞに気圧されるわけもない。にっこりと微笑んだ。
「言ったわ。あなたが子育てするなら、口をはさまないって。でもあなたは子育てしないんでしょう? その権利を放棄しちゃうんでしょう? だったら私がもらうだけだわ。ちょっと! 早崎くん」
ドアに手をそえると、広瀬さんは外で縮こまっている早崎くんを呼ぶ。
「は、はいっ」
早崎くんが直立不動になって返事をする。
「エレベーターボタン押してちょうだい」
「はいっ」
「じゃあね。前迫くん」
広瀬さんがドアを開けて、出て行く。早崎くんがエレベーターボーイよろしく、ボタンを押す。
わたしは見送るしかないのか? 散々悩んで結論をだした。それなのにホイホイ取られてしまうのか? 悔しい。やりきれない。
エレベーターの階表示を示す赤ランプが、点滅をくり返す。近づいて来る。
「まえさこぉ!!」
その時。所長が事務所内から大声でわたしを呼んだ。
腹の底から絞り出すような怒号であった。新聞紙を床に放り投げ、仁王立ちで青筋を浮かべている。
「まけんなっ! 最後の一歩で、諦めるな!」
それがわたしの背を押した。
上司の指令。社畜の習性だ。算段があるわけじゃない。けれど。とにかく。行かせるわけにはいかない。わたしは無言で走り、事務所のドアを通り抜け、広瀬さんの姿を隠そうとしているエレベーターの閉まりかけのドアに、半身を滑り込ませた。
逞しいおばちゃんキャラが好きです。
割烹着でサンマを焼いて、バズーカぶっぱなす「アキラ」の千代子おばさんは理想型です。
社会的適応力があって家事炊事ができて、パワフルなおばちゃんが良いです。女子高生みたいにほっそりしてはいけません。嘘くさいです。現実的ではありません。キャラとしてのおばちゃんは、どっしりしているのが、良いのです。
以上。個人的見解でした。




