6.暗躍
ちょっと自己嫌悪があった。
鋭い三日月を見上げながら、彼女は思う。
死ね、というのは言いすぎたのではないか。あれから返信がないのを見るに、仏とまで言わしめた男の怒りに触れてしまったのかもしれない。
いや、だからといって、異世界――というか母国から帰ってきてそうそう強制参加のお仕事発生など気が狂ってるではないか。もっと、こう、労ってもいいものだが。あまり滞在しているわけでもないのだから。
「はぁ……厄介だ」
自分の性格も、あの男の性質も。
凛然とした呟きは、誰に捉えられることもなく宵闇に解けていく。
既に時刻もニ一時を回った。今日帰るとは伝えたものの、ここまで遅いと妙な罪悪感がある。
いっそのこと退寮しようか。
いやそれだと――。
苦悩を引き裂くように、腿が微振動する。携帯端末が着信を伝えたのだ。
びくっ! と身体を一瞬だけ硬直させてから、剣を抜くような鋭くなめらかな動作で電話を引きぬいた。ディスプレイには新島の二文字。
ボタンを押して、通話。
先が尖る長い耳の根本に、スピーカーを押し当てた。
「も、もしもし」
応えるが、反応は無い。頬を撫でる風とともに、電話の向こうからノイズが走った。
足元に赤い点が浮かぶのが見える。
慌てて振り返ると、一条のレーザーポインタが彼女を照準していた。
人気のない往来。多くの路線が集中する大型の駅だというのに、人の気配は酷く薄い。この上下市の治安は決して良いものではないから、当然だ。また、学生が少ないということも理由の一つである。
「なにやってんの?」
少し怒りをはらんだ声色で問う。
『エルクが遅いから』
「さんをつけなさい」
言っている間に、レーザーが消えた。
電話の声から、大まかな位置を把握する。電話を耳から話せば、その長く伸びる耳がピクリと弾む。空気に乗ってくる足音、声、気配が、人外さながらの聴力に引き寄せられた。
距離ニ○○。駅前のビルの屋上で、新島の姿を捉える。しかしすぐにドアが閉まる音がして、彼を見失った。
彼女は再び前を向き、歩みを再開する。寮へは、駅前四車線の道路をしばらく歩いて、交差点を左へ。住宅街方向へと歩いた先だ。学園に近く、駅前の繁華街から遠いちょっと不便な場所。だけど静かで、環境の良い場所だ。
「結局なんなの? 事件解決したの?」
『いや、むしろ絶賛作戦行動中。ちなみにクーさん狙われる予定だから』
「クーさん言うな。ってなに、狙われる予定? 殺されるわけ?」
『あ、ごめん』
反論すると食い気味に謝罪が入り、ぷつり、と電話が切れた。
ぞっとする。
この男は、簡単に同僚を売るのだ。自分で誘っておいて、それ故の激務も他人ごとで、アドバイスも適当。電話をしても、時差で夜中なら簡単に切ってしまう。そのくせ仕事を頼むことだけは忘れず、最終的にこう脅してくる。
もしかして自分は奴隷なのではないだろうか。そんなイメージが鮮明に過る。
管理局に買われて、新島に飼われているのではないだろうか。
帰ったらユリに助けを求めよう。あの男に簡単にほだされるような女でないから、何かしら対抗手段を一緒に考えてくれるに違いない。
静かな街に、ガラガラとキャスターが立てる音が響く。二十キロほどのキャリーバッグは、着替えと土産でいっぱいだ。
全ての色を反射するような純白の外衣。肌に食い込む漆黒のボンデージ。編みあげられた胸元は肉が押し上げられ、深い谷間と共に豊満なバストの柔らかさがにじみ出る。レオタードのように股間に食い込む衣服。それを隠すように履く黒革の腰巻。
艶やかなその風貌を決定付けるのは褐色の肌に、腰まで長い白銀の髪。
全てを魅了するような美貌を捉えるものは、今誰一人として居ない。
現代の街の外観にあまりにも異質すぎるその人影は、だがある瞬間に、足を止めた。
遠くから轟然と鳴り響くエンジン音。人気が無いからとは言っても、この街ではあまりに不自然過ぎる速度。振動。
距離はおよそ五○○。
前方で、ヘッドライトが瞬いたのが見えた。
それを見て、記憶が錯綜する。新島からのメールの文面が視界を過る。
――目的不明。あえて車両を盗難させる。被害者は異人種。人気のない場所は日中、日中に人が多い場所には夜間に事故が発生する。
犯人は恐らくリザードマン。罠にかけ、現行犯逮捕する。
「炙り出し、ねえ」
あまりにも分が悪い作戦だ。山から降りてくる猿を捕まえるわけじゃあるまいに。
しかし彼はかかった。
なぜか。
知能があまり発達していないリザードマンで――かつ己の存在が管理局に知られたとあっては、さらに自己主張を強くするつもりなのだろう。
自分は怒っている。
それを訴えたいのだ。
「知るかよ、バカ」
デモか何かでもしていればいいのに。
即座に『術式』を展開。この世界には存在しない奇っ怪な文字列が空気中に浮かび上がり、光子をまとって輝き始める。それらは円を描いて回転し、陣を形成。
術陣の中心から鉄の柄が伸びる。腕を伸ばして、一息に振りぬいた。
身の丈を超える長刀。大きく反り返る刀身は月明かりに照り、燃えるような波紋が浮き上がる。その刀に鍔は無く、継ぎ目も無い。一本の鋼鉄の塊としてそこに在った。
長大な刀を前の虚空に突き立てる。肩と同じ高さにまで引き上げ、大地と平行に空間に伸びる。
瞬間に、彼女は思わず動きを止めた。
虚空に輝く何かを見た。細い糸が宵闇の中に一瞬だけ輝いて見えた。そしてそれが波打ち、車線をふさぐように放射状に展開している網を認識した。
暴走車はそれに気づかぬまま突っ込んでくる。
その張り巡らされた蜘蛛の巣に、車体が触れた。
刹那、甲高い金属がこすれ合うような異音が轟き、火花が噴出する。瞬く間にヘッドライトが破壊され、ボンネットが吹っ飛んだ。細切れになるよりもはやく、糸がエンジンに至った瞬間に爆発が起こった。
蜘蛛の巣は敵を捕らえる前に引き裂いたのだ。
宵闇を上塗りする爆炎が巻き起こり――銃撃音が響く。
車体が爆発する瞬間に、車から飛び出してきた影を、新島は見逃さなかった。
「ぐッ、あああッ!」
くぐもった男の悲鳴。
慌ててエルクが走りだす。爆発現場のすぐ近く、テナント募集の張り紙がしてあるシャッターの手前で倒れ込んでいる影を認めた。
のっぺりとしたトカゲの頭。野太い手足に、それらと同じくらいに太い尾っぽ。鋭い爪は地面に噛み付き、コンクリートを砕く。大きく振るわれた尾は、力任せにシャッターを激しくへこませた。
右足の流血は見られるが、その痛みが怒りを煽っているのだろう。
「うざったい……!」
少し黙らせてやろう。そう思って抜いた白刃より先に、背後で銃声。音が聞こえるより早く、リザードマンの肢体が大きく弾んだ。
「があ――」
声にならぬ絶叫とともに、横っ腹に大穴が開く。ドクドクと大量の鮮血が溢れだし、目を見開いて大口を開く。
「おつかれ、クーさん」
肩をぽん、と叩いて新島が横を通り過ぎる。
すぐ目の前のリザードマンまで歩み寄ると、患部を踵で踏みにじり、悲鳴を上げんと喉を開いた瞬間にライフルを突っ込んだ。
「あんたもお疲れさん。よくやるね、この街で」
静かな声で告げてみるも、はらんだ怒気は殺意となってリザードマンの精神を切り刻む。
その背後で、エルクが小さく手を上げた。
「質問」
「なんだい」
「人違いだったらどうするわけ?」
彼女の問に、リザードマンはかすかな希望を垣間見る。
「その時はいい見せしめになるでしょ」
そして、希望が散弾銃によって粉々に打ち砕かれたのを目の当たりにした。
「いい性格してるわね」
「初めて言われたよ」
そうこうしている内に、事前に呼んでおいた救急車とパトカーのサイレンが不協和音となって交じり合う。それが聞こえ始めたのを確認してから、新島はリザードマンの耳元で囁いた。
「運が良かったな、あんた」
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「異世界とこの世界との統合に反対だったらしいよ」
翌日、ボサボサの頭で階段を降りてきたエルクに告げる。
白いタンクトップに、白のショートパンツ姿。裸足でぺたぺた歩くものの、どこか危なっかしい。
既にアーニェを除く三人は、学校へと出かけているため、彼女の帰宅を知るのは新島とアーニェくらいだ。
「……なんで日本なの」
「上下市は一番異人種の人口密度が高いからね。彼らを危機にさらして――」
「ばあ!」
言葉を遮るようにして天井から落下してくる何か。
大きく手を伸ばして、階段で立ち止まるエルクの前にアーニェが落ちてきた。
「……おはよ、お姫様」
言いながら、片手でアーニェの顔面を鷲掴みにする。
「あーれー」
囁くような小さな声でそう漏らしながら、糸を引きちぎられてアーニェが引きずられていく。そのまま食堂へと連れ去られる大蜘蛛の姿を眺めながら、新島は短く息を吐いた。
「さて、全員揃ったし、今夜は琴乃の歓迎会だな」
街の闇にて暗躍する調停者が、モン・ステア学園第三女子寮寮長であることを知る者は、少ない。
またそれを知る者の中に――新島夕貴の性質を完全に把握するものは、限りなく少なかった。




