ユリ・フォウリナーの受難
『ユリ・フォウリナー職員。ユリ・フォウリナー職員。業務を終えてからで構わないので、早急に理事長室に来られたし』
「どっちよ……」
午後一時。ちょうど授業の片付けを終えて、これから着替えて帰ろうとしていた頃合いだった。
校内放送はそんな理事長の矛盾した台詞を、そのオペラ俳優のような声量と声質を響かせていた。
「でも、なんだろう……理事長があたしを呼ぶなんて」
妙な胸騒ぎがする。
新島が帰ってきて今日で一週間経とうかという所だ。ようやく生活にも慣れてきて、改めて日常を噛み締めている真っ最中だと言うのに。
理事長室をノックして、返事を待たずに部屋へ入る。理事長はあれだけ大きな声を出せるのに、頑なにノックには返事をしないからだ。返事を待っていればいつまで経っても入室することは出来ない。
「やあやあ、君の仕事っぷりはいつもここから覗き見させて頂いているよ」
「覗き見ではなく、普通に見てください」
「ところでどうだい、最近は」
そう問うジャスティンの顔は、不気味なほどに微笑んでいる。初めてみた気さえするほど、彼の笑顔は珍しかった。
「どう、とは……仕事ですか?」
「仕事など聞かずともわかる。最近は調子も良さそうだな、つい一週間ほど前までは、まるで退職寸前に見えるほど落ち込んでいたと言うのに」
「……そんな事はなかったと思いますが」
そう言うように、実際ユリ自身その自覚はない。飽くまで普段通りに日常を過ごしていたつもりだが、しかしわざわざジャスティンが無駄なブラフを張る理由もわからない。
ジャスティンは短く嘆息すると、
「なるほど、本当に自覚がないのか」
「……意図が見えません」
「まあいい。ところでこいつを見てくれ」
言いながら、ジャスティンが指を鳴らす。すると瞬間的に、その机の上に赤いピルケースが出現した。
さしものユリもそれに驚き目を見開いていると、痩せた男は言葉を続けた。
「これは私お抱えの製薬会社の試作品でな。術を薬の中に閉じ込め、その効能を長持ちさせることが出来るらしい」
「お抱え……? 理事長は、製薬会社まで経営されてるんですか?」
「いや、提携しているだけだ」
「なぜ個人がそこまで」
「ふっ、世界のジャスティン・バトラーになるのも存外に近いのかもしれないな」
ジャスティンはそう言って嬉しげに笑う。そうしてから我に返ったように咳払いをし、改めて注目を引くようにピルケースを指で弾いてみせた。
「この中には擬態の術が込められている」
「……なんのために?」
「君には出来ない術だろう。これを飲めばおよそ一時間後に、君の望む姿に変身できるというものだ。君が、エルフにも、アラクネにも、あるいは――人にも」
続けて、ジャスティンは言った。
効果には制限時間がある。ただの人ならば丸一日。異人種ならばその莫大な魔力量が阻害し、十八時間から十二時間。
「だが君ほどの力があれば……そうだな、八時間から六時間くらいが良い所か。あくまで私の目算だから、前後する可能性もあるが」
「副作用が怖いですね」
ユリはつとめて無表情で言った。
人に变化する――それをイメージする。特別、今の己に不満はないし、ケンタウロスとして生まれ育ち、今こうして生きている事に負い目もなければ、むしろ誇りさえある。
ただ違う。もし人として歩けるならば、人として見てくれる者がいるならば話は違う。
「これに関しては私自身が実験体だ。確かに検証したが、副作用はない。だが効果が出ている間、それを維持する為に強制的に魔力が抑えられるようだ。よって術が使えなくなる」
「――それを、なぜあたしに?」
ユリの疑問に、ジャスティンはにや、と笑った。
今度は指を鳴らさず、机の引き出しを開けて一枚の封筒を取り出してみせる。
中を開け、入っている二枚の紙を半分ほど引き出した。
「ちょうど、今月いっぱいまでしか使えない遊園地の入場無料券が二枚ある。どうやら最近出来たテーマパークのようだな」
「……」
ユリは答えなくなった。察しがついたというのもあるが、ジャスティンが本題に関して何もまともに返答していないことに気づいたからだ。
そらみろ、と言わんばかりにジャスティンが得意げに言葉を継いだ。
「少しは羽根を伸ばしてくると良い。君はあまり、こういう所で遊んだことがないだろう」
「……それはそうですが、特別、必要ないと思いますので」
「――私の目測だが、奴の精神はやや不安定だ。私では手の届かない所のケアをしてやってくれないか」
不意に、ジャスティンは顔を引き締めていった。口調は落ち着いていて、声色は静かで、重かった。
奴、というのは新島の事だろう。その話になると、彼はマジメで居るか、小馬鹿にするかのどちらかでしかない。
ふと、ユリは思った。
「実は理事長とユウ……新島は、仲がよろしいのでは?」
思ったから言ってみた。少し挑戦してみたつもりだった。
そんな言葉に、まるで虚をつかれたようにジャスティンは目を丸くしてユリを見ていた。
ややあってから、くつくつと笑いを押し殺すように肩を震わせる。それがしばらく続いてから、大きく息を吐いてみせた。
「ケツの青いガキの世話をするのが大人の役割だと思っていたが、君は違うのか?」
「おっしゃる通りです」
「何にしろ、君たちに新島が必要であるように、新島にとっても君たちが必要不可欠だ。以上、帰って構わないよ」
彼自身、そう話して気恥ずかしくなってしまったのかもしれない。改めて机の端、ユリの方へ封筒とピルケースを押し出すと、それだけ言ってジャスティンは椅子ごと背を向けてしまった。
なんだ、良い人じゃないか、とユリは思う。新島は彼に対して散々悪態をついていて、相性が悪いだの、底意地が悪いだのと聞かされていたが、そんな印象とは真反対だった。
ユリは渡されたその二つを受け取り、ジャスティンへと深く頭を下げる。
「ありがとうございます」
礼を残して、ユリは理事長室を去る。
――明日は土曜日。ついでに言えば月末だ。
チケットは今月いっぱい。使うとしたら、明日、明後日しかないことに気づいたのは、ユリが寮に着いてからだった。




