4.出発
お母さん、大事件です――そう告げたいものの、物心ついた時から母の存在など知らぬ桜田琴乃は、仕方がなく身近な大人の人に相談することにした。
新島夕貴がジッテン族が保有する軍隊の入隊試験の際に事故死してしまったことが公表されて早二日、しかし誰もその事実を尻目に真実を模索して動き出した二日間。
そういえば、と思い起こして離れでもある管理人室を訪れた琴乃は、彼の雑務デスクの上に封筒に入った資料を発見した。
封筒にはペンで『見つけた人が読んでくれ』と記されている。泥棒で無い限りここの寮生、寮長しか入れないコンテナハウスなのだから、これは彼女らに向けたものなのだろう。
琴乃は怯えたような手つきで封筒の中身を改める。
入っていたのは土地と建物の権利書と、モン・ステア学園第三女子寮の管理人の変更について。それに伴う新しいIDカードが同封されており、そのいずれにも氏名が『新島夕貴』から『桜田琴乃』に変更された――そういう旨の資料が、入っていた。
一緒に入っていた寮生名簿を見ても、エルクを含め琴乃を除外した四名。そして管理人の欄に『桜田琴乃(見習い)』と記されていた。おそらく、彼女が入寮した際に作成された資料なのだろう。
管理局のID番号や本人確認書類が一緒になっているところを見るに、正式な書類なのかもしれない。
ちなみに保証人の欄には、ちゃっかりとジャスティン・バトラーの名前があった。
勝手に彼女名義で作られていた通帳もあった。中を見ると既に半分以上に入出金明細が記録されているため、新島のものが名義変更されただけなのだろうが――。
「ご、ごせんはっぴゃくまんえん……?」
五八○○万円。おおよそその額が、残高だった。
この土地・建物の維持費を考えても当分は生きていける。いや、むしろ彼がこうしてわざわざ名義変更して遺した理由は、寮を続けて欲しいだとかいう思いではないだろう。
これらを売り払って、新たな生活の糧にしてくれ。
あの男なら、そんなことくらいなんでもない顔で言いそうだった。
「とんでもないわね」
いつのまにか隣に居たエルクが通帳を覗きこみながら言った。
びくっ、と驚きに肩が弾むも、しかし異種族という事に対しての怯えは随分と薄れている。荒療治とはよく言ったもので――それはともかくとして。
「マジで、本当に――でも、アレがそう簡単に死ぬわけ無いし」
知らされている事実を口ごもり、エルクはそう自身に言い聞かせる。蒸し返すコンテナハウスで、彼女は褐色の肌に一筋の汗を伝わせた。
「それで、交渉した相手だとか、その記録みたいな残骸は?」
「資料の方にはさっぱりでした」
「あたしもパソコンの方探ってみたけど、そもそもパソコンが無かったわ。フラッシュメモリも外付けも見当たらないし、完全に処分されてるってカンジ。完全に見放されたわね。こんなんじゃ、自殺と一緒よ」
「え、エルクさん……」
不安げな顔でエルクを見上げると、彼女は肩をすくめて微笑んだ。軽く琴乃の頭に手を乗せ、優しく撫でてみせる。
「どのみち、管理局とまったく関係ないあんたが寮長になってんだから、御用聞きに本部から来るでしょ。そん時に、どうにかして……」
コンコン、とノック音がする。それだけで反応も待たずに、相手は勢い良く扉を開いた。
「人が見当たらなかったからここへ来たが、取り込み中だったか?」
ボザボザに伸び始めた短髪を乱雑にオールバックで整え、無精髭は今ではもみあげと口ひげを繋げている。ヨレヨレのスーツを着た男は、バックパックにライフルケースを二つ担いで、玄関先で立っていた。
「佐戸 輝彰……!」
「おいおい、なんだ、その握りっ拳は。お前は新島が居なけりゃまともな話も出来ないタチか? 話を聞け、俺は無職だ」
決してかっこいいとは言えない、むしろ情けないにも程がある同情心すら湧いてくる告白は、ここに至って決定的とも言えた。
ここに居る中で唯一佐戸と面識があるのはエルクだ。
彼女は静かに空間の中に”手を突っ込む”。虚空が歪み、肘座から先が消失する。
どこかの空間から抜き出した古臭いオペラグラスを、彼女は目に押し当てた。
「なんだそりゃあ、ひみつ道具か?」
「あんたの悪意を見る道具よ。アッチの世界から持ってきた七つの装備の一つ」
相手の心理を読み取る術式が組み込まれたグラスには、特にこれといった名前はなかった。それは彼女の種族が独自に開発した術であるからだ。
呼ばれ方としては『グラス』、あるいは『トゥルース』などあるが、エルクは単純にメガネと呼んでいる。
その眼鏡越しに見れば、途端に相手の全身が沈んだ暗い青色に染まる。サーモグラフィーみたいなもので、相手の言葉と真意に相違があればあるほど赤くなる。
つまり、問題はないようだ。彼は真実を告げている。
「ついでに言えば命を狙われている」
佐戸のシルエットがさらに青くなる。見ているだけで冷気が伝わってきそうだった。
「一応ギリギリまで粘ったが、やはり新島夕貴の死は虚偽の報告だ。この死体の写真がヤツらしいが、明らかに骨格が違う」
タブレット型の端末から、くすねてきたらしい画像データを表示させる。中に入ってきてエルクまで近づくと、彼女はオペラグラスから手を離して端末を受け取った。落ちたオペラグラスは床に触れる前に、歪んだ空間の穴の中へと消えていった。
画像はどこかの建物の中で撮影されたものらしく、ブルーシートの上に焼死体が一体横たわっているだけの画像だ。スワイプすると同じ死体が様々なアングルで映されているが、しかし黒焦げのシルエットから、これが誰かを推測することは難しい。
「わかんないわ」
「奴は大戦の負傷で何本か肋骨を失っている。これだけ焼けてりゃ、腹も不自然に減っこむだろうが――みろ、中年オヤジのビール腹みたいに綺麗な形だ」
他の死体を用意した者の不手際か、情報不足か。
ともあれ、これで新島が生存している可能性は極めて高くなった。
問題は、どこへ行ったか――あるいはどこで殺されたか、だが。
「管理局が直接手を下したわけではない。つまり、だ。新島夕貴はどこかで再利用されている、と考えるのが妥当だ。わざわざお上が殺せと言うような相手だ、有用性は十分にある」
タコ部屋に押し込められていたり、マグロ漁船に乗せられていたり、ただの人手としてももちろん使える。異人種にとっても人間にとっても、人権のない一個体というのは存外に高くつくのだ。
「俺は管理局に行くことが出来ない。命を狙われている――というのは、恐らくだが、しかし首を切られたのは確かだ。追手の気配はないが、最悪のケースを想定してもおかしくはないし、俺はどこぞの阿呆のより命は惜しいんだ」
「み、見捨てるんですか?」
琴乃が勇気を振り絞って言った。身体が小刻みに震え、佐戸の言葉と、威厳ある態度と、そして決して無事ではないだろう新島の姿をイメージして恐怖が湧いてくる。
そんな彼女を一瞥し、佐戸はまったく楽しくなさそうに鼻を鳴らした。
「元はあの馬鹿が、大戦の時に正義感なんてくだらない理由で犯した戦争犯罪が、今になって響いてきたんだ。自業自得だ――」
「そ、そんな……」
「――が、ヤツの起こした行動の結果にだけ乗っかってことを大きくし、テメエの手柄にしてきた連中は気に食わねえんだ。俺はな……いい年しても、煽られれば疼くんだよ。あいつの、あの糞ガキの、正義感ってのにあてられちまってんだ」
佐戸の顔に怒りが灯る。額に血管が浮かび、握った拳から軋む音が漏れる。
新島がやったことは、捕虜を脱走させ、異人種と人間との間に通ずる穴を作ったことだ。この穴が、強大な敵でしか無かった異人種との小さく、しかし確かなつながりとなった。
介入してきたのは現在、管理局の役員室で待機する無能な老害どもだ。そして仕事の為に磨いていた牙を、いつか己の首筋に立てられることを恐れて、従順なペットを処分んした。
気に食わねえ。佐戸がそう繰り返す。
「だから俺は危険な道しか進めない。だがこれが早く、手っ取り早いはずだ」
中年はポケットからタバコを取り出し、箱からメンソールを引き抜く。口に咥え、使い捨てライターで火をつける。
「新島と交渉した連中は『ジッテン族』。もし本当に新島の経歴を知っているなら、面白半分で身内に引き込んでいる可能性もある。無論、その場合管理局に知られることを考えればかなりハイリスクな問題だ――が、死体の写真を見る限り、連中はその手で死体を用意したんだろう」
そして管理局を騙し通した。騙せていないにしろ、この世界から新島夕貴の死が確実になった。それだけでいい。後はジッテン族が、管理をしっかりすればいいだけで、もし生きていても連中を馬車馬のように働かせて今度こそ処理させればいい。
問題はない。
「異世界に飛ぶ。着いて来たいならすぐに用意しろ」
「んな面倒な……ヒコーキで行くつもり? 旅客機のチケット手配して、現地で移動手段をとっ捕まえて、身分証明して、何日もかかる検査スルーして? あんたが本当に狙われてるなら、一緒に行くだけリスクよ」
「来なければいいだろう」
「それだとヒントがなさすぎる。あんたも情報全部吐いてくれるつもりじゃなさそうだし」
「推測と類推が多すぎるんだ。実際に行って、俺の記憶と経験を合わせて処理したほうが早い」
「でも、一緒に行くわよ。もちろん、リスク無くね」
「ど、どうするんですか?」
「コトノはまっててね。何日かかるかわからないし、あんた寮長なら、しっかり維持しときなさいよ?」
彼女はタブレット端末で琴乃の頭を軽く叩く。
琴乃は今にも泣きだしてしまいそうな不安げな顔でエルクを見上げていた。
「私、皆さんがいなくなったら、また一人になってしまいます」
「全員で行かないわよ。連れていくとしても、あたしとユリくらいなもんよ。後はお荷物。あんたのお供よ」
「それで、どうするつもりなんだ?」
急かすように佐戸が言う。
まったく、子供の心がわかってないんだから――そういった意味で嘆息して、佐戸を睨む。彼はおどけたように肩をすくめた。
「あたしの術で飛ばしてやるわよ。もともとあたしのは、そういう術なんだから」
「……ほう」
納得したように、佐戸は顎に手をやった。親指でジョリジョリと髭を撫で、それから胸ポケットから携帯灰皿を取り、少ししか吸っていないタバコを入れる。
そうしてから、胸いっぱいに吸い込んだ息を、一気に吐き出した。
「俺はまだ、ヤツの伝えていないことが一つだけある。ヤツの……ガキの唯一の願望にして、最大のコンプレックスとの向き合い方を」
正義なんてのは言葉だけなんだということを。
正義が正義たる働きをしなければならない、なんてことはないのだ、ということを。
「それで、いつ行くつもりなん――」
佐戸が少しだけエルクから視線を外した、その瞬間。
問うために再び彼女を見た、その刹那。
虚空にまっすぐ突き出した右手の先から、空間が渦巻くように大穴を開けていた。なんの気配も、異質さも無い。そういった柄のポスターか壁があるかのような、極めて平面的な穴が。
「もともとは空間を繋げる能力なのよ。自分が知ってる場所と自分のいる場所とを繋げる。だから展開中は、あたしはこの場所から動けない。座標を固定しなきゃだからね」
「なら、お前はどうするつもりだ?」
「飛び込みゃいいでしょ。失敗すりゃ、間に合わなかった部分がスパーンって行くけどね」
佐戸が何かを言おうと口を開く。眉をしかめ、まるで叱る寸前の親の顔だった。
付け足すようにエルクが言葉を継ぐ。
「そうする理由は、推し量ってほしいわ。知ってるんでしょ? あんたは、あの男を、ずっと詳しくさ」
理由を語らず、察せと告げる。佐戸はそれに小さく頷いてから、開いた大穴へと荷物をさっさと放り込んでいく。
足をかけた穴の縁は、まるで強い磁力を帯びているように反発する。物質的な硬さは、そこには無い。
飛び越えれば――肝が冷える浮遊感。
騙された。そう思うほど頭が働かない内に、佐戸は穴の向こうに落ちていった。
「コトノ、悪いけどユリ連れてきてくれない?」
「は、はい!」
彼女は大きく頷いて、急いで走りだす。身体がついていかずに何度か転びかけてから、なんとか体勢を立てなおして本館の方へと急いでいった。
そんな琴乃の後ろ姿を見送りながら、エルクは笑みを湛えた表情のまま、大きくため息を付いた。
「……バカユウキ」
心配かけて。
勝手に拾っておいて、失踪するなんてどんな了見だ。
ペットは、最後まで面倒を見なければならないのは、常識なのに。
それでもエルクの心は荒まない。
彼の生存を、誰よりも信じているから。
そして思ったよりもずっと早く、彼と再会できると信じたから。
もうすぐだ。もう少しだ。
これでやっと、再出発できるんだ。
やがて遠くから馬蹄の音が聞こえてくるのを感じて、エルクは改めて息を吐いた。
「今度はあたしが拾ってやる番だよ、ユウキ」
ケンタウロスの巨躯が飛び込んでくるのと、出入り口の扉が絶望的な音を上げて吹っ飛ぶのはほぼ同時の事だった。




