1.覚悟
まったくもって遺憾なことだが、少しくらいは自分が時間にルーズであればよかったと思うときは、この時ほどなかっただろう。
新島夕貴は幾度と無く思った。
来訪者が昼時を狙って来たのは、まだ良い。
だが自分が、しっかりと昼前に買い物も掃除も終えてしまったということに関しては、腹立たしくて仕方がない。
ノルマも、しなければならない仕事もないのだ。
カサカサと歩きまわって熱視線から逃げるアーニェの姿も、今日は珍しくどことなく可哀想に見えるし、キッチンに引っ込んだ褐色のダークエルフも、敵意をむき出しにして戦況を伺っている。
新島夕貴はと言えば、男の真正面に腰掛け、目の前の来訪者へと紅茶を提供していた。
「正気なのか?」
男は遠慮もなく言った。
気品あふれる純白のスーツに、厭味ったらしいほど整った容貌。
ジャスティン・バトラーは極めて珍しいことに学園でのひきこもり生活から離れ、はるばるやってきていた。
「何が、です?」
「すっとぼけやがって。佐戸から話は来ているぞ」
また面倒なことになりそうだと辟易しながら、新島は紅茶をすする。
こういった、個人間の問題に首を突っ込まれるのを、青年は好まない。五月蝿いのと、厄介なのが嫌いだからだ。
「管理局を離れるつもりか? そう訊いているんだ、私は」
「仮にそうであっても、引き止めるような人じゃなかったでしょう。あんたは」
「冗談やクソみたいな嫌味を言いに足を運んだわけではない。そらで言えるような聞き飽きた軽口も、今では場違いすぎて吐き気がする」
一口、濃い色見の割りには出がらしのような味の紅茶を含み、飲み下す。
ジャスティンは眉をしかめながら言った。
「誘いに乗るつもりか? 連中の」
ジャスティンはそう切り出してから、まっすぐに新島を見据えて逸らさない。あれほど愛してやまないアーニェが近づいてきても、まるで見えていないかのように真剣な眼差しを注いでいた。
「正直なところ、決めかねてますね。給料も良いし、仕事自体も退屈は無さそうだ。特に地元も実家もないから住まいの問題はないし、断る理由はない。かといって、もし仕事が合わなければ、年齢的に再就職は厳しそうですし」
なにせ、一度は管理局を捨てるのだ。ダメだったからまた戻ってくる、なんて舐めたマネができそうな組織ではない。
それにここで他に移れば、
「貴君は二度目の裏切りをすることになるわけだ」
「……それは」
「貴君が戦犯として処断されなかったのは、停戦協議と貴君の行動が重なったお陰にある。管理局に拾われたのも、異人種側の恩恵のようなものだろう」
現場に居なかった男が良く言う。
誰がどんな命を受けてあの場に赴いたのか。何がきっかけで動き、わざわざ無謀でしかない危険な仕事を引き受けたのか。
あの後の一ヶ月間の拘束――単独犯として、されどまともな処理を受けなかった理由。
「どれだけ睨んでも、私の意見は変わらんよ」
言われてから、目頭に力が入っていたことに気づく。
筋肉を解すように目頭を揉み、新島はまだ熱い紅茶を一気に呷った。
「まずは話を聞いてみて、です。幸い日程は今日じゃありませんでしたが、近いうちに予定を調整してくれるようなので」
「ならば一つだけアドバイスをしよう。貴君に、ただ一つだけの、な」
鼻から大きく息を吐いて、紅茶をまた一口だけ含む。
重い腰をこれでもかという程に重く表現して引き上げる。苦痛にも似た吐息を漏らし、だが悠然と立ち上がるや、視線を合わせる新島へと優雅な笑みを浮かべた。
「器用貧乏はほどほどにしておけ。努力は見合った活躍をするが、予定外に合わせられるのは感性や才能だけだということを、覚えておくべきだ」
ジャスティンが寮を後にして、驚いたような顔の二人が新島の両脇を塞いでいた。
「どっ、どど、どういうことですの?」
アーニェが真っ青な顔で問う。
これまでの話を聞いていて、今回が二度目だという筈のエルクでさえも目を丸くして言った。
「ほんとに話を受けるつもりなの?」
新島は二人の少女をあしらうように立ち上がる。
「ご機嫌なナンバーはいかがかな。最近は古いロックナンバーが気になっているんですよ」
ネットから購入した音楽を端末からアクセスする。パソコンのサーバにアクセスし、目的のファイルを見つける。
「タイトルは、ジョニ――」
「んなこたあどうだって良いのよ!」
声を荒げて、エルクが言った。
席を立った新島へと詰め寄り、新島の額に、己の額を打ち付ける。唇が殆ど触れる距離で、身体は完全に融け合うほどに触れ合っていた。
女性特有の柔らかさを、服越しに感じる。甘い吐息が唇にかかり、視界は殆ど何も捉えられていない。単純に、距離が近すぎるためだ。
「あんたがいなくなって、この寮はどうなるわけ? 寮生はともかく――あんたに雇用されているこの私は、どーなるわけ?」
「僕をスカウトするような相手です。エルクを連れて行くってくらいの条件なら簡単に呑んでくれるでしょ。単純な戦闘能力なら、君のほうが随分高いわけだし」
「ナイスなジョークです」
アーニェが言った。
「冗談では」
「私は、ユリが頼ったあなたを頼ってきているのですよ。仮にほかの、もっと有能な局員がここに来たとしても、私は、納得しませんわ」
目を吊り上げて、口を固く結んだ蜘蛛女が立ち上がる。足を伸ばして威嚇すれば、その長身は背筋が凍るほどのものとなる。
そんな彼女を見て、ふと思うことがある。
――先方は、戦時中の新島夕貴の活躍を見てスカウトを決めたと言ったらしい。
戦時中の活躍?
馬鹿げた話だと、今更ながら嘲笑した。
思わず痙攣する頬肉を見て、二人の女が頭上に疑問符を浮かべる勢いで首を傾げた。あるいは眉を弾ませ、とにかく彼の状態から異変の二文字を感じ取った。
(罠か?)
誰の? 何のために?
新島は考える。
彼自身の戦時中の活躍なんてものは犯罪そのもので、その活躍が停戦を招いた。それが政府にとっては隠蔽したい事実他ならず、その口止めとして新島を起因として出来上がった管理局の、末端として雇われた。
彼は権力にも金にも固執しない。かといって名誉や名声にも興味が無い。
馬鹿正直に、クソッタレなほどな純真に突き動かされた少年時代の影響が、今になって花を咲かせた――そう思っていたのだが、戦時中の活躍なんてものはとっくの昔に消されている。
知るすべがあるとすれば、どこかの物好きからの伝聞で、そんな物好きの言葉は九割近くに信憑性がない。
だから、少なくともまともな連中からのスカウトなんて無い。
よく考えて見ればいい。
前線から退いて十年。本部からとばされて五年。
情報もまともに入ってこない『特区』の僻地の、特別な仕事などない寮長としての仕事で身体はなまりきっていて、思考は錆び付いている。
前線基地で、実験個体を逃がそうとするキチ○イも年食って丸くなって――衰えて、守ってくれる人間も近くには居ない。
始末するなら、上質にも程があるタイミングだ。
オーテ・ハーピの一件で新島夕貴について改めて考えなおしたと見て、まず間違いはないだろう。
たった一人の末端でも、何かの間違いがあれば、どんな些細な事でもやがて大きな腫瘍になる。
だから、新島夕貴は覚悟した。
やっぱり『正義の味方』なんて、なれるわけがないんだ。




