1.傷口
「おはよう、ユウ」
朝食の準備をしていると、ぼさぼさの頭を掻きながら食堂へと入ってくる姿があった。
「おはようございます」
ユリはオープンキッチンの、カウンターの向こう側で皿を手にする新島の顔を見て足を止める。
真っ青な顔で皿に目玉焼きを盛り付ける新島は、引きつった笑みを浮かべて彼女を見ていた。
ユリは暫くの間眉をしかめて彼をにらみ、口元を隠すように手を当てた。
「どう、したの……?」
「なにがです? ああ、ちなみにエルクさんは朝早くに出かけていきましたよ」
「へえ、もう仕事?」
「ちょっと学園付近で事故があったみたいで、その確認に。僕はこっちで忙しいんで、代わりに行ってもらいました」
「そう。でもユウ、体調悪いから代わりに行かせたんじゃないの? ひどい顔してるわ」
歩み寄り、キッチンの中まで入ってくる。
眠気など吹き飛んだ冴えた頭で、醒めた目で、新島の額に手を当てて熱を測る。
氷に触れたかのような冷たさだった。
まるで血が通っていないようで、かすかだが、黒いポロシャツの脇腹が濡れているように見えた。近づいて気づいたことだが、鉄の香りが鼻腔をかすめる。
「ねえ。あたしはね、これでもただこの世界を謳歌するためにセンセをしてるわけじゃないのよ」
「ええ、アーニェさんが安心して生活できるように環境を整えているわけですよね。兼護衛としてはあまり仕事はありませんが、むしろそちらの能力こそ評価されていますし」
「戦力として充分だと自負しているわけよ。立場的にも、管理局や警察へは優先的に協力体制を敷く必要がある。一応、ここではあんたの世話になっているケド」
ユリは一歩だけ新島から離れ、しっかりと目を見据える。
新島は顔色一つ変えず、手にしていたフライパンとフライ返しを近くの台に置いた。
「要請してくれれば、どんな状況でも応援に入る。一応それだけは言っておくわ」
「ありがとうございます」
軽く頭を下げて、新島は頬肉を痙攣させた。おそらく、微笑んだつもりなのだろう。
「ユリさんが居れば百人力ですよ」
だけど、と胸の中で言葉が続く。
そうなる状況にしないように動くのが、僕達なんですよ。
「なにか問題があれば、頼らせてもらいます」
「ええ。それくらいはしなくちゃと思ってる。給与額に対して、あたしの働きは不十分過ぎるからね」
凛とした微笑。まるで桜のような柔和で穏やかな優しい笑顔だった。
いつもの彼女からは見ることの出来ない、心からの感情。新島はそれにうなずき、それから皿を手にとった。
「朝食の準備をしますから、席で待っててください」
「手伝うわ」
「ありがとうございます」
もっとも、心の底からいっぺんの曇もない善意というわけではないのだろう。彼女とて仕事でこの世界に来ている。
異人種にとっては、非常に発達した文明がある未開の土地だ。先遣として見れば遥かに出遅れているものの、遠く離れた見知らぬ人種しか居ない土地で貴族の一人娘の護衛として働かされている彼女は、言ってしまえば左遷に等しい。少なくとも、国で騎士団を務めていた経歴を見れば栄転とは言いがたいだろう。
幼少より持ち得た高い身体能力をさらに鍛え上げ身につけた技術を戦火に向けるのがケンタウロスという種である。泥水を啜り血を舐め生き抜いてきたその先で、錦を飾らねば故郷の土も踏めぬ。
世界も時代も異なれど、変わらぬところはあるということだ。
ユリが朝食を食べ終わる頃に、琴乃とカナが一緒に起きてきた。アーニェは三人が出かけた後に、ひとりでのっそりと起きだし、
「新島さん」
珍しく自分の食器を片付けると、椅子に腰掛けて帳簿を眺めている新島の隣に座った。
「今日の朝ごはんは地味目ですわね」
「ええ、寝ぼけて焦がしてしまう始末です」
「ついさっき帰られたのですよね。ユリが起きるほんのちょっと前に」
「何をおっしゃる」
新島はキリッと顔を引き締めて言った。
「じっくりてっかり八時間睡眠をとらせていただきましたよ。皆さんが、何の問題もなく過ごしてくれたお陰で」
そもそもですね、とペンをアーニェへ向けて新島が続ける。
「仮にそうだとしても、アーニェさんに何か問題でも?」
「まったくもって、これっぽっちもありませんわ。ただ」
彼女は眉をしかめて、指を新島の横っ腹に突きつける。ポロシャツがたわみ、爪が肉に突き刺さった。
「ぐ……っ」
「見え透いたやせ我慢は、嫌いなのです」
服をまくり、血まみれになった患部をあらわにする。止まりかけていた血が再び流れだすその傷口に、アーニェは再び指を突っ込んだ。
爪が肉の中で硬い何かに当たり、一瞬の伸縮でそれを貫いた。
一息に引き抜けば、僅かに伸びた爪に鉛弾が突き刺さって取り出される。
さらに噴出した糸が的確に傷口を覆った。粘ることなく、そのまま服を下ろして傷口を叩いても、まるでゴムを巻いているような感触しかない。
「内蔵と骨格系は無傷のようですわね。ニ、三日程度で完治するでしょう」
「頼もしい限りです」
腸を捻り出されたかのような激痛が、糸の下でのたうち回っている。今すぐにでも床に転げまわりたいほどの痛みを噛み殺しながら、新島は微笑んだ。
額からダラダラと汗が噴き出る。口の中がカラカラになって、さっきよりもずっと死にそうな、青を通り越して白い顔で虚空を見つめていた。
「しかし、要らぬ傷を増やさんでください」
ごふ、と力いっぱいむせこんで、新島はテーブルに突っ伏して意識を手放した。
睡眠不足がたたったのだろう――アーニェはそう判断して、食堂を辞す。
新島が目をさますのは、アーニェにさんざん昼食の催促をされた昼下がりの事だった。




