1.日常の一幕
みんなが部屋に戻って静まり返った後、新島はアーニェに天井から糸ではしごを垂らしてもらった。そのまま天井裏へと登り、粘土のようなものを弾痕に詰める。
「なにそれ、プラスチック爆弾?」
「どんな恨みがあって仕事場に爆薬をしかけるんですか」
詰めるのは材質記憶性のバイオ素材。物質と触れたまま数日間放置すれば、それが金属であろうとも木材であろうとも、単純な構成ならば同化してほぼ同じ性質を持つのだ。
これは管理局の研究部による賜で、非売品の品だ。この寮に来る前に、倉庫から大量にくすめたため、支部から大変なお叱りを受けたのを覚えている。没収の末、隠し持っていた一つだけが残ったのだ。
粘土状のひと塊。反作用紙と言う専用の包装紙によって包まれるニキロほどのシロモノは、ネズミがかじった程度しか減っていない。
「ほんじゃ、ありがとうございました」
屋根裏から降りて、最後に天井の穴にも詰める。
満腹と、十二時過ぎということもあって視線がうつろのアーニェの頭を軽く叩けば、
「ほわッ」
と声を上げて、びゅるる! と腹部の先端から糸を噴出した。
「きたな!」
「排泄物じゃありませんのよ」
「なぜ驚くと出すんですか」
「防衛本能の一種とでもいいましょーか……」
歯切れ悪く、彼女は頬を紅潮させながらうつむく。床にぶちまけられた糸はとぐろを巻いている。触れるまでもなく、ベタベタと非常に高い粘着性がありそうだった。
「いや、マジに汚そうです。どうやって掃除すんですか……」
蜘蛛女の糸はワイヤー以上の強度と、とりもち以上の粘性を持つ。これまでの清掃も、強アルカリ性の洗剤で何とか溶かしてやってきた。
「とりもちとしてお使いになって?」
アーニェはどこで覚えたか、幼さをかなぐり捨てて身をよじりながら言った。しなやかな指先を唇に当てて、わざわざ背中を向けた姿勢から振り向くように。腕の影からも主張する胸を一瞥してから、新島は肩をすくめた。
「どうやって回収するんでしょうね」
「あとで考えますわ。今日はもう寝ましょう。頭にオリゴ糖が足りてませんの」
「なぜオリゴ……」
ふ、と長い髪を払ってカサカサと音を立てながらアーニェは部屋へ戻っていく。そんな背中を眺めながら、大きくため息を吐いた。
もりもりと元気よく排出された粘性の糸の塊。足先で触れて見れば、スリッパの先端が触れたまま、脱がされてしまった。
「……明日起きたら、ユリさんに消してもらうか」
あんな無気力ケンタウロスでも、元軍人だ。やるときはやってくれるはずだろう。
新島は大あくびをしながら、電気を消して部屋を後にする。今夜ばかりは事故を防ぐために、食堂を施錠したまま管理人室へと向かった。
「こりゃ非道い」
早朝六時、仕事のために支度を整えたばかりのユリは一言目にそう告げた。
「ユリさんおねがいしますよー。出勤前にちゃちゃっと」
「言うのは易しってねえ。疲れんのよ? あたしらの術は、精神力をエネルギーに変換して消費、力を具象化するわけだから」
「つまり?」
「すんごい重いものを持った後みたいな感じ」
言われるがままにイメージして、新島はうんざりしたように大きく息を吐いた。
「大変ですね」
「結局他人事なのよね、あんたって」
「でもこのとりもちの処理はみんなのためですよ。ほら、このスリッパの悲劇を起こさないよう」
「アーニェは?」
「オリゴ糖が足りないので休憩中です」
「もうわけわかんねーわね」
半眼で新島を睨んで、ユリは大きく尾を振った。ばしん、と尻を叩いて、身体を身震いさせる。
馬の肢体ではどうしても新島を見下ろす高さだ。全長ニ・五メートルの高さは、ギリギリ扉をくぐる長身である。
だから誰でも見上げるように彼女を見るのだが――新島ばかりは、どうにも同じ目線の高さで話している気がしてならない。見上げられ、見下ろしているはずなのに、精神的優位に立った気がしない。物理的な距離関係が、普通はそのままどことなく心理的な影響を及ぼすはずなのだが……。
「わーったわよ。やりゃあいいんでしょ」
「ありがとうございます。昨日の余ったサーロインステーキ、焼き直しましたから」
「お弁当に入れといて」
「そう言うと思って入れときました。朝は軽くツナサラダにしときましたよ」
「ああ、そう」
無関心ここに極めたりというほどそっけない返事。だが新島は、それに微笑む。
そっけなければそっけないほど、彼女はそれを照れ隠しにしているのだ。あまりにもポーカーフェイス過ぎるため、かえってわかりやすい。
扱いやすい。
にやり、と口角を釣り上げる新島の姿を、ユリは見ていない。
既に右手に集中した意識が、指先から熱く迸るエネルギーを捉えていたからだ。
指先から黒い何かがはじけて落ちる。
それがとりもちに触れた瞬間、つま先ほどの黒い何かが一・五倍ほどに膨張。立体的に放射状に電撃を走らせ、一回り大きな半透明の膜が展開。プラズマボールのようなそれが、とりもちに触れ――触れた部分が消滅。連鎖的に、ぶつぶつと沸騰するように消えていった。
最後には何も残ることはなく、綺麗に磨かれたフローリングが一晩ぶりに顔を覗かせた。傍らには、スリッパが片方だけ脱ぎ捨てられている。
「……ふう。どう、文句ない?」
胸から大きく息を吐いて、腕を垂らして背中を丸める。頬が上気して朱が差し、額にはじっとりと汗が滲む。少し荒いだ呼気を整えるように幾度か深呼吸をして、
「お疲れ様です」
なみなみとスポーツドリンクが注がれたコップを差し出しながら、新島が告げる。
「ん」
短く返事をして、渡されたジュースを一息に飲み干した。ごくり、ごくりと喉がなり、口の端から零れた一筋のジュースがタートルネックの襟元を濡らす。
「美味しかったわ」
「そりゃ良かったです。はい」
コップと入れ替わりにタオルを手渡される。彼女は口を拭いて、それを返した。
「それじゃ、今日も寮のほうをよろしくね」
「ええ、寮どころじゃなくこの街まで何とかしますよ」
「忙しいだろうけど、アーニェもお願いね」
「了解です」
ユリはアーニェの保護者のようなものだ。彼女の国の貴族であり、その護衛代わりとして数年ばかりはやくこの世界に来て、ここにたどり着いた。何かと融通が効いて支援状況も芳しいこの管理局員のお膝元を選んだのは、そんな理由があった。
彼女は新島に軽く敬礼をしてから、寮を後にする。
「さて、寮のことだけで済めばいいんだが……」
そんなことを願いながら、新島は朝食の準備を終えて、学生連中を起こしに動いた。
なんだろう、とアーニェは思った。
恒例のお散歩の道中で、見つけたものがあった。繁華街から少し外れた閑散としたビル群の路地に、パトカーが数台停まっている。多くの制服警官が集まる中心に、ブルーシートがかけられた何か。あたりは血まみれで、その手前に黄色地に黒の文字で「立入禁止」と書かれたテープが通路を封鎖している。
あやしい。
「お助け屋の出番ですわ」
気分さえ緩んでいなければ、まともに頭が働くアーニェは、そう言ってテープの向こう側に侵入した。
「ちょっと、君。勝手に入ってきちゃダメじゃないか」
その瞬間に声を掛けられる。新米らしき警官が、両手を広げてとうせんぼしているのだ。
「お助け屋アーニェの出番ですわ。ユリ公認の稼業で、つい先日から動き出していますのよ」
「企業であっても、これは警察の仕事ですから。民間に御用はありません」
「……被害者は異人種ですのね?」
「違います」
むっとした顔で警官が言う。
だって、と言いながらアーニェがビルの壁を指さした。壁には鋭い爪あとが無数に刻まれている。
「あれは?」
「一応忠告しておきますが、凶悪な犯罪です。無差別に襲っていると思われるので、気をつけてください。管理局が立ち入る領域ですから」
「……なら、管理局に許可を貰えば、入ってもいいってこと?」
「まーそうなりますね。なら頑張って電話でもお手紙でも出して頼んでみてください」
疲れたように帽子を抜いて頭を掻く。むう、と唸り首を捻るアーニェを一瞥してから、本来の仕事である現場の封鎖の仕事を続けようと立ち直った。
アーニェは困ったように振り向く。すると、後ろにさらなる闖入者を見た。
「あ、新島さん」
「お、今日はおつむがご機嫌みたいですね。良かったです」
言いながら、スーツ姿の新島はアーニェの頭を鷲掴みグリグリと回す。「うわー」と楽しげな声を上げて、最後にチョップで締めた。
「ねえ新島さん。中入っちゃダメ?」
「もう入ってるけどダメですよ」
「――そこのあなたもです、勝手に入っては……」
また嘆息混じりに立ちはだかろうとして、新島の所作に注視する。彼はポケットから抜いた財布の中から一枚のカードを取り出し、男へと突きつけた。
異世界管理局証明書――そう記されたカードだった。顔写真と、名前、生年月日、現住所諸々を記したカード型の証明書。偽造のしようがないとされているそれは、基本的に誰も目にしたことがないからだ。さらに特殊なチップが埋め込まれているし、カードの材質もプラスチックではない。
「どうも、管理局日本支部から派遣されている新島夕貴です。お話を聞いてもよろしいでしょうか?」
「あ、す、すみゃ……すみません。あの、了解です。こ、今回の事件というのが、ですね……」
男は慌てて背筋を伸ばし、ズボンの折り目にそって手を腿に添える。
彼が言った事件とは、こうだ。
「深夜○時三○分過ぎ、仕事から帰宅途中の男性の背後からいきなり襲い掛かった男の刃物が、一突きで胸を貫き、絶命させたようです。ほぼ即死で、発見されたのは今日の明け方ということでして」
「ほう? では、この壁の傷は?」
「こちらは、最近夜に徘徊している何者かによる悪戯かと」
「同一人物である可能性は?」
「現在調査中ですが、壁の傷と胸の傷との大きさが概ね一致すれば、そうなるかと」
「了解です。また続報があれば、連絡を頂いてもいいですか? こちらが名刺です」
調査し、写真をとったり指紋をとったりしている鑑識を背後に、終始新米警官の対応を受けた新島は、最後に携帯の番号と名前が乗った名刺を渡す。
「きょ、恐縮です……現場を見ていかれないのですか?」
「それはお宅らの仕事でしょう?」
調査し、識別し、犯人を突き止める。異人種だと決定したわけではないこの現状で、管理局がわざわざ動く理由はない。たとえ殺害方法は人間離れした手段であっても、証拠が無い限り動けない。
異人種に対する管理局の権限は大きいが、それ故に行動の制限がある。
もっとも、新島の言葉にはつまるところ「それくらいは自分でやれ」という意味が言外に含まれていたのだが、
「は! お疲れ様です!」
通じていないらしい男は、ぴしっと敬礼をして新島を見送った。




