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専門学校時代に旅マニアの友達がいた。
そいつは13カ国の言語を操り、世界中を旅して回る奴だった。
特に好きだったのはルーマニア、クロアチア、ポーランドなど東ヨーロッパの旧共産国。
カザフ語だのなんだのマイナー言語を習得して現地人を驚かせるのに喜びを感じる変態だった。
その彼が言うには外国語を学ぶには赤ちゃんになることが重要とのことだった。
どういうことか。
赤ちゃんはまず世話してくれる人の名前を覚える。そしてある程度育つとイヤイヤ期が来る。だから好きと嫌いを覚える。
あとは単語をとにかく多く覚えれば意思疎通はできるとのこと。
しかし頑張って理解してくれようとしてくれる相手の努力は必要なので「ありがとう」は大事。
新聞は読めないしニュースも理解できないが「好き」「イヤ」「ありがとう」が言えれば生活はなんとかなるもんだと。
という訳で「好き」と「嫌い」のサナ語を知りたいのだが、ジェスチャーにしろ図解にしろどう表現したものか?
ロッコと別れたあと、土手の向こうのサナのテント集落に連れて行かれた。
沢山の羊と牛。そして馬。
更に奥には大きな池。
その池を中心に普段は放牧を営むサナ人たちのテントが取り囲む。
もの凄い数だ。
民族が大集結している感じ。
その中のひとつのテントに招かれ、リンのお母さん(おばあちゃん?)を紹介され、美味い飯をご馳走になった。
辛くないカレーをもっと複雑に鮮烈にしたようなチャーハンのような米料理だった。
これ絶対覚えたい。
超美味い。
長粒米を初めて美味いと思った。
この飯を褒める為にも「好き」を早く習得する必要があるのだ。
フェルトと木枠で作られたテントには羊の毛皮が敷き詰められており暖かかった。
布団は特になく、そこで雑魚寝らしい。
村育ちの俺には親しみやすいスタイルだ。
お母さん(おばあちゃん?)が点けてくれた行燈式のランプの光で俺たちは遅くまで勉強を続けることができた。
この世界の常識としては日が落ちたら寝て、日が上る前に起きるのだ。
燃料の無駄遣いである夜更かしは非常識なのだ。
しかしお母さん(おばあちゃん?)は明かりを点けてくれた。
リンは甘やかされているのだ。
いや俺が甘やかされているのかもしれないが。
◇
次の日の朝ごはんはカレーチャーハンの残りだった。
全然嬉しい。
超美味しい。
夜のうちに葉っぱを使い切っていたのでまずは葉っぱ摘み。
ごっそり集めて巾着袋に丁寧に重ねて入れておく。
なんならお金よりも価値があるかも。
リンの家には粘土板もあったのでそれも駆使して言語習得に邁進する。
父・母・子みたいな親族の概念から入ろうと思って簡略化した漫画絵の男女の絵を粘土板に描いた。
それを見てリンはひっくり返って笑った。
女性の胸を指して何か言い、またひっくり返った。
どうやらおっぱいのことらしい。
それなら、と男性の絵にちんちんを書き足すとまたひっくり返って笑った。
おしっこちびってそう。
リンはあまり笑うと腰が抜けてひっくり返るクセがあるようだ。
いいね、こいういうビビッドな反応。
すっかり下ネタ講座になってしまったが、それでも上向きのちんちんと下向きのちんちんで「硬い」と「柔らかい」の概念を習得することができた。
外に出て新鮮な羊の糞を指して「柔らかい」
干涸びたのを指して「硬い」
お母さんの胸を指して「柔らかい」
自分の胸を指して「硬い」
これをやってまたひっくり返って笑っている。
どんだけ下ネタが好きなんだろうか?
もう涙をこぼしているじゃないか。
俺は鍋に残ったチャーハンを指して「好き」
羊の糞を口に入れるジェスチャーをして「嫌い」と言ってみた。
リンは教えてくれたが「美味い」「マズイ」を教えられてる気がする。
血統図のような男女図を書いて父母子、祖父祖母、叔父さん叔母さんを教わる。
やはりおばあちゃんだったようだ。
お母さんはジロの上流の方で何か仕事をしているらしい。
そして兄たちは池の向こうに行っていてこっちテントには帰ってこないとのことらしい。
かなりサナ語が分かってきたぞ。
その辺りで時間だ。
昼までにセイレーン号に戻るよう言われている。
俺はジロ河の方、遠くを指差して「帰る」と言った。これで「帰る」「来る」を習った。
概念として難しいのはあらかたトライした。
あとは帰りを送ってもらいながら簡単な語句をおそわる。
羊、牛、馬、空、太陽、雲、雨、草、木。
ジェスチャーで、笑う、怒る、驚く、悲しむ。
バザールに着いたら、布、服、帽子、手袋、肉、魚、貝、水、船。
リンに何か言われた、なんとなくまた会えるかとか明日はまたここに来るかと尋ねられた感じがして「分からない」と肩をすくめ首を傾げた。
「分からない」はまだ覚えていない。
これまた説明の難しい語句だな。
小銅貨8枚を払って渡しに乗り込むとリンはまた何か言ってきた。
たぶん「また来いよ」とか「待ってるぜ」みたいなことを言ってるに違いない。
分からないが俺は笑顔で手を振っておいた。




