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それまで船尾は無風だったのに、オールを漕いで船から離れると急に風が吹いてきて流され本船とボートの距離が一気に空いた。
「今の風、なんです?」
「ああ、ブリッジの真後ろは風が逆巻いてボートが吸い付けられることがあるんだ。だが少し離れると逆風から抜けて離される。だから風向きが読めない時は舷側からボートを下ろすんだ」
そうだったか。
別に信用されてなかった訳でも嫌がらせでもなかったのか。
「引網トローリングの場合は必ず船尾からだ。舷側にボートを繋いで網を引くと舵が取られちまう」
なるほど。
考えてみれば、変なタイミングで舷側に戻ろうとするとタッキングでぶつかってしまいそうだ。
色んなことを考慮して調整してるんだな。
「船尾から直接トローリングをすることはあるんですか?」
「出来なくはないだろうがやらないな」
「何故です?」
「ボートのほうが水面に近いから網を上げやすいし、海流が変わったりして網が舵に引っ掛かったりしたら大事だ」
「あっそうか」
ロッコはカカと笑うと網を海に下ろした。
「天才少年も経験には劣るか」
「やめてください天才なんかじゃないですよ」
「そうか?」
「そうですよ」
「まあ、そうさな。天才ってのはパコみたいな鼻持ちならないヤツが多いわな」
おっと、そこと比較するか。
まあでも経歴を聞くだにきっとパコは神童だったのだろう。
なにせ超能力天才少女のスーパーヒーローであるバルゲリス長官と同じ経歴なのだからな。
「キコもあれはアカデミーではトップクラスの成績だったらしいぞ」
「へえ、キコさんが」
「アイツは王都の城兵に就任間違いなしって言われてた逸材らしいのよ」
「城兵というと?」
「平民出の出世コースの最高位だよ。体術・剣術・魔術の全部が超優秀な奴しかなれない憧れの職業よ」
そういえばキコは光魔術を使ってたし、長官もそれを嬉しそうにそれを聞いてた。
実際、光魔術を使ってみて思ったがアレはなかなか高度な魔術だった。
「それを蹴って、なれるかなれねえか分からねえセイレーン号の乗組員を目指して海軍に入ったのよ。全くどうかしてる」
「海軍は人気ないんですか?」
「そんなことはねえよ。陸軍より訓練は厳しくないし最新の船で世界を見て回れるんだ。大人気の職業よ。でもよ、城兵なら王都勤めで宿舎も豪華。なんなら貴族の娘のトコに婿入りして上流階級の仲間入りだって夢じゃねえんだ」
「へえ」
「それと比べると海軍は一旦海に出ると長いし事故の危険もある。少なくとも出世コースではないやな」
「そうだったんですか?」
「お前、そういうことは何も知らねえんだな」
「長官が優秀な人だとしか」
「あんな飛び地出身じゃ仕方ねえか」
「ええ」
すると網に繋いだロープがグイと引かれる感覚があった。
「お、掛かったらしいぞ、引け!」
「はい!」
靴下状の長い網を引き揚げると数杯のイカが入っていた。
「お、いいぞ! こいつに針をかけて流すんだ」
なるほど生き餌を使ったトローリングだったのか。
「このテンタクルの幼生は死ぬまで墨を吐き続けるからその匂いにつられて大物が追っかけてくるんだ」
え、それってヤバイんじゃないの?
あの超巨大海蛇とかが追っかけてきたらこんな木端ボートは一飲みだ。
ロッコは手早くイカに針をかけると海に投げ込んだ。
「なんて顔してんだテンタクルは嫌いか?」
「いや、大物って。こないだ見た海蛇とか来ないんですか?」
「あんな大物は滅多にお目にかからねえよ。狙ってるのは普通の魚さ。お前の村で取れるのと同じようなやつだよ。こないだなんかこんなのが釣れたんだ」
ロッコは手を広げた1メートル数十センチといったところか。村で取れるのの倍くらいのサイズ感である。
外洋だと大きく育つのか?
いや、そんな訳はない。婚姻色の出た大人の鮭じゃないと遡上はしない筈だ。
「どうやって食べるんです?」
「丸焼きだ。羊なんかを焼くのと同じ要領で豪快にやるのよ」
「それは凄いですね。やっぱ人気メニューなんですか?」
「俺は好きだね。羊と比べると味気ねえが何しろ食いでがある」
棒に刺してグルグル回しながら焼かれる巨大鮭を想像すると口に唾が湧いてきた。
「お、来たぞ!」
イカを繋いだ糸、というよりロープがグンと引かれた。
「打て打て!」
え、打て?
「アイシクルだよ!
氷の精霊よ 我らに力を貸したまえ その冷徹な刃にて 我らが敵に鉄槌をお下しください その冷たい切先にて裁きをお与えください アイシクル!」
ロッコの手から氷柱が生えて海中へと飛んでいった。
詠唱を連呼して何本も氷柱を撃ち込んでゆく。
「ほら、お前も!」
俺も慌てて詠唱を真似して連呼して唱えた。
魚がいるであろうロープの先を狙ってだ。
このかなり長くて言いにくい詠唱をフルスピードで連呼するのは中々に難しく、口の中に泡が立ってきた頃、急にロープを引く力が弱くなった。
どちらかの攻撃が魚に当たったのだろう。
「さ、揚げるぞ。近づいてきたらそこの棒で殴って殺すんだぞ。いいな?」
え、殴って殺すの?
氷柱が刺さって死んでるんじゃないの?
とりあえずロッコの言うまま船底に転がっていた棍棒を手に魚が上がってくるのを待った。
すると海面に黒い影が近づいてきた。
「殴れ!」
「はい!」
バシャン!
「もう一回!」
「はい!」
バシャゴン!
「もう一回!」
バシャゴン!
最初の一発はあまり手応えがなかったけど、次の二発は硬い岩でも殴ったような強い手応えがあった。
ロッコはそのまま魚を引き流しながら魚の様子を凝視した。
「うん、大丈夫そうだ。魚の頭が欄干に乗ったらもう一度いっとこう」
「了解です」
ロッコは座ったまま伸び上げるようにして魚の頭を海面から引き上げた。
てかコレ鮪じゃん!
ロケットのような流線型のボディ。
尖った鼻。
俺は渾身の力を込めてマグロの頭を殴った。
マグロはまだ生きていたのかビクンと大きく身体を反らせボートが揺れた。
「よし、もう大丈夫だろう」
ロッコは魚を船へは引き揚げずエラにロープを結びボートに固定した。船尾に移動し尾にもロープをかけるとマグロはボートの舷側に沿って完全に固定された。
するとロッコは腹を上にひっくり返ったマグロの腹にナイフを差し込み内臓を抜いた。
結構な量の血が海面に流れる。
ロッコは立ち上がると今度は大きなナタを取り出しエラの後ろに振り下ろした。
あれ、頭は食わないの?
頬にスゲー美味い身があるんじゃなかったけ?
後頭部のあたりも高級部位があったんじゃなかったっけ?
「少しでも軽くしたほうが船に揚げるのがラクだからな。あと血抜きも済ませておけば甲板も汚れねえ」
そんなことを言いながらロッコはエラに結いていたロープを解きマグロの頭を海に捨ててしまった。
「よし、戻ろう!」
ロッコは肩で息をしながらも満面の笑みだ。
どうだといわんばかりである。
俺はちょっとマグロの頭が名残り惜しくて暫く海面を見つめていた。
船に戻るとマグロは吊り上げられて甲板へと引き上げられた。
「まずはボートを洗っちまわないとな」
見てみると欄干がマグロの血で汚れ、船底はテンタクルの墨で真っ黒だ。
「あ、やっときますよ。俺、後半何もしなかったんで」
「おおそうか、じゃ頼むわ」
ボートの洗い方なら見たことがある。
海に浮かべたまま海水をかけながらタワシで擦るのだ。
内側をじゃぶじゃぶゴシゴシ洗って、海水はあらかた掻き出して、皆に甲板に引き揚げてもらってから、うつ伏せに置いて固定して完了である。
固定具合を甲板長に確認してもらって俺は厨房に向かった。
みんなは刺身は嫌だろうけどちょっとで良いから生で食いたいよな。
醤油とワサビがないのは残念だが鰹だって塩で食べたりするのだから鮪だって塩で食えるだろう。
なんならすき身だけでも頼んで分けてもらおう。
中骨のところをスプーンでこそげて食うのだ。
あんな細かいところを好んで食べるのは日本人くらいだろう。人によっては中トロよりも旨いという高級部位なのだから思う存分堪能できるだろう。
おや、なんだか焦げ臭い。
厨房に足を入れた俺は衝撃の光景を目にした。
デカイ壺から飛び出したマグロの尻尾。
椅子の上に立ってその壺にファイアーボールを何度も打ち込むロッコの姿。
「おう、ご苦労さん。そろそろ焼き上がるぞ」
俺はその場でへたり込んだ。
「お、焼くとこ見たかったか、簡単だぞ? この壺が熱を閉じ込めてくれるから芯までちゃんと火が入るんだ。、、、なんだお前泣いてるのか?」
次があったら絶対に頭をもらおう。
俺は涙を流しながらそう誓った。




