第9章ー7
とはいえ、スペイン共和派が、この大攻勢を行うには、問題点が多々あった。
まず、最大の問題点が、兵の質だった。
皮肉なことに、1937年5月初めの時点と変わらず、スペイン共和派の攻勢に出られる兵力は、後方警備に当てる部隊を除いても、20万人程度はいた。
だが、その内実は、どうにもならない、と言っても過言では無かった。
5月から6月の大敗の損耗を補充するために、文字通りの根こそぎ徴兵を、スペイン共和派は行わざるを得なくなっており、前線には16歳から40歳過ぎまでの兵士が混在する有様になっていた。
また、5月から6月の大敗の結果、スペイン東部の水力発電所の多くが、スペイン国民派の手に落ちており、それによって、カタルーニャやバレンシアの工場の多くが、閉鎖に追い込まれたことから、失業した工員が、明日のパンを確保するために、スペイン共和派の兵に志願していたが、こういった工員は、練度、年齢等の観点から良い兵とは中々言い難かった。
更に、兵の士気の問題である。
スペイン共和派の敗北は間近い、とスペイン共和派の幹部の多くが考えるようになっており、更に、先日のスペイン共和派内の内輪揉めは、兵の士気を大幅に低下させていた。
それに追い打ちをかけるように、トハチェフスキー元帥等、ソ連軍軍事顧問団が、全ての部隊を対等に処遇するように働きかけたにもかかわらず、スペイン共和派内でも主流を占めるようになっていた共産党系の部隊に対し、非共産党系の部隊は様々な面で冷遇されるようになっており、共産党系の部隊は、弾薬を始めとする物資が溢れているのに、非共産党系の部隊は、兵10人に小銃が8挺しかなく、弾薬も手持ち分しかないという処遇が当たり前になっていた。
このような状況になっては、非共産党系の部隊の兵士の士気が低下するのも、当然の話だった。
そして、スペイン共和派にとって、杖とも柱とも頼む「赤い国際旅団」の状況は、輪を掛けて深刻なものになっていた。
民主主義を護る、という大義を信じて、世界各地から駆けつけてきた「赤い国際旅団」の志願兵の多くの者が、「赤い国際旅団」の実態は、共産党一党独裁体制こそ真の民主主義であると宣伝する共産党系の政治委員に操られた存在に過ぎない、ということが、徐々にわかるようになっていた。
そのため、多くがパスポートを取り返して、帰国しようと試みたが、彼らのパスポートのほとんどは、「赤い国際旅団」への志願の際に取り上げられており、更に、そのパスポートは、ソ連の工作員が使用するために、実はモスクワへと運ばれた後だった。
そして、帰国したい、と声を上げた者は、裏切り者として、即決裁判で銃殺刑が当たり前になった。
こうなっては、どっちにしても殺されるなら、と脱走を試みる者が多発するようになる。
「赤い国際旅団」の多くが脱走兵に悩み、その補充の為に、強制徴募等の犯罪に手を出すようになった。
これは、「赤い国際旅団」のますますの士気の荒廃を招いてしまった。
トハチェフスキー元帥らからすれば、このような実情を把握すればするほど、スペイン共和派が行おうとするこれからの大攻勢が、スペイン共和派の断末魔になりかねない、ということが分かることになったが、かといって、大攻勢を行わない、という選択肢は無かった。
なぜなら、大攻勢を行わなければ、ますますジリ貧になり、スペイン共和派が有利な停戦に持ち込むことさえ不可能になるからである。
「せめて、自らの手足として動かせる1万の兵がいれば、何とかしてこの大攻勢を成功させられる可能性が出てくるのだが」
トハチェフスキー元帥は自嘲しながら、大攻勢の事前準備に奮闘せざるを得なかった。
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