第8章ー13
結果的にオビエド近郊に「白い国際旅団」等が到着したのは、1937年1月15日のことであり、オビエドが「白い国際旅団」等により、事実上攻囲状態に置かれたのは、同月18日のことだった。
ちなみに、オビエドに「白い国際旅団」が接近するまでにも、スペイン共和派軍の抵抗は、無論、あったのだが、「白い国際旅団」の急進撃の前に、事実上の遭遇戦を余儀なくされた末に、多くが敗走し、一部が山間部に立て籠もって、散発的なゲリラ戦を展開する羽目になってしまっていた。
また、この急進撃によって、アストゥリアス州最大の港湾都市ヒホンも、「白い国際旅団」の脅威にさらされるようになり、実際問題として、ヒホン港に海から物資を運びこもうとする輸送船は、日本空軍から派遣された義勇航空隊が行う艦船攻撃の良い的になってしまった。
土方勇志伯爵は、このような現状に鑑み、更なる手を打つことを考え、石原莞爾大佐と相談した。
「バスク人達に寝返りの勧告をしてみては、どうだろうか」
「それは効果的でしょうな」
土方伯爵からの相談に、石原大佐は打てば響くように答えた。
バスク人達の多くが、現在、バスク自治政府を、スペイン共和派政府の承認によって作っているが、スペイン国民派が勝利すれば、このバスク自治政府が否認されるのは、スペイン国民派が中央集権主義、反民族主義を執ることからして必然と見られている。
そのために、バスク人達の多くが、徹底抗戦を決意し、スペイン共和派に最後まで忠誠を尽くす、と考えられていた。
だが、土方伯爵や石原大佐からすれば、その考えには盲点があった。
「バスク人の多くが、敬虔なカトリックだ。そして、スペイン国民派のバックには、ローマ教皇庁が事実上味方しているのは、公知の事実だ。ローマ教皇庁が寝返りの仲介に入れば、バスク自治政府は動揺するだろう。そして、その仲介をそれとなく、スペイン共和派に流せばどうなるかな」
「疑心暗鬼に捕らわれたスペイン共和派は、バスク自治政府をよくて冷遇するでしょう。下手をすれば、裏切り者として、積極的に切り捨てるかもしれません。どちらに転んでも、我々は損をしません」
土方伯爵と石原大佐は会話した。
「では、再編制して補充兵を連れてくる必要がある、という名目で、ローマに行ってもらえないか。そして、ローマ教皇庁を動かしてくれ。できれば、英国も噛んでくれる、ともっとありがたい」
「そこまでの話となると、ローマで日本本国と連絡を取った方がいいですな。宇垣首相は、動いてくれないでしょうが、山梨勝之進海相や梅津美治郎陸軍次官は動いてくれるでしょう。立憲政友会の顧問をしている吉田茂も、駐伊大使の経験がありますから、そこも当たってみますか。伊政府にも、それとなく話を通じておかないと、ムッソリーニがへそを曲げそうだ」
「その通りだな」
土方伯爵と石原大佐は、更に詰めた話をした。
「では、よろしく頼む」
「お任せを」
土方伯爵に見送られて、石原大佐はオビエド攻囲戦の現場から抜け出し、ジブラルタルを経由して、ローマへと向かった。
石原大佐が、ジブラルタルを経由したのは、言うまでも無く、英政府に、バスク自治政府を、スペイン共和派から、スペイン国民派に寝返らせる工作に乗るように、協力を要請するためだった。
この石原大佐の動きは、ローマ教皇庁や英政府、伊政府、更に遠く離れた日本にまで、多大な波紋を投げかけることになった。
バスク自治政府の寝返り工作について、まず、ローマ教皇庁が水面下で動くことを承諾した。
同じカトリックの信徒同士が争うべきでないという大義名分が立つからである。
更に、英政府や伊政府等もうごめき、波紋は広がった。
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