第8章ー12
スペイン共和派にしても、北部戦線救援作戦を考えていなかったわけではない。
主な作戦は2つ考えられた。
一つ目は、アラゴン方面から攻撃を行い、バスク方面の北部戦線の諸部隊も連携して攻撃を行う。
それによって、東部戦線と北部戦線の部隊を連結させ、共和派の戦線をつなぎ、更に国民派に打撃を加えようとする作戦である。
二つ目は、現在、首都マドリードが半包囲状態にあることから、それを解囲することを目的とする攻撃を掛ける。
それによって、北部戦線に向かっている国民派の兵力をマドリード方面に呼び戻させることで、北部戦線を間接的に救おうとする作戦である。
本来からすれば、一つ目の作戦を発動すべきだった。
実際、トハチェフスキー元帥ら、ソ連軍軍事顧問団も、その作戦が望ましいと主張したらしい。
だが、首都マドリードの価値を、スペイン共和派政府が高く評価していたことから、二つ目の作戦が発動されることになった。
しかし、素人集団(スペイン共和派政府の上層部には、まともな軍人が少なかった)の哀しさと悪天候から、マドリード救援の部隊が集められるのには時間が掛かり、実際の作戦発動は、2月にずれ込んだ。
その間に、北部戦線の最大の拠点といってよかったアストゥリアス州のオビエドは、「白い国際旅団」を主力とするスペイン国民派の重攻囲下におかれ、絶望的な抵抗を行う有様になっていた。
しかも、その動きは、スペイン国民派(と日英の軍事情報部)の諜報活動により、半分、筒抜けになり、北部戦線のスペイン共和派部隊に対する効果的な反宣伝をもたらした。
実際、バスク自治政府首相を務めたアギレは、次のように回想している。
「1937年1月初め、我々は、北部戦線に「白い国際旅団」の主力が投入され、スペイン国民派の刃が我々に向けられたのに気づいていた。我々は、共和派に北部戦線の救援を訴えた。だが、共和派は、我々よりもマドリードを救援するのが大事だ、と主張して、しかものろのろとしか、部隊を動かそうとしなかった。この情報を、我々は隠そうとしたが、スペイン国民派は、大量の伝単(宣伝ビラ)を空から撒いて、その情報を広めようとした。その情報に接したスペイン共和派の兵士の多くが、それが真実なのか確認しようとし、それが真実なのを知って、士気を低下させた。もし、直接的な北部救援作戦が展開されていたら、もう少し我々は抵抗できたと思うし、少なくとも2月一杯は、オビエドは我々の手にあったと思う」
アギレの回想は、楽観的過ぎるという批判もあるが、実際、スペイン共和派が直接の救援作戦を発動しなかったために、北部戦線の兵士の士気の低下が起きたのは、事実だった。
また、スペイン国民派の進撃速度が速かったのも、スペイン共和派の誤算だった。
「補給が続く限り、前進せよか」
アラン・ダヴー少尉は、指揮下の小隊と共に、ひたすら日本人義勇兵第一旅団の後方を進んでいた。
1月1日は、再編制で動かなかったが、その後、2週間余り、進撃に次ぐ進撃を「白い国際旅団」は断行していた。
高木惣吉中佐には、これでも遅いという不満があるらしいが、ダヴー少尉にしてみれば、敵地を200キロ以上も、2週間で急進せよ、というのは驚異的なスピードだった。
車両故障が相次ぎ、フリアン曹長らの創意工夫で、何とか修理しつつの前進が行なわれていた。
山がちな地勢のため、車両を何人かで押して動かすことも、しばしばで、それもあって、自分も含めて小隊員は疲れを溜めており、歩哨を立てて、夜寝るのだが、皆、泥のように眠る日々が続いていた。
「戦争とは、こんなに疲れるのか」
部下の兵が、愚痴るのが聞こえる。
ダヴー少尉も同感だった。
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