第7章ー10
このように、独には独の事情があって、スペイン共和派に肩入れしていたのだが、日英政府にしてみれば、独のこのような動きは、やはり独は隠れ共産シンパなのか、と見なす事情となった。
そのため、日英政府、それに米政府は、スペイン内戦により、独を反共防波堤と見なすのを止めるようになった。
とはいえ、日本はともかく、英米は国民の多くが反戦を叫んでいた為、軍備強化がままならず(皮肉なことに、当時の米国民の一部からすれば、日本の艦隊整備の方が、米国にとっての脅威だった。)、表面上は独ソに対する宥和政策を執りつつ、自国の軍備整備を図らざるを得なかった。
また、このことは仏の人民戦線政府成立も相まって、ポーランド等の東欧諸国が、独ソに接近しようとするのを、英米が看過せざるを得ない状況も生み、チェコスロバキアの解体等を発生させるのである。
話がそれた。
スペイン内戦に話を戻す。
そうこうしている内に、スペイン国民派は早期の内戦終結のために、1936年9月以降、マドリード攻略作戦を発動していたが、ソ連からの武器等の援助が徐々に到着したことと、共和派の民兵隊の勇戦の前に悪戦苦闘を強いられるようになっていた。
また、「赤い国際旅団」も初期に編制された部隊を実戦に投入できるようになっており、11月初めになるとマドリード防衛に参加するようになっていた。
こうしたことから、「白い国際旅団」の来援等、大規模な早期援助をスペイン国民派は求めたが、「白い国際旅団」の準備が整うのは、それなりに準備が掛かった。
「白い国際旅団」に志願した義勇兵の多くが、実際の軍事訓練は受けたことが無く、軍事教育を受けたことも無い、とあっては、部隊編制を行い、必要最低限の訓練を行い、ローマからスペインへと向かう船の上でも、最低限の座学を叩きこまざるを得なかった。
(それでも、「白い国際旅団」の練度の方が、「赤い国際旅団」よりも、基本的には上回っていた。なぜなら、「赤い国際旅団」は、しばしば訓練時間を「政治的討議」に費やしたからである。)
最終的に、土方伯爵らの「白い国際旅団」の地上部隊が戦場に姿を見せるのは、11月も終わりになってからであり、その頃には、スペイン内戦の初期のハイライト、第一次マドリード攻防戦は、ほぼ終わっていた。
(なお、和田大佐率いる航空部隊は、地上部隊とは別に10月末にはスペインに先行派遣されており、11月初めには、小規模ながら航空作戦を発動し始めている。)
第1次マドリード攻防戦の結果、スペイン国民派は、マドリードを国民派の部隊による半包囲状態に置くことに成功し、スペイン共和派も、政府をバルセロナへと脱出させる羽目になっていた。
この結果だけからすると、スペイン国民派が第一次マドリード攻防戦では、勝利を収めたと言える。
とはいえ、軍事的には手詰まり状態と言ってよかった。
スペイン国民派がマドリード近郊に展開している兵力では、マドリード攻略を続けることは困難だった。
つまり、スペイン国民派としては、マドリードを半包囲状態に止めておくしかなかったのである。
その一方、スペイン共和派も、マドリードを完全解囲する軍事力は無かった。
スペイン共和派の軍隊の泣き所は、軍事的知識のある者が少なく、防御となると、それなりに勇敢に戦うことができるものの、攻撃となると、直線的な攻撃が精一杯、複雑な攻撃を行うのは、とても無理なことだということだった。
実際、ソ連からは、当時の最新鋭戦車BT-5までスペイン共和派に提供されたが、実際の戦場で余り勇戦敢闘した形跡がない。
こういった状況に陥った中で、土方伯爵らは、スペインの大地に第一歩を記していた。
第7章の終わりです。
次話から、第8章に入ります。
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