第7章ー4
最終的にスペインへ送り込まれる義勇航空隊の編制だが、予備機も含めての数字になるが、96式戦闘機が80機、96式中型爆撃機が80機、96式司令部偵察機が32機と、200機近い航空機が投入されることになった。
勿論、それに見合う搭乗員、整備員もスペインへ派遣せねばならない。
結局、全部で5000人以上の部隊という事になり、これだけの部隊を整備するのに空軍の人事局は大わらわになった。
なお、スペイン内戦中に補充機等もそれなりに送り込まれており、細かい数字の食い違いが資料によってあるが、推定、全部で300機以上が、スペイン内戦の際に日本から送り込まれたようである。
勿論、地上部隊も必要である。
表向きは、土方勇志伯爵が義勇兵として名乗りを上げ、それに応じて、自発的に義勇兵として参加という形を採るものの、それだけで遥々日本からスペインへ赴く義勇兵が足りるわけが無かった。
それなりに身分保障をし、万が一の際の補償を手配することで、海兵隊や、それだけでは足りずに陸軍からも義勇兵を募らざるを得なかった。
土方伯爵をトップに据え、歩兵3個大隊を基幹とする1個旅団を2つ(隠密裏に)編制する。
本音を言えば、戦車部隊も派遣したい位だったが、航空隊最優先ということから、戦車や野砲等は、現地で調達される英国製等を主に使用することになっており、日本製なのは、38式歩兵銃くらいだった。
ちなみに、後方部隊も併せれば、スペインへ赴く義勇兵の地上部隊は、約1万人といったところだった。
問題は予算だった。
さすがに、ここまでの部隊編制となると、陸海軍の通常の予備費で賄える程度のものでは無かった。
既にスペイン内戦が始まっているので、それへの対策の為に、ある程度の準備が必要ということで、予算を確保しようとしたが、議会で臨時予算を取らねばならない。
宇垣一成首相は、スペイン内戦への介入に消極的であり、与党立憲民政党内にも、スペイン内戦への介入、臨時予算の編成には消極的な声が横溢していた。
そのために、予算の確保が大問題となったのである。
野党の立憲政友会が、米内光政総裁代行を介しての説得により、臨時予算編成に応じてくれたのは幸いだったが、それだけではどうにもならない。
梅津美治郎陸軍次官と、伏見宮博恭空軍本部長が、杉山元陸相を突き上げることで、陸軍内を一本化し、更に山梨勝之進海相が、海相辞任に伴う倒閣をちらつかせることで、宇垣首相や立憲民政党を何とか譲歩させ、臨時予算を議会で事実上組ませることに成功した。
(山梨海相が辞任した場合、海軍内の旧条約派は、後継海相を出さないことで一本化されていた。かといって、宇垣首相と旧艦隊派は、海軍予算拡充を巡り犬猿の仲であり、宇垣首相は、旧艦隊派から海相を選ぶわけにはいかなかった。そのため、山梨海相が辞任した場合、海相選任が出来ず、宇垣内閣は総辞職するしかないという裏事情があった。)
そうこうしている内に、9月に入ろうとしていた。
見切り発車にはなるが、土方伯爵達、日本人義勇兵は、ローマへと三々五々、日本から出発して行った。
スペイン情勢は、急を告げ、「赤い国際旅団」が編制されつつある、との情報が入ったからである。
土方伯爵は、欧州へと向かう船の中で暫く物思いに耽っていた。
林忠崇侯爵に、欧州に赴く旨、伝えに行った際に、林侯爵は、
「生きて還ってこい。生きて待っておるからな」
としか言われなかった。
いろいろと言いたいことが、数多あるものの、それだけしか口に出せなかったのだろう。
自分も、
「生きて還ってきます」
とか、言えなかった。
部下達も少しでも多く生還させねばな。
土方伯爵は、内心で固く決意した。
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