第6章ー2
このように右派の過激派や軍部が動いているのを、左派の過激派も座視していたわけでは無かった。
ソ連等から独自に武器や弾薬を購入して、右派の過激派の行動に対処しようとし、実際、その購入に成功している。
だが、このような状況は、右派の過激派や軍部に、自らの行動を正当化させるだけだった。
軍部の将官の1人で、クーデター計画の事実上のトップを当時、務めていたモラ将軍は、緻密な計画を立てるのが好きで、他のクーデター計画参加者から、「愚図」とまで、陰で呼ばれていた。
だが、そのお蔭で、最終的な計画は、モラ将軍らしい見事なものに(紙上では)なった。
7月上旬までに、モラ将軍やクーデター計画参加者は、いつでも「愛する我が祖国スペインを、左翼の脅威から解放し、真の愛国者の下に取り戻すための」クーデター計画が発動できる準備が整ったと判断した。
準備が整った以上、後は、いつ発動するかである。
モラ将軍は、7月18日午前5時を期して、モロッコにいる部隊に対して、クーデターを起こすように指示を出した。
そして、7月19日午前5時を期して、スペイン本土にいる部隊に対して、クーデターを起こし、全土を制圧するようにと指示を出した。
これは、まずモロッコを制圧し、クーデターの主力となる部隊の行動の自由を確保し、更にその部隊を海上移動させる必要性から止むを得ない行動だった。
だが、その行動は、開始直前につまずくことになる。
7月17日の正午前、モロッコのイリリャの街で、指揮下の部隊がクーデターを起こそうとしているのを、クーデター計画に参加していなかったロメラレス将軍が知った。
将軍が、クーデター阻止の行動を起こそうとしているのを知った部下のセギ中佐は、逆に将軍を逮捕した後、独断専行でクーデターの決起行動を起こすことにした。
セギ中佐には、どこまでロメラレス将軍がクーデター計画についての警報を出したのかが分からず、下手をするとクーデター派の面々が、逆に逮捕等の目に遭うという危険を考えねばならなかったのである。
セギ中佐は、本来はロメラレス将軍が指揮する筈の部隊の指揮権を掌握すると、速やかにイリリャの街の制圧行動に掛かり、その日の内にイリリャはクーデター派の制圧下に置かれた。
更にセギ中佐は、確実にクーデター派が指揮権を掌握できると自分が考えている拠点に対して、自分が行動を起こしたことを打電した。
この電報を受けた中には、カナリア諸島に半ば島流しにされていたフランコ将軍もいた。
フランコ将軍は、7月18日午前6時10分に、
「英雄的アフリカ軍に栄光あれ。すべてにスペインを優先させよ。この英雄的瞬間に、貴官たちを支持する全国の守備隊と本土の全同志は熱烈な挨拶を送る。ひたすら勝利を信じよ。スペインの栄光万歳!」
という電報を、本土の全ての師団司令部や海軍基地等に発した。
事実上、この瞬間にスペインのクーデターは、多くのスペイン政府の要人に知られることになり、また、クーデターに参加する部隊の行動開始の合図となった。
7月18日の明け方までに、モロッコ全土はクーデター派の支配下にほぼ落ちていた。
その時点で、テトゥアンに置かれていた総督府と空軍基地が、反クーデター派の最後の拠点と言ってよい状態だったが、その2つの拠点共に、その日の昼過ぎには投降することになった。
投降者の中には、フランコ将軍の従兄弟もいたが、クーデター派は容赦なく、投降者全員を処刑した。
こうして、モロッコ全土はクーデター派の手に落ちた。
それまでの約1日の間に、反クーデター派は200人近くが殺されていた。
だが、内戦はまだ始まったばかりで、更に多くの犠牲を出すことになる。
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