第5章ー8
余りにも小説的過ぎるという指摘を受けそうなので、予め補足しておくと、アントニー・ビーヴァー著「スペイン内戦(上)」で紹介されている、史実のスペイン内戦前の総選挙の結果に基づいて、小説でもこの時の選挙結果については描いています。
それにしても、選挙制度上は止むを得ないとはいえ、得票数と議席数が、これ程、かけ離れていては、右派が激怒するのも、感情的には分からなくもないです。
1936年2月16日に投票されたスペイン議会の選挙結果について、中立派及び左派の主張では、正当かつ公正な選挙だったと言われている。
一方、右派の主張では、不正に塗れた選挙だったと言われている。
つまり、右派はこの選挙に負けたのだ。
だが、票の差は僅かなもの(総投票数約986万票の内、左派が約465万票、右派が450万票、中道派約40万票、バスク民族党約13万票)だったにも関わらず、選挙制度のため、左派が262議席、右派が127議席、中道派が16議席、バスク民族党が10議席という結果は、左右の妥協の余地を狭めるだけだった。
右派が激怒する一方で、左派はこれが(圧倒的多数の)国民の民意だと公然と主張した。
この選挙の後、左派の過激派が、左派の勝利を祝い、法の支配を無視して、民衆を扇動し、自分達の味方の左派で政治犯として収監されている面々を解放しようと、刑務所に押しかけ、自分達で勝手に解放する事態が、スペイン各地で多発した。
「選挙で示された民意に従い、左派の政治犯を特赦しろ」
彼らは、そう叫んで、こういった行為を正当化した。
選挙によって成立したスペイン共和派の新政府は、その声に応え、特赦令を発布した。
これに右派は激怒した。
自分達が、法の支配を無視し、不正な裁判で、左派の政治犯を収監してきたのを、きれいさっぱりと忘れたかのように、右派は、左派は法の支配を無視した特赦令を出した、と声高に叫んだ。
また、この選挙結果によるスペイン経済の打撃も深刻なものだった。
この選挙結果を受け、まだスペイン国内に踏みとどまっていた国内資本が、国外へと逃亡を始めたのだ。
何しろ、左派の過激派が、選挙によって成立した新政府がは、ロシア、ソ連におけるケレンスキー政権とほぼ同様の存在であり、今やスペインは1917年のロシアと同様に、社会主義革命を断行、共産党国家を作るべき、と声高に主張し、実際に政権の大部分を占めているとあっては、スペインの資本家、地主達が、ネクタイパーティーに招待される(死刑になる)前に、と資産を持って国外に逃げるのは当然だった。
そして、それを左派の過激派は、資本家や地主達は、売国的行動に奔ったと非難した。
何故、国内に残り、資本を投資しないのだ、というのだが、誰が身銭を切って死にたがるだろうか?
こういった状況から、右派も左派も過激派が幅を利かせる一方になった。
実際、スペインのファシスト党といえるファランヘ党は、この選挙結果により、党員が約1万5000人から約3万人へと倍増した。
左派も右派も、お互いの攻撃に備えるという名目で、過激派は武器を調達しあい、それを止める動きはほとんど見られない、という末期的な状況になった。
1936年6月、スペイン国内では、ストが頻発し、お互いの政治的なテロが、珍しくなくなっていた。
更にまずいことに、欧州情勢は緊迫の度を増す一方だった。
昨年の1935年には独が再軍備を宣言、1936年3月には、ラインラント進駐を果たした。
伊は伊で、エチオピア戦争を戦っている有様である。
仏でも総選挙の結果、1936年6月4日、スペインと同様に人民戦線内閣が成立し、日英の一部の政府高官は、仏も、スペインやソ連と同様に赤く染まるのでは、という懸念を覚えるようになった。
実際、独に対抗するためという名目でその前年、仏ソ相互援助条約が結ばれている。
スペイン国内では年内には、右派のクーデター、又は、右派による内戦勃発は必至、と、今、前田利為少将が読んでいる報告書の結論には書かれていた。
前田少将は、考えた。
本来、日本は介入する必要はない。
だが、共産主義の脅威等から介入するしかないな。
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