第5章ー7
1931年4月14日、国王アルフォンソ13世の国外亡命により成立したスペイン共和政(いわゆる第二共和政)は、樹立当初から多難な運命をたどることが決まっていた。
スペインの国家、経済の混乱は、国内の政治的諸勢力の主張を、お互いに急進化、過激化させ、政治的な妥協の道を閉ざしていったからである。
共和政が樹立された後、国際銀行業界は、政治的混乱を嫌い、スペインへの借款を渋り、資本の引き上げを図るようになった。
また、これまでの失政から、スペインの国家財政は破綻しており、新政権は大幅な増税を速やかに断行せざるを得なかった。
スペインの国内資本の多くが、増税を嫌い、国外へと逃亡した。
そして、地主と資本家は、共和政は社会主義者が主力を成しており、国内の土地や企業は国有化されると警戒して、投資を直ちに止めようとした。
(実際、当時の共和政において、政権内で最大勢力を誇っていたのは、社会党系だった。)
これだけの事があっては、通常の国でも、どうにもならない。
まして、ほぼ国家財政、経済が破綻していたスペインである。
あっという間に、スペイン経済は急な坂を転げ落ちるような有様になった。
政教分離も大問題となった。
共和政の名の下、教会と国家を分離しているとして、スペイン大司教は激怒し、宗教破壊を意図する現政府の打倒を主張した(実際、現政府も、宗教破壊を意図した行動をしていた。)。
左翼系の共和主義者も黙ってはいなかった。
「ただ1人の共和派が殺されるよりも、スペイン全教会が焼かれた方がマシだ」
と現政府の国防相は発言したという噂が公然と流れ、教会勢力を激怒させた。
こうして、教会勢力の支持者と、現政府の支持者は、公然と衝突するようになった。
こうした状況の下、現政府を、本来は支持する筈の労働組合員の多数は、現政府は手ぬるいとして、現政府の打倒を掲げて、ゼネスト等を頻発させたから、事態は尚更、混迷を極めることになった。
現政府は、止む無く治安部隊や、時として軍まで投入して、スト破りを図らざるを得なかった。
また、これまで、王党派、保守派の守護者だった軍部を、近代化、効率化の名の下に、現政府の下に置こうとする試みは、表面上は上手くいきそうだったが、軍内部の実力者の多くは居座りを続け、現政府への反感を募らせる一方だった。
こういった5年近い混迷が続くことによって、議会制民主主義への信頼は、スペイン国民の多くに完全に失われてしまった。
何しろ、以前から議会の選挙では、公然と不正がまかり通っていたのである。
そうした中で、議会の選挙結果を、敗北した側に受け入れろ、というのは無理難題もいいところだった。
1936年2月16日を期して、議会選挙が行われることが、同年の1月1日に現政府によってきめられて布告されたのだが、これはスペインの平穏を完全に終わらせる角笛の響きになった。
実際には選挙に勝った左翼連合、人民戦線の指導者の1人、ラルゴ・カパリェロは、
「右翼が選挙に勝てば、我々は躊躇なく、内戦を開始し、暴力革命とプロレタリアート独裁の路を歩む」
と選挙演説で公言する有様だった。
他の左翼連合の指導者も、多少はオブラートに包んだが、似たり寄ったりの主張をした。
こうした主張をされた右翼連合の面々が、同様の主張をしたのも当然のことだった。
ちなみに、スペインのファシズムは極めて脆弱で、スペイン全土の1000万票近い票の内4万票余りしか票が集まらなかった。
この当時のスペインファシズムの脅威から、祖国スペインを救うために人民戦線が結成された、という人民戦線、後の共和国派の主張が如何に嘘に塗れていたものか、この一つで分かる話である。
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