第4章ー2
その象徴ともいえるのが、軍用機の防弾に対する要望だった。
「何とか軍用機全てについて、7.7ミリ機関銃に対する完全防弾を実現したいものだが」
「その頃には、12.7ミリ機関銃が、軍用機の最低標準装備になっていますよ」
「正に矛と盾だな」
「その通りとしか、言いようがない話ですな」
山本五十六将軍と、井上成美将軍は会話をしていた。
第一次世界大戦において、日本の海軍航空隊、いや、陸海軍航空隊は膨大な死傷者を出す羽目になった。
いわゆる第一次世界大戦の西部戦線で、独軍航空隊と死闘を繰り広げる羽目になった日本の陸海軍航空隊は、航空消耗戦を戦い抜く羽目になったのだ。
この航空消耗戦は恐るべきものだった。
例えば、1916年のヴェルダン要塞攻防戦の前後で、日本海軍航空隊の約6割の搭乗員が死亡ないし戦場復帰不能の重傷を負うという結果が生じている。
軍事上は、その所属部隊の隊員の3割の人員が死傷する損害を受ければ、一般的にその部隊は、まともな戦闘が不可能な打撃を受けたとされることが多い。
日本海軍航空隊が受けた死傷者の損害は3割どころか、約6割の死傷に及んでいたのである。
ヴェルダン要塞攻防戦が終結した直後、味方の筈の英仏軍の首脳部でさえ、
「最早、日本海軍航空隊が、西部戦線の空を飛ぶことはあるまい」
と一部の者が話をしていたくらいである。
だが、不死鳥のように、日本海軍航空隊は甦り、陸軍航空隊も西部戦線に遥々駆け付けた。
それによって、日本陸海軍航空隊は、英仏米の航空隊と協働して、西部戦線で空の傘を確保することができたのであり、そして、第一次世界大戦の勝利を連合軍にもたらすことができた。
しかし、その経験は、日本空軍上層部に、拭い去ることができない苦い想い出を遺している。
余りにも多くの搭乗員を始めとする航空隊関係者を失った、と悔恨の想いを抱き続けている者は多い。
「今、生き残っている、いわゆるガリポリ組、世界大戦の際に、ガリポリ半島の空を飛んだ面々60名の内で、今も生き残っているのは、13名だったかな」
「いえ、11名ですね」
井上将軍は、山本将軍の問いかけに答えた。
「そうか、そんなに減っているのか」
山本将軍は、少し物想いに耽らざるを得なかった。
世界大戦終結から20年近くが経つ。
その間に、航空事故や病等で亡くなった者が、複数いる。
まだ2割、生き残っていると思っていたのだが、2割を切ったか。
「大西瀧治郎大佐が言っていましたよ。当たらなければどうということはない、と言いたいが、あの時を想い起こすと、そんなことは口が裂けても言えないとね」
「だろうな。自分も大西も、あの時は、同僚や教え子を本当に多く失い過ぎた」
井上将軍の言葉に、山本将軍も肯きながら、そう言わざるを得なかった。
腕が未熟な者が、そんなに敵の攻撃を見事に回避し続けられるわけがない。
当時の大西は、草鹿龍之介大佐と組むことで、見事に敵の攻撃を回避し続け、逆に返り討ちにし続けた。
その腕の絶妙さに感嘆した後輩達が、大西大佐に、どうすればいいのですか、と尋ねたのに、
「敵の攻撃等、当たらなければどうということはない」
と豪語した後、付け加えて言った。
「だが、そんなことは、実際には無理だ。ともかく味方と協力し、生き残り、腕を磨け、いいな」
と諭したのだ。
「ともかく味方と協力し、生き残り、腕を磨け」
という言葉は、日本空軍の軍人の胸に刻まれる言葉の一つに、今もなっている。
山本将軍は、それを想い起こした。
「そのためには、軍用機の防弾が必要不可欠で、それに対して、矛といえる機関銃を強化しないといけないな。どうすればいいかな」
山本将軍は、井上将軍に対して問いかけた。
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