第4章ー1 日本空軍の拡張
第4章の始まりです
空軍本部次長室にて
「九試シリーズの制式採用は、順調か」
「まず、問題ないかと」
山本五十六空軍本部次長と、井上成美空軍本部総務部長が会話していた。
本来から言えば、空軍本部長が、空軍関係について全ての責任を負う立場になるのだが、今の空軍本部長は、伏見宮博恭元帥空軍大将であり、本来は海上勤務に専念してきた海軍軍人であったということも合わさって、部下に事実上丸投げ状態にあった。
もっとも、その方が問題ない、というのが空軍部内どころか、陸軍や海軍関係者の見立てでもあった。
何故なら、伏見宮元帥のすぐ下の直属の部下と言える山本五十六空軍本部次長は、日本海軍航空隊草創期を経験し、第一次世界大戦の際は、欧州の戦場で自ら操縦桿を握って戦った経験の持ち主でもあった。
他にも、井上成美、大西瀧治郎、草鹿龍之介、寺岡謹平等、第一次世界大戦で名を売った歴戦の搭乗員が今や将官、又は大佐クラスとなって、空軍を固めている。
伏見宮元帥自身も、
「わしより部下の方が、遥かに詳しいから」
と自認していて、山本空軍本部次長に、事実上職務を一任している状況にあった。
この頃は、(大雑把に言ってだが)世界的に軍用機が、木製布張りの複葉機から全金属製単葉機へ移行している時期に当たっていた。
日本も、それに合わせて全金属製単葉機の開発に力を注ぎ、米国等から積極的な技術導入等を行っている状況にあった。
そのために計画されたのが、いわゆる七試シリーズ、九試シリーズである。
七試シリーズとは、昭和7年、1932年に各種の試作機を、日本国内の有力メーカー数社に対して、空軍が製造を依頼したもので、それによって全金属製単葉機を制式採用する際に起こる各種の問題点が洗い出されることになった。
その反省を踏まえて、昭和9年、1934年に行われたのが、九試シリーズであり、各種の試作機が同様に日本国内の有力メーカー数社で作られたが、こちらは制式採用が大前提となっていた。
これによって、戦闘機、各種爆撃機等を、新型の全金属製単葉機に更新していこうと、日本空軍首脳部は考えたのである。
また、それに合わせて、空軍の戦略、作戦、戦術等の洗い直しも行われることになり、こちらは陸軍参謀本部の畑俊六参謀次長(空軍担当)の主導の下で行われていた。
そして、これによって制式採用に至ったのが、いわゆる96式シリーズということになる。
鈴木重工が製造した96式戦闘機、三菱重工が製造した96式中爆撃機等は、第二次世界大戦初期を支える存在となり、日本軍の航空優勢確保の原動力として、獅子奮迅の働きをすることになった。
また、この96式シリーズによって、何とか第二次世界大戦開戦までに日本は、米英独ソに次ぐ5番目の航空大国としての地位を確立することにもなるのである。
だが、あくまでも何とかなったというレベルであり、米英独ソに比して、航空技術については、当時の日本が、一歩ないし半歩劣っていたのは否定できないレベルであった。
そのために、制式採用早々に、前線部隊からも空軍上層部からも、もう少しこの点を、という改善要望が96式シリーズには幾つも出ることにもなった。
その改善要望に応えるために、更なる新型機の開発製造に、日本空軍は乗り出さざるを得なくなる。
そして、米英からの技術協力を受けると共に、一部の機種については、米軍機のライセンス生産という非常手段の採用さえも、日本空軍は行わざるを得ない事態が引き起こされるのである。
少し話が先走り過ぎたが、1936年当時、日本の航空業界の実力は、何とか空軍の要望に応えられるというレベルに過ぎず、空軍の要求を完全には満たせるとは言い難いものだった。
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