第3章ー8
本音を言えば、末次信正軍令部長としては、海軍国として、英米に匹敵する海軍を日本は保有すべきだ、と言いたいくらいだった。
しかし、日本の国力は、それを許すものではない。
更に言うならば、日本の大国家戦略は、英米と協調して、ソ連や北京政府に対処するというものだった。
友好国を敵視していると、英米に受け取られるような軍備は、日本には必要が無かった。
そういった現状から考えると、ソビエツキー・ソユーズ級戦艦を、ソ連が建造しているというのは、末次にとっては、皮肉にも僥倖と言えた。
ソ連海軍の脅威を理由に、日本海軍の拡張に踏み切れるからである。
山梨勝之進海相を中心とする旧条約派は、日本の国力相応の軍備で良いとしているが、末次ら旧艦隊派はそれでは不足だと考えていた。
「ところで、やけに保有艦の改装を主張しているが、それで誤魔化すつもりではあるまいな」
末次軍令部長は、堀悌吉海軍次官を睨みながら言った。
「まさか、あくまでも海軍軍備を充実させるためです」
堀次官は涼しい顔で言ったが、内心では冷や汗をかいていた。
山梨海相と堀次官の間では、新規に軍艦を建造するとなると、多額の予算が掛かる以上、できる限り、保有艦の改装での軍備の強化を図ることで、予算の効率化を図ろう、という考えでまとまっている。
この理屈ならば、宇垣首相や井上蔵相も、反対しづらいという目論見だった。
とはいえ、現状では、それを言うことはできない。
それなりに改装工事等が進んだ後、改装工事に金が掛かったので、新規の軍艦建造を少し先延ばしにすると、山梨海相は、主に海軍部内には、言うつもりなのだ。
現状でそのことを言ってしまうと、それなら改装工事を取り止めて、新規の軍艦建造を、と末次軍令部長らは言いだしかねない、と堀次官は考えた。
「確かに、伊勢級空母の二段甲板等は問題で、改装の必要があるのは事実だが、だからといって、新規の軍艦建造を、幾つも先送りされては、海軍軍備上大問題だ。そのことを山梨海相には伝えろ。何だったら、わし自ら、直接、山梨海相なり、宇垣首相に説明する」
「分かりました」
末次軍令部長の言葉に、堀次官は肯きながら言った後、末次軍令部長の前を辞去した。
数時間後、堀次官は、山梨海相に、末次軍令部長の言葉を伝えていた。
「やはり、末次軍令部長は、そう言う態度だったか」
堀次官の言葉を聞き終えた山梨海相は、渋い顔をしながら言った。
「本音を言うと、非常手段を取りたいが、それをやると海軍部内で不満が横溢するしな」
山梨海相は言葉を継いだ。
堀次官も黙って肯くしかなかった。
ここでいう非常手段とは、末次軍令部長を、その地位から更迭することだった。
加藤寛治提督が、ロンドン海軍軍縮条約の後始末で、予備役編入処分を受けた後、末次軍令部長が、旧艦隊派の総帥の立場についている。
海軍を分裂させるわけにはいかない、ということで、斎藤實海相(当時)は、微温的な処分で済ませざるを得なかった。
そのために、末次ら、旧艦隊派は、それなりの力を温存している。
そもそも、海軍内で基本的に受けが良いのは、旧艦隊派だった。
海軍を拡張すれば、艦長や戦隊司令官等、ポストが増えるのは自明の理である。
国力をまず第一に考え、海軍拡張に消極的な旧条約派は、どうしても海軍内での受けが悪かった。
海軍内の人事を握っているのは、海相であり、山梨海相は、その気になれば、末次軍令部長をいつでも更迭できるのだが、それをやると海軍内の旧艦隊派が、そっぽを向くので、山梨海相はためらわざるをえなかったのである。
「暫くの間は、忍従の時を続けざるを得んな」
沈黙の時が暫く続いた後、山梨海相は言い、堀次官も肯いた。
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