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第10章ー10

 12月8日の夕闇が迫る頃、平常営業しているように見えるバレンシアの「饗宴」にアラン・ダヴー中尉は、軍服姿のまま入っていた。

 ダヴー中尉がテーブルに着くと、待っていたかのようにカサンドラが横の席に座った。

 お互いに目で会話し、無言のまま、2階の個室に二人は入った。


「また、来てくれたのね」

「帰国する前、君にどうしても会いたかった」

「帰国したら、どうするの」

「フランス陸軍士官に任官するつもりだ」

「そう。私はあなたに付いていけないわ」

 個室の中での二人の会話は、平板に傍からは聞こえた。

 だが、お互いに実は感情を堪えていた。


「済まない。結局、君を却って傷つけたようだ」

「ううん、そんなことはないわ。マルランの死を聞いて、多少は自分の心の整理がついたわ。でも、私は、夫と娘が共和派に殺されたことを忘れられないし、共和派への恨みや憎しみをまだまだ捨て去れない。そんな私は、あなたに付いていけない」


 ダヴー中尉は、カサンドラの言葉を聞きながら、ふと、想いを巡らせた。

 仮にスペイン新政府が、国民和解を進めようとしても、カサンドラが言うように、民衆レベルの復讐心は中々収まらないだろう。

 自分の見る限り、白色テロの方が、赤色テロよりも酷かったように見える。

 だが、赤色テロがあったのは事実だし、国民派の熱烈な支持者程、赤色テロへの報復を理由に、白色テロを正当化するだろう。

 そして、その主張を聞いた共和派の支持者は、似たように考え、赤色テロを正当化するだろう。

 それを考えると、スペインの国民の間の分断が完全に消え、和解が成るのは、いつの日のことだろうか。

 そんなふうにダヴー中尉が想いを巡らす間にも、カサンドラの言葉は続いていた。


「でも、人を恨み、憎み続けるのは、本当は自分にとってもつらい。お腹の子が、生まれ育つのにも良くない、と私自身が思うわ。だから、何とか、忘れはしないけど、恨みや憎しみは捨て去ろう、と思うの。いつの日のことになるか、分からない話だけど」

 カサンドラは、話を、一旦、終えた。


 ダヴー中尉は、話の一節に引っ掛かりを覚え、カサンドラに尋ねた。

「妊娠しているのか」

「ええ。誰の子か、分からないわ。多分、2月程前に妊娠したのだと思う」

「まさか」


 ダヴー中尉は、あの時の事を想い返した。

 避妊した覚えが全くない、まさか、自分の。


 カサンドラは、自分の内心を読んだのか、話を始めた。

「気にしないで。本当に誰の子か、分からないのだから。こういう商売をしているしね」

「そういうことにしていいのか」

「いいの」

 カサンドラは言い切った。

「分かった」


 ダヴー中尉は、それ以上の問いかけをするのを止めた。

 聞いても無駄だろう。

 それに、お腹の子によって、彼女は前向きになったのだ、いいと考えよう。

「生活は大丈夫なのか」

「何とかなるものよ」


 ダヴー中尉の問いかけに、カサンドラは更に言いきった。

「たくましいな」

「スペインの女はたくましいの」

「分かったよ」

 ダヴー中尉は、心持ち肩をすくめて、会話を止めた。


「一緒に添い寝していいか」

「いいわよ。何だったら」

「止めとくよ」

 二人は更に会話した後、ベッドで一緒に寝た。


「それでは、もう2度と逢うことは無いだろう。子どもと元気に暮らせよ」

「さよならね」

 翌朝、ダヴー中尉は、退職金の入った封筒を、カサンドラの個室の机の上に、わざと置き忘れて、カサンドラに別れを告げた。

 これだけあれば、スペインなら3年は母子で暮らせるはずだ。

 カサンドラも、封筒に気が付いている筈なのに、何も言わない。

 カサンドラも、自分の気持ちが分かっているのだ。

 いい女だ、だが、彼女と自分は共には暮せない、ダヴー中尉はそう考え、帰国の途に就いた。 

 第10章の終わりです。

 次話からエピローグになります。

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