映画世界
『ミヤモト』の中は薄暗くシンとしており、人の気配は感じられない。太陽が長らく当たっていないおかげで、却って外よりも肌寒い。入ってすぐの壁面にスイッチがあったので電灯をつけてみれば、白い光が店内を照らした。かつて映画ソフトが並んでいただろう商品棚や、レジ周りの設備がそのままになっている。よほど長いこと放置されていたのだろうと思いきや、埃っぽさは感じられず、こまめに掃除をしているということが理解出来た。
「すごいとこだね~。内装とか、ほとんど昔のままなんだ」
鞍馬は店内を見回しながら言った。
「もしかして、撮影で使っていたのでしょうか」と壁面に貼られているハリウッド映画のポスターを感心したふうに眺めながら呟いたのは松丸。
「そうかも。バミりが残ってるとこがある」と探偵のように注意深く床を眺めるのは厳島だ。「バミる」とは、役者の立ち位置やカメラ位置などがわかるよう、テープなどで印をつけておくことである。
レジ奥にある扉の向こうから、「みなさん、こちらのようですよ」と飯綱の声が聞こえてきた。扇子フォンの導きに従い、先行して店内を探していたらしい。
扉を開けると、三池に聞いていた通りの理想的ホームシアターが広がっていた。正面の壁面には個人で持つにはあまりに巨大なスクリーン。部屋の中央には黒革のソファー。それを囲むようにスピーカーが計五つ。左壁面の一角に並ぶ棚にはブルーレイやらが並べられている。
「もったいないですね。これだけの施設を遊ばせておくなんて」
松丸は訝しげにその場をぐるりと見回す。
「しかし、本当に鈴木さんはここにいるんでしょうか。三池さんという方の話を聞くに、ここは彼女の家というわけでもないのでしょう?」
「つっても、コイツはここを差してるわけだしな」
おれは自分が持っている扇子フォンを試しに放り投げてみた。ふわりと地面に着地したそれは、壁面の棚を差しながら床に倒れる。
まさか、棚の裏に隠し扉でもあるのか。それこそ、映画『パラサイト』のように。期待半分で棚に近づき押したり引いたりしてみたが、ちっとも動く気配がない。なんだか馬鹿にされた気分になった。
「待ってください、新山田さん。これ、棚それ自体を指してるのではないみたいですよ」
おれの近くに寄ってきた飯綱は、床に落とした扇子が指す先――棚の最下段に腕を伸ばす。
「これです。このDVDですよ」
飯綱が手に取ったのは、プリント紙が挟んでない真っ白のDVDパッケージだった。
「なんだというのでしょうか、これは」
呟きながら首を傾げる飯綱が、何の気なしにパッケージを開いたその瞬間――その姿が消えた。まるではじめからその場に飯綱愛乃という人間が存在しなかったかのように、ふぅっと。
パッケージが床に落ち、カランカランと軽い音が響く。あまりに不可思議な出来事に、残されたおれたちは互いの顔を見合わせた。
「……おい。どこに消えたんだ、飯綱のやつ」
「わ、わかりません。目の前から、急に消えて、それで……」
「消えないでしょ〜……、人が……、普通は……」
動揺を隠せないおれたちとは違い、わりと冷静な厳島は「もしかして、愛乃ちゃんが持ってたアレが原因だったりする?」と消失の理由を探ろうとパッケージを拾い上げる。
「い、厳島さん、不用意にそれに触るのは――」
厳島がパッケージを開いたのと、松丸がその不用意な行動を止めるために厳島の腕を掴んだのと……先の飯綱のようにふたりがスッと姿を消したのはまったく同時のことだった。
疑いようがなく、あのDVDパッケージが原因だ。なんだ、ありゃ。どんなひみつ道具だ。アレか。『どくさいスイッチ』か。
一分足らずで三人の友人が姿を消すという緊急事態によほど怯えているらしい。おれの背後に隠れた鞍馬はおれの腕をぎゅっと抱いてきた。意外とかわいいところを見せてきたと思いきや、「新山田さん。アレ、試しに開いてみてくださいよ」とおれの背中をぐいと押す図太さを忘れていないのはさすがというべきか。
「おい、押すな。なんでおれにやらせようとすんだよ」
「あたしはこう見えて大和撫子なんで。男の三歩後ろを黙ってついていくタイプなんで。ということでお先にどうぞ」
「いやいや。こう見えておれはレディーファーストを重んじるタイプのイギリス紳士だからな。お前こそお先にどうぞ」
「いや新山田さんが」「いや鞍馬が」とお互い前を譲り合うこと数分。さすがにらちが明きそうになく、おれは折衷案を出すことにした。
「……わかった。仕方ねえ。同時だ。同時に触るぞ。それなら文句ないだろ」
「わかりました。裏切らないでくださいよ。同時ですからね、絶対に」
「そっちこそ裏切んなよ。裏切ったら手の甲思いっきりつねるからな」
「そっちこそアレですからね。えんぴつでデコピンですからね」
くだらんことを至って真面目に言い合いながら白いパッケージを拾ったおれたちは、ふたりでそれを分け合うように手に取って、「せーの」と声を合わせながら恐る恐る開いた。
瞬間、皮膚の表面が生暖かいなにかに包み込まれ、それと同時に抗い難い力で引きずり込まれる感覚があった。
〇
「――ちょっと! 起きてくださいって! ちょっと!」
身体を強く揺すられて、おれはようやく目を覚ました。慌てて周りを見てみれば、いつの間にか新幹線らしき乗り物の窓際の席に座っていた。窓の外から太陽の光が目一杯差し込んでいる。隣の席には鞍馬の姿。顔見知りがいて安心はしたが、状況がまったく理解できない。鈴木の野郎、なにしやがった。
「なんだよ、ここ。どうしてイキナリ新幹線に乗ってんだ」
「あたしだってわかりませんって! 起きて、気づいたらこんなところにいて、それで……」
鞍馬はあたりを見回しながら言う。
「……というか、ここ日本じゃないですよね」
新幹線は数度乗ったことがあるだけだが、たしかに日本のそれとはなんとなく雰囲気が違うような気がする。それに、辺りから聞こえる乗客の声に耳を済ませれば、話されている言語は日本語じゃない。乗客の顔つきはアジア系だが、日本人とはまた少し違い、恐らくは韓国系だ。にしても、どうして韓国だ? これも天狗製のどこでもドアの力か?
状況の把握はできていないし、下手に動くのは危険だということは重々承知だ。しかし、先に〝飛ばされた〟飯綱たちのことを思えば動くしかない。
「鞍馬、とりあえずあいつら探しに行くぞ」
おれの提案に「ですね。まずは全員集合です」と同意した鞍馬が、先陣切って席を立ったそのとき、隣の車両に繋がる扉が勢いよく開いて、必死の形相をした男が座席間の通路を逃げるように走り去っていった。何なのかと思う間にひとり、またひとりと次々に人が通り過ぎていく。周りの乗客も妙な空気に気が付いたようで、不安げに辺りを見回したり、なにやら話し込んだりしている。
「なにかあったんでしょうかね」と鞍馬が首を傾げたのと、ダンプカーのクラクションみたいにバカデカい悲鳴が車両に響いたのは、ほとんど同時のことだった。
隣の車両から大勢の人間がなだれ込んできた。全員そろって目が白く濁っており、目を覆いたくなるほどの傷が身体のあちこちに見受けられる。そいつらは手近にいる人間を観るや否や――なんの躊躇もなく嚙みつきにかかった。
一瞬の沈黙の後、車内は騒然となり、乗客たちが隣の車両目がけて我先にと走り出す。何も言わずに頷き合ったおれたちは、雪崩の如く押し寄せる人波に流されるまま隣の車両を目指す。
鞍馬は後方の人喰いどもを指さしながら叫んだ。
「ぞ、ゾンビ! ゾンビ! 新山田さんっ、ゾンビですよアレ!」
「ば、馬鹿言うなっ! 現実世界にゾンビがいるかよっ!」
「だ、だ、だ、だ、だったら新山田さん食べられてきてくださいよっ! パクッと!」
「嫌に決まってんだろ! 黙って走れ!」
後続に背中を押されるまま、隣の車両に繋がる扉を抜けたその瞬間――周囲の景色が一変した。
そこは新幹線のような閉塞感のある空間ではなく、周囲を熱帯地方に生えているような無駄にデカい樹木に囲まれた場所だ。先ほどから一転して時刻は夜になっていて、光源となるものは等間隔に設置された松明くらいで見通しが悪い。日本の夏がまだマシに感じるほど暑く、そしてジメジメしていて、立っているだけで嫌になるが、とりあえずこの空間にゾンビはいないらしい。
ホッとしたおれはその場に尻もちをつき、同じく尻もちをつきながら肩で息をする鞍馬へ声をかけた。
「助かった……って言っていいのか、こりゃ」
「まあ、恐らくは……でも、どこなんでしょうかね、ここ。なんかイヤ~な予感がするんですけど」
「妙なこと言うなよ。またゾンビでも出たらどうするつもりだ」
「いえ……ここはゾンビというよりも、むしろ――」
鞍馬の言葉を遮るように、重く響いたのは天を裂くような咆哮。熱帯雨林の奥に、ぎらりと光るものが見えた。
全身の毛穴が開く。全細胞が生命の危険を感じ取り、「逃げろ」というレッドシグナルを発する。
ガサリ、ガサリと大きなシダの葉をかき分けて、現れたのは博物館の顔役的存在。
猟奇的なまでに鋭い歯に粗暴な目つき、筋張った肌に生臭い息。それに、意外とかわいいサイズの前足。
ティラノサウルスだった。
逃げろと叫ぶまでもなく、俺と鞍馬は走り出す。天を衝く咆哮が再度響いたと思えば、背後から地鳴りが追ってきた。
まずい。マズイマズイ。おれたちを食うつもりだ、あの恐竜野郎。
「ホラやっぱり! ホラやっぱりじゃないですか! 紫苑ちゃんのイヤな予感大当たり~!!」
「わかったから気をしっかりもって足動かせっ!」
走って、走って、とにかく走って。設置された松明に沿って道を進むうち、やがて鉄製の巨大な門が視界に映った。その横には人間用の扉も備え付けられている。逃げ場はもうあそこしか残されていない。鬼が出るか蛇が出るか。どっちだっていい。現実のティラノサウルスよりずっとマシだ。
走る勢いそのままに、鞍馬と共にその扉に飛び込めば――次の〝世界〟は、薄汚れたアパートの一室だった。どこか日本らしくないなと感じたのは、玄関に土間が見当たらなかったというのもあるが、なにより部屋が狭いくせに床が畳み張りじゃなかったからだ。日本ならば安アパートは四畳半ないしは六畳半と相場が決まってる。
床に座り込んだ鞍馬は、「ぐへぇ」と息を吐いて天井を仰ぐ。
「……何なんですか、さっきから。なんですか、ゾンビに恐竜って」
「おれが聞きたいくらいだよ。まるで映画だな、クソ」
「……新山田さん、それですよ。あたしたち、映画の中の世界に放り込まれたんです。ほら、最初のゾンビが『新感染』で、次が『ジュラシックパーク』で……いや、『ジュラシックワールド』の方かも……」
「……なんでもいいっての。というか、もし映画の世界に入ったんだったら、あいつらはもうゾンビやティラノサウルスに喰われたりしてるってことかよ」
「そうは言いませんけど……」
タイルが張られた壁に手を突きながら立ち上がった鞍馬は、いぶかしげに部屋を見回す。キッチンとリビングが一体になった狭い部屋。壁はニコチンで汚れており、空気が淀んでいる感が否めない。
「というか、どこなんですかね、ここ。普通の家っぽいカンジですけど」
「知らん……というか、知りたくもない」
とはいえ、ゾンビ、恐竜ときたんだ。三度目にして何も無いというわけではないだろう。嫌な緊張を覚えたおれは、居ても立っても居られなくなって、とりあえずドラえもんの主題歌を鼻歌で歌ってみることにした。意外なことに鞍馬もこれに乗ってきて、ふたりでドラえもんを奏で始めたところ、「アンアンアン」の辺りで扉が強くノックされ、おれたちは揃って肩を震わせた。
玄関に視線を向けたが人影はない。扉を叩いた奴はまだ外にいる。鍵は閉まっているのか? それすらわからん。抜き足差し足で扉に近づいてみれば、とりあえずチェーンは掛かっていることがわかった。念のために鍵もかけ、ホッとひと息ついたところで、どこからともなくゆったりとしたオルゴールの音が聞こえてきた。ドラえもんの主題歌だった。
間の抜けた音が不気味に響く。否応なしに鼓動が早くなる。とりあえず、ここから出るべきか。それとも、部屋まで戻るべきか。迷っている間に先のリビングからひたひたと足音が聞こえてきた。外だ。外に出るしかない。震える手でチェーンを外して鍵を開け、蹴破るように扉を開くと――そこにいたのは奈良の大仏みたいに顔のデカい白塗りのピエロだった。
ニヤリと、僅かに口元を緩めたピエロは、洗濯機の投入口よりも大きく口を広げて大きく叫ぶ。地獄の怨嗟を煮詰めたようなその声に弾かれたよう、揃って駆けだしたおれたちはリビングへと引き返す。
リビングに隠れられるような場所はない。窓を見れば地面は遠く、到底飛び降りて無事で済むような高さではない。万事休す。
鞍馬はおれの腕を掴んでぐいぐいと引っ張った。
「ペ、ペニーワイズですよアレ! 『It』ですよ、ここ!」
「わかったからどうするかお前も考えろ!」
「どうするって、どうしようもないじゃないですか! どうするんですかこの状況で!」
ひた、ひた、ひた。
精神的にいたぶるような足取りでピエロがこちらに近づいてくる。こうなれば、助かる道はひとつしかない。
鞍馬の腕を強く掴んだおれは部屋の窓を開くと――運に身を任せて空へ身体を投げ出した。あわよくば天狗のように空を自在に駆けられればと思ったが、そんな都合よくいくはずもなく、おれたちの身体は仲良く落下する。
良くて骨折、最悪、死。
走馬灯が脳裏に駆け巡り、おれは堪らず目をつぶる――が、待てど暮らせど一向に着地の衝撃が襲ってこない。恐る恐る目を開けてみると――周囲の景色がまたまた一転していた。
家という概念が自己増殖を繰り返したような九龍城風の違法建築物が眼前にそびえ立ち、空は橙色で染まっている。今日まで生きてきて見たこともない景色だというのに、どこか郷愁に駆られてしまうというか、なんだか妙に鼻の奥が湿っぽくなってくる。そんな感じだ。
「ふたりとも。無事でしたか」
背後から聞き覚えのある男の声がした。振り返るとそこには、おれたちに先行してこの世界の中に吸い込まれていった飯綱、厳島、松丸の三人がいた。
「……おまえたち、本物だろうな?」
「偽物の僕たちがいるんですか?」
「ピエロが化けてる可能性がある。証明しろ」
「もしかして、ペニーワイズにでも会ってきた?」とふいに図星を突いてきたのは厳島。ますます怪しく感じられて、警戒したおれと鞍馬は無言で一歩引いた。
「待ってください新山田さん、紫苑ちゃんも。私達だって同じなんです。私達も、映画の世界を巡ってきたんですよ」
厳島は冷静な調子で弁明する。
「私は、ターミネーターに会った後でジョーズに食べられそうになった挙句、ロッキーに殴られそうになりました」
「わたしはスーパーマンと戦った後でキャプテンアメリカに襲われて、キック・アスに斬られそうになった」
「僕はハル・ベリーに頬を叩かれ、原節子に頬を叩かれ、ユマ・サーマンに顔を蹴られてきました」
「……松丸、お前だけなんか主旨違くねえか」
「そうですか? むしろ殴られているぶん、未遂で終わった皆さんと違ってダメージは大きいと思いますが」
シレっとした態度で言って無駄に爽やかな笑みを浮かべる松丸。なるほど、コイツがペニーワイズなわけがない。
本物の松丸は「しかし」と辺りを伺うように見回す。
「ここはどこなのでしょうか。もしかして、ここも映画の世界とか」
「それは勘弁して欲しいけどな。もう走りたくねえ」
その時、九龍城の小さな扉が内側から開かれた。なにか化け物が出てくるのかと思い身構えたが、何も出てこない。拍子抜けしたのも束の間、古めかしい和服を着た髪の長い少女が扉の隙間からひょっこりと顔を出してきて、ピエロの次は幽霊かよと血の気がさっと引いたのと同時に、その少女がどこか見覚えのある顔をしていることに気が付いた。
見た目年齢は十歳前後程度だが間違いない。あれは鈴木だ。
おれと同じく少女の正体に気づいた鞍馬が「あれ?」と声を上げる。
「あの子、もしかして天音ちゃんじゃない?」
「うん、間違いないよ」と頷いた厳島は、よく通る声で「天音ちゃんっ!」と呼びかける。それに気づいた鈴木(仮)は、ひょいと室内へ頭を引っ込めてしまった。
こうなると、もう選択肢はひとつしかない。
おれたちは迷わず九龍城の中に足を踏み入れた。




