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突拍子もないアイデア

 おれの背後にはなにやら黒くてじめじめベッタリした巨大な物体がいる。部屋の片隅で三ヶ月放置したペットボトルの中に生まれた物体みたいなソイツは、ふしゅうふしゅうと臭い息を吐きながら、ずるずるベタベタ地面を這っておれの後を追いかけてきている。こいつは〝現実〟という名の怪物だ。


 おれは現実から何としてでも逃げようとして精一杯に手足を動かすのだが、ソイツの動きはおれの走る速度より僅かに速い。


 どうあがいても逃げられない。でも、どうにかあがいて逃げるしかない。


 涙目になりながら逃げ惑っていると、足がもつれて豪快に転けた。慌てて立ち上がろうとしたおれの背に、ソイツが覆い被さってくる――その直前に目が覚めた。額から背中まで汗ぐっしょりなのは、夏の夜の蒸し暑さのせいだけじゃない。考えうる中で突き抜けて最悪な目覚めだ。頭を撃ち抜かれて起きる方がまだマシだ。


 洗面台で顔を洗い、冷蔵庫から牛乳を取り出しパックに直接口をつけてごくごく飲んだ。なんだか寒気がする。ホットミルクの方がよかったかもしれん。


 撮影が再開する前に脚本の再推敲と書き直しを終わらせたかったのだが、力及ばずそれは叶わなかった。台詞や展開は納得できる形に修正したが、最終盤のもうひと捻りがどうしても思い浮かばない。どんでん返し、とまではいかないが、観客を唸らせる展開がもうひとつ欲しい。無論、気をてらいすぎるのがいいとは言わないが。


「やっぱり、殺すしかねえか」と布団の中でおれが呟いたのは、急に殺人衝動に駆られたわけではなく、登場人物をぶち殺すのが観客の度肝を抜くのに一番手っ取り早い方法だからだ。使い方を間違えれば作品全体が安っぽくなるというデメリットは孕んでいるものの、やはり『死』はエンタメにおいて強力な武器である。


 さて今日は撮影の再開日。なんでも神海高校は、テスト終了後に三日間休みを与えられるという制度があるらしい。金持ち特有の余裕を見せつけられているようで腹立たしいが、今日からはしばらく夜まで撮影を続けることができることを思えば、怒りは湧いてこない。


 時刻は午前九時十五分。「ああでもない」「こうでもない」と脳内でネタを練りつつ高校へ向かえば、校門にはいつぞやおれを不審者扱いした警備員の爺さんが立っていた。おれを見てぎょっとした表情になりつつも、「どうも」と頭を下げるその姿は、権威に屈した社会の犬を見ているようで大変心地よい。


「毎日ご苦労様ですね」と嫌味たっぷりに言ってやり、堂々正面から校内に入ったおれは、映画部の連中が待つ部室へと向かう。部屋にはすでに部の連中全員がおり、飯綱を中心にして一台のパソコンを覗き込みながら作業をしている様子である。


「あ、新山田さん。おはようございます」


 パソコンから顔を上げた鈴木が挨拶すると、それに続いて部の連中も続く。「おはよう」と返しながら近くのパイプ椅子を引き寄せてそこに座ったおれは、パソコンを指しながら「みんなしてなにやってんだ」と訊ねた。


「雑音を取って演者の声だけよく聞こえるようにしたり、不要な部分をトリミングしたり、映像それ自体に効果をつけたり……いろいろありますけど、つまりは映像の編集作業をやってるんです。こうして早めに形にしておいた方が、粗があった時にすぐ対応できますから。新山田さんも、あとで映像確認してくださいね」


 おれの問いに対してにこやかに答えながらも、飯綱はパソコンから眼を離すことなく、なにやらマウスをカチカチやっている。意外なもんだ。なんとなく、ああいった作業は鞍馬あたりの得意分野かとばかり思ってたんだが。


 作業を眺めていると、松丸がこちらに寄ってきて、小声で話しかけてきた。


「飯綱さんは父親の影響で小学生のころから動画編集が趣味だそうで。こちらをどうぞ」


 渡されたスマホを見てみれば、映画の予告映像らしき動画が再生されている。全体的に明るい雰囲気で、登場人物は軒並み高校生。つい数年前までアホみたいに量産されていた、若者向けの恋愛映画の予告だろうか――などと思っていたら、映像の途中で飯綱の顔が出てきたので堪らず吹き出した。


 まさかコイツの正体は女優なのかと、画面をスワイプして動画説明欄を読んでみると、『ありがちな恋愛映画予告つくってみた』と書いてある。動画投稿者の名前は『いづなん』。


「もしかして、この『いづなん』ってのは飯綱のことか?」

「ええ、そのもしかしてです。御覧の通り、彼女の腕は素人のそれではありません。いい素材を集めることができれば、彼女が素敵な作品に仕上げてくれることはまず間違いありませんよ」


 たしかに、並程度のプロの腕前は持っているらしい。金持ちのわりに地味な特技持ってるじゃねえかと、感心しつつ動画再生回数を見てみれば、なんと五十万を超えている。一瞬ドキリとしたものの、まあ、多少バズればこの程度はいくだろうと己の心を押さえつけながら『いづなん』のチャンネルの登録者数を見れば、こちらは驚異の二十万人超えである。肌も露出してないのに。


 二十万て。インターネットじゃちょっとした有名人だぞ。Twitterなら「おなかへった」とか呟くだけで、ぽんと千近くの星が投げられるような種類の人間だぞ。たとえばおれが「おなかへった」なんて呟いても、誰にもかまってもらえないぞ。ふざけろ。


 どす黒い感情が全身から溢れ出そうになったその時、ぴたりと作業を止めた飯綱がパソコンから視線を外しておれたちを見回した。


「天音さん。松丸くんと秋葉さんを連れて、後録り分の台詞を録音してきて貰えませんか? 紫苑さんはそれのお手伝いと、空いた時間で粗めでいいので動画のトリミングをお願いします」


 いつものようなおっとりした喋り方はどこへやら。きびきびとした口調の飯綱からの指示を受け、四人はそれぞれ動き出す。手持ち無沙汰になったおれは、取り残されるのがなんとなく嫌で、飯綱に「おれはなにすりゃいい」と訊ねた。


「そうですね、新山田さんは……」


 沈黙、数秒。くそ、わかってたことだけど役立たずかよ。


「わかったよ。大人しくしてる」

「い、いえ! 新山田さんが役に立たないとか、そういうわけじゃないんですよ! ただ、その、適材適所という言葉もありますし……」


 しどろもどろになりながら言葉を濁した飯綱は、非常に申し訳なさそうに深々と頭を下げた。


「……ごめんなさい」


 謝んなよ。惨めになるから。


 仕方なくノートを開いて脚本の続きを書き始める。しかし、こんな状況でいいアイデアが浮かぶわけもなく、ペンはちっとも動かない。


 それから数分。たいして親しい知り合いでもない奴と同じ空間にいる空気に耐えかねたのか、ふと作業の手を休めた飯綱が話しかけてきた。


「新山田さん。脚本、調子はどうですか?」

「ぼちぼちってとこだ。最後の展開に苦戦してる」

「産みの苦しみ、というものですね。大変ですよね、創作って」

「……大変、なんて言葉が嫌になるくらい大変だよ。寝ても覚めてもああでもない、こうでもないってな。なにも考えてない時間が惜しくなるんだ」

「わかります。私も、たとえば映画なんて観ていても、ここの編集どうなっているんだろうとか、そういうことばかり気にして本筋が入ってこないんですよね」

「わかる。純粋に物語を楽しんだことなんて、もうしばらく前のことだ」

「我ながら、茨の道を進んでしまったものだと後悔するときがあります。……でも、天音ちゃんはいっつも楽しそうなんですよね。羨ましくなっちゃうくらい。ああやってバイタリティに溢れてる人だと、産みの苦しみなんてないんでしょうか」

「さあな。なにも考えてないだけじゃねえの」


 飯綱は黙って微笑むと作業を再開した。


 部室の中にはキーボードを叩くカタカタという音が静かに響いた。


 その日の午前いっぱいは編集作業。午後から撮影をはじめたが、準備が手間取って数十秒にも満たないシーンをひとつ撮ることしかできなかった。


 現状、撮影終了分は三割強といったところ。いまが九月末だから、来月の終わり頃になれば撮影は終わっているだろう。編集がどれだけ掛かるかわからんが、並行して作業を行なっているのなら、十一月の文化祭にはギリギリで間に合う計算になる。そこで客の反応を見て、十二月の《ゆうゆう国際ファンタスティック映画祭》に向けてさらに作品のブラッシュアップをしていけばいい。

時刻は午後の六時半。撮影終了後、片付けを進めるおれは頼りになる映画部連中を見回しながら、ひとり「いけるぜ」とほくそ笑んだ。


「ねえ。みんな、見て」


 ふと、鈴木がおれたちを手招いた。寄ってみれば、扇子フォンの扇面には一週間後の天気予報が映し出されている。どうやら来週の今頃は関東一帯を台風が襲うらしい。子どものころは台風なんて近づいてくるたびにワクワクしたもんだが、この歳になると〝迷惑〟以外の感情がひとつも湧いてこないもんだ。バイトがないから外に出なくていいぶんまだマシだが。


「台風かぁ。怖いよねぇ。家中がガタガタ〜ってさ〜」と鞍馬。これにメイクを落とした厳島が、「しんどい」と地の底まで落ちたテンションで続く。「上陸時予想が950hPaですか。この大きさだと、学校は休みでしょうね」と冷静に分析した松丸に、「松丸くん、家にいなくちゃ駄目ですよ」と注意したのは飯綱。


 いくら松丸がマヌケとはいえ、台風の時に外に出るような奴でもないだろうと思ったが、「もちろんです。スカートが風に吹かれて、女性の脚が見えるかもなんて期待して外に出るなんてことはもうやりません」と自信満々に答えた松丸を見て、コイツのマヌケは命がけなんだなと感心した。


「みんな、いっこ提案があるんだけど、いいかな?」


 扇子フォンを閉じた鈴木は、屈託のない笑顔で宣言した。


「クライマックスの台風のシーン、この日に撮ろうと思います!」

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