2章 その8
その日、妃織はいつもの元気がないままだった。
「女の子には情緒不安定の時が月一回くらいあるんです」
妃織はそんなことを言っていたけど、多分違う理由だと思う。金髪銀髪コンビが不仲になったわけを聞いた後から元気がないままなのだから。
週明けの月曜日には日本史の小テストがある。
僕は自分の部屋で小学生の頃から愛用しているスチール製の勉強机に座り明後日のテストに備えて日本史の教科書をおさらいしていた。
見ると聖徳太子の肖像画にある、手に持つものに矢印が描かれ『これ、ハリセン』と書かれてある。多分大石の悪戯だろうが今は笑える気分ではなかった。頭の中は元気がない妃織の事でいっぱいだった。
今日の夕食だって、僕が作ったカレーを言葉では「美味しいです」と言いながら、まるで砂を食べるような表情で口に運んでいた妃織。
僕にはどうしても気になることがあった。三日前。お弁当勝負が終わった日の帰り道。何度も『もしもの話』を繰り返しながら妃織が言ったことだ。妃織はこう言ったのだ。
「もしも妃織が実は身寄りのない子で、それでお兄ちゃんとは、実は血の繋がりなんか全くなかったのだとしたら、お兄ちゃんはどうしますか?」
いや、そんなことはないはずだ。それはもう妃織は母にそっくりなのだから。
目元、口元などの顔のパーツだけでなく、笑い方なんか凄く似ていると思う。親父の話だと、ちょっと無鉄砲で一度こうと決めたら猪のように突っ走るけど、機転が利いていつも相手を思いやるところなど性格もそっくりだそうだ。妃織は間違いなく母の子だ。身寄りがないなんて事はないはずなのだ。あの話は『もしもの話』であったはず……
どうにも勉強が進まない。時計を見るともう深夜の十二時を三十分も回っている。
僕は喉を潤そうと台所に向かった。僕と妃織の部屋は二階で台所は一階だ。
階段を下りると居間の電気がついている。妃織はもう寝ている時間のはずなのだが。
居間のドアを開けると3人掛けのソファに妃織が座っていた。
妃織の前には開かれた古い写真のアルバムが。
「あっ、お兄ちゃん!」
そう言うと妃織はその古いアルバムを閉じて僕を見た。その目は泣き腫らしたかのように赤い色を帯びている。
「ちょっと感傷に耽ってしまいました」
妃織は泣いていたことを隠そうともしなかった。
「ごめん。邪魔しちゃったかな」
「ううん、ここはみんなの居間ですから」
「アルバムを見ていたのかい」
「はい」
そのアルバムは僕と妃織が生まれてすぐの頃の写真を整理した、僕たち兄妹にとって一番古いアルバムだった。確か最初のページには三枚の写真が貼ってある。一つは生まれて半年頃の僕が父と写っている写真。二枚目は生まれたばかりの妃織が母に抱えられた写真。最後は家族全員で写った写真だったはずだ。
アルバムを見て、何か昔の事を、例えば妃織が大好きだった母のことを想い出していたのだろうか。
「お兄ちゃんは覚えていますか。お母さんがいつも言っていたこと」
妃織が下を向いたまま呟くように語りかけてくる。
「いいですか。
なりたい自分の姿を素直な心で考えなさい。
そしてそのために全力を捧げなさい。
全力を捧げれば必ず未来は微笑んでくれますよ…………
って」
そう言いながら妃織の大きな瞳から幾筋もの滴がこぼれ落ちる。
「わたしは全力を捧げていなかったのかも知れません……」
唇を噛みしめ独り言のように呟く妃織。
「ごめんなさい、お兄ちゃん。今日のわたしはへんですね。もう寝ることにします」
妃織はアルバムをガラス戸に戻すと居間の電気を消した。
「明日からは全力を尽くします。未来が微笑んでくれますように」
伏し目がちに僅かに微笑むと妃織は自分の部屋へと戻っていった。
2章 完




