機械になった、哀れな私（3）
シリーズ、三話目。読む前に前作を読むことをお勧めします。
「では、篠原さん。御機嫌よう」
「あ、うん。日直、お疲れ様。御機嫌よう」
職員室を共に後にしたクラスメイトは、一度会釈すると、そのまま颯爽と姿勢の良い背中を見せながら去っていた。
その気品漂う後ろ姿に、ほうっと息を溢すと私も帰ろうと、一度教室へと戻った。
（ってか、御機嫌ようって……）
まさかそんな言葉を素面で言う日が来るとは。
なんとも感慨深くて、嘲り交じりに笑ってしまう。
レッドカーペットが敷かれた広い廊下に、シャンデリアが吊るされた広い玄関、色とりどりの薔薇が咲き誇る校庭。流石お嬢様学校、と言ったところか。
私立神谷女学園――数多くの財閥や企業のご令嬢が通う、能力育成機関付属学園。超能力などの特殊能力を持った者を育成していることで有名な学園であり、また、東京でも三本の指に入る名門校、通称「三本指」の一校と称されるお嬢様学校でもある。
生徒数六〇〇人中、四〇〇名は超能力者であり、この中にはその能力によって入学を許された一般家庭の者たちも含まれている。
また、名ばかりのお嬢様学校とは違い、在学中にあらゆる分野において世界の上に立てる人材を作り上げる英才教育機関でもあり、カリキュラムや校則は厳しく、選択授業に宇宙事業やロボット工学に関する物が組み込まれていたりと、一般的な高校の授業レベルから何処か一脱している。
生活指導においても、基本的に外出時は制服の着用が求められたりと、その校則は厳しい。まあ、校則は破るためにある、とグレーゾーンに届くぐらいの違反を学園外で起こすお嬢様はいるが――。
かくゆう私も、制服の着崩しはしないが、偶に厳しすぎるルールを破ったりする。
「まあ、制服も可愛いしねぇ……」
正門へと足を進めながらチラリと、廊下の窓に映る自分を覗いてみる。
紅茶色の襟に、右胸に飾られた盾形のエンブレム。プリーツスカートは規定通りの膝丈の長さで、統一した上品な色合いを持ったセーラー服は、着る者全てに気品を与えていた。こんな私でも、白と紅茶色の制服のお蔭で良いとこのお嬢さんのように見えて何とも不思議な気分だ。
「ビバ、お嬢様設定……」
正確には、お嬢様学校に通っている一般の能力者と言う設定なのだが、それでも常人とは違っていて、私は満足している。
そう、この不思議な『夢』の中で、15歳へと若返った私こと、篠原樹は充実した日々を送っていた。
可愛らしい制服に、厳しくも優しいクラスメイト、意外と興味深い現代授業――苦に思うようなことは特になく、むしろ毎日が楽しくてしょうがない。
（でも、何より良いのは……）
ごそり、とスカートのポケットの中から生徒手帳を出してみた。そっと、それを優しく開くと中には、今時珍しい紙媒体の写真。数秒か、或いは数分か、一頻りそれを満足するまで見終えると、再びそれを懐に仕舞った。
とくとくと心臓が早鐘を打っているような‟錯覚”を覚え、自然と綻ぶ口元をそのままに、私は‟意中の相手”に会いに行かんと足を踏み出した。
♢ ♢ ♢ ♢ ♢ ♢ ♢ ♢
午後四時十六分。池袋三丁目――『三川茶屋』。
池袋と『裏袋 』の狭間とも言える中間地点に建つそれは、茶屋と言うよりは喫茶店に近い外装をしており、中も昔さながらのアンティーク基調を整えた内装だ。
ガラが悪いと評される『裏袋』とそう遠くも無い距離にあると言うのに、店の周囲からそのような気配は一切せず、むしろ一般の女性が足を運べるような清潔感を漂わせており、普通の喫茶店にしか見えない。
だが、私は知っている。この喫茶店に屯する者たちを、店員を、そしてそのオーナーの正体を――。
店に入れば、いらっしゃいませと挨拶をする好青年に席へと案内され、アッサムティーを注文する。
会釈してカウンターの奧へと戻る青年を横目に、私は窓際の席から店内を観察した。客は私意外にカップルが二人、女性が三人居る。カウンター席には‟何時もの連中”が座って、店員と談笑しているのが見えた
。
十七そこらの私と殆ど歳が変わらないスケボー少年に、ガングロのグラサン、スキンヘッド、キャップ、フードと明らかにギャングっぽい風貌の男たちは、不思議とこの店に溶け込んでいた。
だが、カウンターの奥で煙草を咥える背丈の高い男は少し浮き彫んで見える。
（伊吹さん……）
少しくすんだ紅色の髪をオールバックにした、強面の男性を目にして、ほうっと熱い吐息が漏らす。悩ましげな横顔は秀麗で、何時見ても飽きない。
伊吹士郎――実はこの三川茶屋のオーナーであり、名目上のマスターである。とは言っても私が見てる限り、仕事は殆どせず、自分の‟手下”である店員たちに全て任せているようだが。
さて、この男。何食わぬ顔で、普通に店で寛ぎ、普通にコーヒーを飲みながら仕事をサボっているが、実は『普通』では無い。否、まあ、見た目からして普通ではないのだが。
日本には世界をも揺るがすと言われる『七人の王』が存在する。
『紅の王』『蒼の王』『白銀の王』『漆黒の王』『黄金の王』『緑の王』『紫の王』、合わせて七人の『王』は、最強の超能力者と謳われ、それぞれ自分を中心とする勢力を従えているのだ。
この話の内容からして、既に大体のことを察せるだろうが、伊吹士郎はその七人の内の一人――『紅の王』である。
能力は発火能力、彼が放つその業火は何をも燃やし、都市一つを一瞬で跡形もなく焼き尽くせる程のものだと言う。
容姿は燃え上がるような炎髪と、獣のようにギラギラとした金色の瞳をしていると噂されているが、それは膨張しすぎだ。
現に髪は炎髪と言うより、ちょっと寂れた感じの暗い赤だし、目元だって確かに涼しげな釣り目で綺麗な金色だが、ギラギラしていないし、寧ろ気だるげだ。その色めかしい双眸で流し目をされたら、私は鼻血を噴く自信がある。いや、したくはないが。
（赤と金が似合っている、って言うのも……ポイントだよなぁ）
伊吹さんしかり、この時代には何故か日本人なのに赤、青、金、果てには緑、と派手でありえない髪色や目の色素を持っている人間が時々いるが、彼らは決して髪を染めてるわけでも、カラーコンタクトをしているわけでもない。紛れもなく、彼らの素なのだ。
では、何故純粋な日本人なのに、そんな色をしているのかというと単純に一世代前、『色変』と言うものが流行ったからである。
『色変』とは、何やら遺伝子操作をすることで髪色や目の色などを変えられる医療技術であり、何度も髪を染め直したりせずとも、永久に好きな色を保てることで学生を中心とした若い男女がよく使ってたそうだ。
唯、すぐに問題やリスクが発見されて、禁止されたらしいが。
まあ、そういうことで、今でも時々見かけるそういう派手な色持ちはどうやら、その「色変』をしてしまった親のものが遺伝してしまった者たちらしい。中にはその遺伝子問題が原因で病気になる人間も居るとか。
（……本当に、なんであんなにしっくりと合っているんだろう）
気づかれないようにチラチラと伊吹さんを見ながら、心の中で溜息を吐く。
大抵、日本人の顔に青とか桃色とか似合わなくて、始めは違和感を持ちまくってしまったのだが、伊吹さんの場合は何故かあまりにも似合いすぎて、自然と見惚れてしまった。
（何が違うんだろう……）
今では誰のでも見慣れてしまったから、派手な髪色を見ても別に違和感を感じなくなってしまったのだが、それでもやはり伊吹さんを見ると『違う』と思ってしまう。
（美形だからかな……いや、それでもやっぱり日本人の顔だし）
なんて思考しながら、私は何時ものようにコッソリと伊吹さんを観賞した。
「お待たせしました。こちらアッサムティーとアーモンドクッキーになります」
「あ、はい……って、あの」
目の前に置かれる小さなポット付きティ―セットを並べられて、私は困惑の色を示した。何故なら私は確かにアッサムティーを注文したが、クッキーまでは頼んだ覚えが無いからだ。
「何時もこちらをご贔屓にしてくださってるお客様への囁かな感謝の気持ちです」
「あ、それはどうも、有難うございます」
にこり、と笑う顔に恐縮して、ヘコへコと頭を下げてしまう。
（そうだよな。そういえば、私、ここ一週間毎日連続で来てるんだもんな。そりゃ、顔も覚えられるわ）
もしかして、伊吹さんも私のことを覚えてくれたのだろうか、とドキドキしながら一口お茶を啜った。
そう、“あの日”、伊吹さんに出会った翌日から、私は毎日そのご尊顔を拝みたいがために毎日毎日飽きもせず、この喫茶店に通っていたのだ。
（でも、やっぱり伊吹さんのことだし……あの顔は絶対に私のこと覚えてないね）
十中八九そうだろう。っていうか、一度もあの人の視界に入った覚えが無い。伊吹さんに『出会った』と言っても一方的な出会いだったのだから、覚えている以前の問題かもしれないが。
（やっぱり、来るだけじゃなくて、話しかけて、本格的にアタックした方が良いのでは……）
なんてちょっと妄想してみたりするが、段々と恥ずかしくなって、ニマニマと口元が勝手に歪み始める。そんな自分の表情を誤魔化すように、パクリとクッキーを一口頬張ってみた。と、言ったものの味はせず、食べた気がしないのだが。
（まあ、夢だし……仕方がないか）
『夢』にしては、随分と長くリアルな気がするのだが、そういうのも偶にあるだろう、と自分に言い聞かせてみる。というか、コレは夢なのだからいっそ玉砕覚悟で伊吹さんにアタックしてみれば良いのではないだろうか。
たらたらと、そんなしょうもない事を考えながら、次々へとクッキーの欠片を口に放り込んでいた時だった。
「美味しい？」
「……は？」
突然、話しかけられて呆けてしまった。声の主を探すように後ろを振り返ってみると、椅子の背凭を抱くように跨いで座る男が其処に居た。
薄い茶髪に儚げな印象を持つ優男。小首を傾げながら笑うその様は何処か親しみやすく、彼の大らかな人柄がに滲み出ているように見える。
（加々美、千寿……？ え、なんで？）
もちろん、私は彼のことを一方的に知ってはいるが、相手は面識が無いはずだ。
加々美千寿――『紅の王』が束ねる派閥『リベリオン 』唯一の非戦闘員にして、最大の‟穴”である幹部格。そんな人物が、何故自分に話しかけているのだろうか。
（もしかして、私がスト……いや、嗅ぎまわってるのがバレた？）
それは不味い。主に伊吹さん含むリベリオンのメンバーにストーキングまがいのことをしていると知られたら、警察へ突き出されるか、更に酷い仕打ちを受けるかもしれない。というか、それ以前に伊吹さんに気持ち悪がられて、社会的に死んでしまう。
それだけは、絶対に駄目だ。覚られてはいけない。内心冷汗をダラダラと流しながら、何とかニコリと笑い返してやる。
「はい、とっても」
「そっか、それは良かった。それ、実は僕が焼いた奴なんだよねー」
「え、」
――マジで？
味は分からないが、見た目は極上のそれを作ったのがこの男だと聞いて、少し驚いた。器用貧乏と言う奴なのだろうか？ いや、それとも私が知らなかっただけで、パティシエだったり？ というか、私の事、バレてない？
「君、何時も此処に来てるのに、ケーキ食べてるところ殆ど見たことないからさ」
「あ、すみません」
ケーキなど、食事の類は最初にその無機質さを噛みしめた時に、「もういいや」と思ってしまったのだ。食べても何も美味しくないし、楽しくない。それに、私は食事する必要がないのだから。
「いやいや、謝らなくて良いよ。甘いの苦手な女の子も居るし……それに、君は伊吹先輩で既にお腹が一杯になってたんでしょ？」
「ブッフォ……！」
予期せぬ発言に思わず、吹いてしまった。幸い、口には何も含んでいなかったので、汚物を吐き出すことはなかったが。まさか、気付かれていたとは。
まさかの図星に顔が一瞬で熱くなったような気がした。
「え、エスパー……？」
「は？ あははは！ いやいや、あれだけ熱心に毎日うちに来て、あの人のこと見てたらねー」
「え……」
今までの私の行動は、そんなに分かりやすかったのだろうか。一度も伊吹さんには話しかけていないし、恥ずかしい故に、目を碌に合わさず、ただ黙々とお茶をするようにしていたのに。
「あ、心配しないで。王様って、大体そういうことには鈍いし。俺も何となくそうなのかなーって、半分当てずっぽう、面白半分で聞いただけだから。あ、王様って、伊吹先輩の渾名ね」
「は、はぁ……」
『当てずっぽう』、『面白半分』。なるほど、この人は私の恋を面白半分に思ってるわけか。なんとも複雑な気分だ。そして、失礼な人だ。
「へー、でもそっかー。本当に好きなんだねー」
「え、いや……あの」
悪びれることもなく、むしろ瞳を輝かせて、直球な言葉を繰り出すこの男に、私は少しの気恥ずかしさと鬱陶しさを覚えた。
この人、今すぐにその記憶を消去してどっかに行ってくれないだろうか。デリケートな問題なので出来れば放っておいて欲しいのだが。
そんな私の居心地の悪さを感じ取ってくれたのか、先ほどの店員さんが戻ってきて、加々美の頭をお盆で叩いてくれた。
「あてっ……！」
「千寿さん、サボるならまだしも営業妨害しないでください。と言うか、こういう時にしか役に立たないんだから働いてください」
「壽くん、それは幾ら何でも言い過ぎじゃないかなー？」
「良いから、働け。お客様もほら、困ってるじゃないですか」
「……えー？」
叩かれた頭を摩りながら不満気な加々美。それを一睨みしながら、店員さんは頭を軽く下げてくれた。
「すみません。この人、普段からこんなもんで……」
「ちょっとー、こんなって何だよー」
ぶーぶー文句を垂れながら席を立つところを見ると、どうやら私を解放してくれるようだ。じゃあね、とウィンクをかましながら加々美がカウンターへと向かうと、店員さんが苦笑いをしながら再度会釈をして去っていった。
邪魔者を排除できたことにホッ、と安堵の息を溢すのだが、悲しいことにそれは私の早計だったらしい。
「王さまー、五番テーブルのお客様にポットのお湯、入れ替えたから持ってってー」
加々美の間延びした声が再度聞こえてきて、ドキリと心臓が跳ねた気がした。
彼の言う王様は間違いなく伊吹さんのことだろう。伊吹さん自身が直々に客に対応する機会は殆ど無く、その五番テーブルの相手が少し、いや、かなり妬ましくなった。
（……って、待てよ。五番テーブルって、）
スイ、と自分のテーブル番号を確認してみた。
「……ちょっ、」
――ちょっと、まてええぇぇぇぇ！！
思わず上がりそうになった悲鳴を咄嗟に口を押えることで、なんとか防いだ。だが、あまりの事実に口はパクパクと間抜けにも開いている。
『あの、ヒョロ男』と、我知らず加々美に対して悪態を吐いた。再度テーブルの上を確認してみれば、まだ中身が残っていたはずのティーポットが無くなっている。恐らく先ほど席を立つ際に、あの男がわざと一緒に片付けたのだろう。
嬉しいことには嬉しいハプニングだが、余計なお世話だ。まさかの好きな人との突然のファーストコンタクトに、当然心の準備は出来ておらず、私の頭は混乱している。
だが、そうこうしている間にも伊吹さんはポットを片手にこちらへと向かってきていて、私はどうすることも出来ず、情けなくも固まってしまった。
何処か気だるげで、憂い気な面差しに、軽く開いたブラウスの襟から覗く太く、長い首。視線が勝手にその色気漂う喉仏と鎖骨へと向かってしまう。それでふしだらな妄想をしてしまいそうになる自分は、軽く痴女だ。
（これは夢だ、妄想だ、幻想だ）
何度も何度も心の中でその言葉を繰り返しながら、必死に自分を宥める。
そうだ、これは『夢』だ。だから、別段気にすることなど何も無い。何か粗相を起こしたって、夢の中の出来事だし、別に問題は無いのだ。伊吹さんだって自分の『夢の中の登場人物』なのだから、別に特段自分の様子が可笑しくたって、自分に都合の良いように解釈してくれるだろう。
というか、そうだ。此処は夢の中なのだから、自分が念じれば事は自分の望むように動くのでは？
先ほどの加々美の行動だって、きっと、多分それは心の何処かで自分が望んでいたから、起きた訳であって――。
（よし……）
試してみる価値はある、なんて思った自分は、なんて愚かだったのだろう。
目の前で、「どうぞ」なんて声を掛けながら、ポットを置くその大きな角張った手を見て、そのコーヒーと煙草が入り混じった匂いを嗅いだ瞬間、自分の中の『理性メーター』が振り切れた。
「あの、」
「……あ？」
その金色の瞳の中に自分が映った瞬間、私はゴクリと唾を飲んだ。
「好きです」
しん、と静寂が空間を支配した。
ごとん、と誰かが何かを落とした音が聞える。気のせいか、周囲の視線が此方に集中している気がした。というか、結構はっきりと大きな声を発してしまったから、周りに聞こえてしまったのだろう。
頭の片隅でそんな思考をしながら、私は目上の彼から決して視線を外すことはしなかった。目の色は変わっていないが、口だけポカン、と開いているその顔は何時もより幼げに見えて、大変可愛らしい。食べちゃいたいぐらいに。
「……」
数秒か、或いは数分か。長い沈黙の末、誰かがごくりと喉を鳴らす音がした。
目の前の男は一度口を閉じて、その静かな双眸でこちらを見下ろすと、
「悪いが、興味ない」
「……」
――ですよねー。
夢だからと言って、そうそう自分の思い通りに事が進むわけが無く。寧ろ、自分は夢をコントロール出来ず、時々暴走させてしまうタイプなので、だからこんな結果になったのかもしれない。
――大丈夫。これは夢だから、私が傷つくことはない。
そう、心の中で呟いて、私はニコリと彼に笑みを返した。
「そうですか、すみません。突然」
「いや」
それだけ言葉を残して、彼は何事も無かったかのようにカウンターへと戻った。流石は『紅の王』、こんなことでは動じない。というか、彼が時々女性に言い寄られているのは知っているので、別に驚くことは無い。
折角持ってきてくれたのだから、とポットからお茶を注いで、カップを再び空にした。それから伝票を持ってレジへと向かう。
「ごちそうさまでした」
「あ、いえ……」
店員さん、もとい壽はしばらく呆けていたが、私の声で我に返り、慌てた様にレジを打った。
「360円になります」と言われて、携帯端末をリーダーに上に翳す。そうしてる間にも幾つかの視線と、何処か挙動不審の壽に気付いて、苦笑する。会計を澄ますと、再度「ごちそうさまでした」と言葉を残して、私は店を出た。
扉を潜る際、ちらりと後ろに視線を投げかけてみる。伊吹さんは流石というか、先ほどと変わらず、何事もなく火の点いてない煙草を咥えていて、その前に座る連中は私の視線に気づいたのか、サッと顔を逸らしていた。
そして、「ありがとうございました」と壽は慌てたように頭を下げていて、その隣で加々美はボケっと、ただ突っ立っていた。
――お前のせいだ、畜生。
その何とも言えない間抜け面に心の中で八つ当たりしながら、私は池袋を後にした。
♢ ♢ ♢ ♢ ♢ ♢ ♢ ♢
帰り道、電車に乗る気になれず、歩いて帰ろうと進み続けて数分。何故か零れ落ちそうになる涙を誰にも見られたくなくて、端末のナビを辿りながら人通りの少ない道を歩いた。
入り組んだ裏路地は『危険』とナビに忠告されるような道だったが、今の自分なら例え暴漢が現れたって捩じ伏せられる自信があるので、気にせず進むことにした。というか、そもそもコレは『夢』なのだし、危険は無いだろう。
「そうだよ……」
これは『夢』なのだから、別に問題は無い。
別に彼に告白のオーケーをされたって、夢から覚めてしまえばそんな事実も彼の存在も無くなってしまうのだから意味なんて無い。元の日常の中を生きていれば、忘れてしまう出来事なのだ。
（別に、泣いても意味ないし。問題ないし……ああ、そうか。早く、‟起きれば”良いんだ）
――そう思った自分は、なんて愚かなのだろう。
零れ落ちる涙を服の袖でゴシゴシ拭きながら、暗くなり始めた長い帰路を歩いていた時だった。
「ねえ、あなた。プレーヤー？」
「……え？」
愛らしいソプラノボイスに話しかけられて、私は振り向いた。
「こんにちは。私、今ゲームの相手を探しているのだけど、あなたプレーヤー？」
陶器のような白い肌に、甘やかな薄紅色の瞳。整った鼻筋に、程よくポッテリとした唇はバランスよく顔に配置されており、彼女の面差しを寸分の狂いも無く、美しく形成していた。瞳と同色の髪が、隙間風に靡かられる。
だけど、私はその美しい絹糸より、彼女の小さな肩に担がれた大きな、大きな、黒い金槌に目を奪われた。
――ああ。私は本当は心の何処かで気付いていたのだ。此処は『夢』ではなく、紛れも無い『現実』だと言うことに。
