自覚と決意1 Sideリュシアン
小さな湖を取り囲む白樺林の葉は黄色く色づき、緩やかな陽射しを受け、黄金色に輝いている。
湖は青く澄んだ空を鏡のように映し込み、水鳥が飛び立つとそこから波紋が広がって波打つように湖面が揺れた。
「リュシアン様。ご相談なのですが、しばらくの間、会話の練習をお休みしてもいいですか?」
放課後、いつものベンチでエミリーと顔を合わせると、予想外の提案をされた。リュシアンは内心落胆しながらも、顔には出さず平静を装う。
「理由を聞いても?」
「もうすぐ秋の定期試験が行われますよね。勉強に集中したいのです」
至極真っ当な理由に納得しつつ、少しでも接点を持っていたいという欲が頭をもたげた。
「そうだな。練習は一旦休もう。魔法については少しは役に立てるだろうから、困ったことがあれば遠慮なく声をかけてほしい」
「ありがとうございます。お気持ちだけ受け取らせていただきますね。リュシアン様にはこれまで十分に手助けしていただきました。リュシアン様にとっても大切な試験ですから、ご自分のために時間を使ってください」
柔らかな声色だが、頼るつもりはないという固い意思を感じて口を噤む。
彼女は春の陽だまりのように温かく、穏やかな空気を纏っているが、他人に流されない芯の強さを持っている。ここで食い下がったところで意見を変えないだろう。
「分かった。君の日頃の努力が実を結ぶことを願っている。お互い試験に向けて頑張ろう」
「はい。実は、リュシアン様のおかげで少しずつですが成績が良くなってきました。来年はAクラスを狙えるかもしれません」
「ああ、君なら十分可能だろう。応援している」
「ありがとうございます。リュシアン様の応援は、何より励みになります」
輝く笑顔を向けられ、鼓動が跳ねた。彼女の頭に手を伸ばしたくなったが、理性がそれを止めた。
恋人でも婚約者でもない女性に気安く触れるなどマナーに反する。過去に何度か彼女に触れたことがあったが、それは救助のためか、慰めや労いの心から手を差し伸べていた。
しかし、今は違う。これまで感じたことのない感情が湧いてきて、自分でも戸惑っていた。
(彼女に触れたい)
理由は分からないが、ただ純粋に彼女に近付きたかった。
「そうだ、試験が終わったら気分転換に行かないか? 秋祭りはどうだろう。多くの露店で賑わうし、散策するだけでも楽しめると思うが」
彼女と過ごす機会を増やしたい。だがそれ以上に、彼女の日々の努力を労い、そして自分が楽しませたい。そんな想いから提案すると、エミリーは気まずそうに口ごもった。
「どうした? 人が混み合うし、祭りは苦手だろうか。それとも他に予定が?」
「いえ、そうではありません。私も秋祭りを楽しみにしているのですが……」
珍しく歯切れの悪い様子が気掛かりで、少しだけ距離を詰めて彼女の顔を覗き込んだ。
「心配事があるなら話してくれないか? 以前伝えたように、オレはいつだって君の力になりたいと願っている」
真摯な面持ちで告げると、さぁっと風が吹いた。ひらひらと木の葉が舞い、若葉色の双眸が眩しそうに細められる。彼女を急かさずに待っていると、やがてゆっくりと口を開いた。
「実は、数名のご令息からお誘いがあったのです。婚約者探しをしている身としては大変ありがたいお話ですが、あまり気が乗らなくて……」
その時、鈍器で頭を殴られたような衝撃が走った。エミリーは、彼女を取り巻く様々な環境が原因で女性としての自信が持てないようだった。
しかし、リュシアンから見れば彼女はとても魅力的な女性だ。他の令息の目に留まってアプローチを受けても何ら不思議ではない。
彼女の婚約者探しに進展があったことは、友人として喜ばしい展開だ。それなのにリュシアンは素直に喜べなかった。胸に鉛が沈んでいくような不快感に襲われながら、エミリーを見つめた。
「先に申し込んだ者たちがいたのか。それで……返事は保留にしているのか?」
「はい。あまり長くお待たせするのは失礼ですし、数日中にはお返事するつもりです」
「ではオレも候補に加えてもらいたい」
考えるより先に口を開いていた。エミリーは虚を突かれた顔でこちらを見つめ返す。
戸惑わせている自覚はあるが、まだ相手が決まっていないのなら自分を選んでほしい――心からそう願った。
「前回の外出では情けなくも失態を演じたが、次こそ完璧にエスコートしてみせる。だからどうか、名誉挽回のチャンスをもらえないだろうか?」
視線を逸らさず切実に訴えると、エミリーは迷う素振りを見せた。
「身に余る光栄ですが、お申し出を受けていいのか分かりません。秋祭りをリュシアン様と共に過ごしたい女性は数えきれないほどいるでしょう。
それに最近は他の女性ともお話できるようになってきているようですし、婚約者候補の方と距離を縮めるまたとない機会を私のために使ってしまうのは……」
勿体ないという言葉を飲み込んだことは容易に想像がついた。彼女は自己評価が低い。だが、自虐めいた言葉で気を引く女性ではない。リュシアンを慮り、身を引こうとする慎ましやかな態度も好ましかった。
「婚約者探しのためには絶好の機会であることは承知している。しかし、それでもオレはエミリーと共に過ごしたい。
女性と会話が増えたといってもほとんどが挨拶程度で、世間話をするほどでもない。それほど親しくない相手をいきなり誘うのは正直気が重い」
「たしかに、これまで特別交流のなかったお相手を誘うのは勇気が必要ですよね。それにせっかくのお祭りですもの、気心の知れた友人と楽しみたいというお気持ちは共感できます」
口元に手を当て、ふふっと笑みを零すエミリーの愛らしい仕草に視線が吸い寄せられる。彼女の反応から、もう一押しすれば承諾してもらえるのではないかと期待が膨らんだ。
「ただ友人として楽しむだけなのが気が引けるのであれば、実践練習を兼ねるのはどうだろう? その日はエミリーを婚約者役としてオレにエスコートを任せてほしい」
「なるほど、実践練習ですか……」
エミリーはお人好しで責任感の強い性格であると認識している。それを逆手に取るずるい戦法だと思ったが、もうなりふり構っていられなかった。
「分かりました。リュシアン様のお申し出をお受けします」
「!! そうか、ありがとう!」
あまりに嬉しくて彼女の両手を握りそうになり、またも理性の発動に助けられた。せっかく色よい返事をもらったというのに、不躾な男だと嫌われたくない。
それからしばらくは、だらしなく顔が緩んで笑みが零れそうになるのを抑えるのに必死だった。表情筋を総動員したせいで顔面が筋肉痛になるかもしれないが、それでもかまわない。
「珍しく上機嫌じゃないか。何かいいことでもあったのか?」
生徒会室でヴィクトルの補佐をしていると、書類にサインをしていたヴィクトルがにやりと口角を上げた。
彼は人前では完璧な王太子を演じているが、二人の時や気心の知れた友人の前に限っては砕けた態度を取ってくる。無表情を貫いていたつもりだったが、長年の幼馴染である彼の目は誤魔化せなかった。
「エミリー……ブラン伯爵令嬢と秋祭りに行く約束をした」
普段なら適当にお茶を濁していただろう。けれどこの日は浮かれていた。ヴィクトルは心底驚いた表情でペンを止め、こちらを見据える。
「まさか、お前から誘ったのか?」
「そうだ。彼女からオレを求めることはない」
事実だが言葉にすると悲しくなった。はじめの頃は異性として期待を持たれないところに安心して心地よさを感じていたのに、最近はそれを物足りなく感じ始めている。
思えば、出会った時から彼女は眩しい存在だった。
情けなくもストレスで体調不良をきたしていたリュシアンを心配して声をかけてくれた。警戒心から素っ気ない態度で拒絶したにも関わらず、彼女は気分を害することなく、治癒の魔法をかけてくれた。
それからも、彼女に与えられる見返りを求めない優しさに何度も救われ、自分ではどうにもならなかった心のわだかまりがすっと溶けていくようだった。あれほど心優しく温かい女性を他に知らない。
(彼女はずっと特別だった)




