第180話 ここは地獄の入り口
ロングフェロー王国の首都クローネンブルク、王宮のすぐ隣に騎士団の本部がある。
時刻は夜中の1時、地下1階にある遺体の安置所。
ここには今回王都近辺を騒がせた魔獣事件の首謀者にして、大陸でも名の知られた凶暴な魔女ゼファー=アストラルの遺体が納められていた。
常時何人かが死体の調査などで詰めているその場所も、夜中ともなれば一人が当直でいるだけで警備も手薄だった。
地下の遺体安置所は石造りの壁に囲まれ、ひんやりとした空気が肌にまとわりついている。
天井から吊るされた油ランプが、風も無いのに小さく揺れ、壁に映る影が伸び縮みを繰り返す。
その度に革袋に納められた死体が、まるで動いたかのように見えた。
遠くの棚で、鉄製の器具がカチリと鳴った。
人の気配もないのに、冷たい金属音だけが闇に響き耳に残る。
まるでこの地下室そのものが、死者の呻きを漏らしているかのようだった。
机に突っ伏した当直の兵士は眠りに落ち、規則正しい寝息だけが静かに響いている。
だがその寝息ですら、場違いに思えるほどの異様な沈黙が空間を支配していた。
そこに、一人の男の影が立つ。
男はただ、わずかな時間"彼女"と話す時間が持てれば良かった。
「ごめんねゼファー。一歩間に合わなかったよ」
闇を裂くように、乾いた声が響いた。
革袋の前に立つのは、長身で金髪の男、ドラクロワ。
ランプの明滅に照らされ、翠色の瞳がぎらりと冷たく輝いた。
ゼファーの遺体が入った革袋を前に、ドラクロワは淡々とした口調で言った。
同僚の死を知ったのは、ここクローネンブルクに着くほんの数時間前のことだった。
彼女のことだから、また死体の偽装でもしたんじゃないかと思ったが、革袋の中は間違いなく本物だった。
胸から上は無かったが、体格や肌の質感、あとは服装も合わせて彼女だと断言できた。
「残念だよ。君の辛辣な暴言がもう聞けないと思うと、寂しくなるね」
その口元には、笑みすら浮かんでいる。
口調には悔しさも、悲しさも、怒りさえも無い。
ただ文章を読み上げるような、無機質な言葉だった。
「とはいえ、独断先行した君にも責任はあるからね」
聖獣を制御する兵器を売り付け、実地試験と資金の獲得を行っていたゼファーの行動は、少々やり過ぎだったと言わざるを得ない。
魔獣を無理やり聖獣に変える薬剤『聖赤薬』を開発したまではいい。
ただ、売り方が良く無かった。
適当に売り切ってトンズラすればいいとでも思っていたのだろうが、敵を作り過ぎだ。
あれでは長くは続かなかっただろう。
「全く君は、悪辣で、滅茶苦茶で……そして愛しいよ」
そんな彼女の破滅的な生き方も、ドラクロワは面白いと思っていた。
彼女がバルタザルに来て以来の付き合いだが、迷惑そうなところを誘ってよく飲みにも行ったものだ。
ドラクロワは決して他人に執着しない。
だが。
「少しだけやり返しておいてあげる」
それでも、同僚に対する情のようなものは理解できる。
ドラクロワはゼファーだったものが入った革袋を、そっと撫でた。
そして、翠の淡い光を放つかのような瞳を残酷に細める。
「セレスティア=フランシスカを、ちょっと苦しめておくのも面白そうだ」
ドラクロワは、ゼファーの死体に別れを告げた。
悪意の女を弔うのは、これで終わりだ。
ドラクロワは、革袋の中に彼女の好きだった煙草の箱を一箱入れた。
そして特に何の感傷も無く、踵を返して遺体の安置所を後にする。
そこには何も無かったかのように。
眠らせた兵士はあと数時間もすれば目を覚まし、つい居眠りをしてしまったと何事も無かったかのように日常へと戻るだろう。
エレナ=ドラクロワ。
彼はガウディスやゼファーと同じバルタザル国立研究所の研究員。
そして。
『翠眼の死神』として知られる最悪の殺し屋だった。
その彼が今、ゼファーに代わり新たなる刺客として解き放たれる。
―――
王都で過ごす最後の夜。
ティアはカフカ邸にて光信機を借りて、シゼルと連絡を取っている最中だった。
暗い部屋の中には窓から月明りが差し込み、光信機に取り付けられた光石が淡く室内を照らしている。
「そういうわけだから、フレジェトンタに寄ってからウィルブロードに向かうよ」
ティアはテーブルに置かれた光信機の前で足を組み、椅子に座っている。
本来ならば最短でウィルブロードに戻りたいところではあるが、フガクたちの事情も分かる。
どうせ通り道から少し逸れるだけなのだから、多少の寄り道は構わないだろう。
「かしこまりました。ティア様の復讐の一つが果たせたこと、お慶び申し上げます」
ザラザラとした音質の奥から、朗らかで包容力を感じさせる女性の声が聞こえる。
ウィルブロードにてティアと連絡を取るのは、いつも声の主シゼルの役目だった。
シグフリードと共に旅の支援をしてくれており、頼れる本国の仲間だ。
「やめてよ。私はとどめをさせなかったし、フガクがいなかったら危なかった。全然上手くなんていってない」
ティアはため息をついた。
今回は本当にヒヤッとした。
アストラルの話の通じなさというか、人間としての破綻具合は想像の域を超えていた。
話し合いの余地も無いとはまさにあのことだ。
フガクが助けてくれなかったら、あと1秒遅れていたら、本当に命を落としていたかもしれない。
今思い出すだけでも、ティアの背筋には冷たい感覚が走っていく。
そして同時に、フガクのことを思い出す。
雷を纏い、まるで天から降り立つように救いの手を差し伸べてくれた彼のことを考えると、今も胸の奥から高揚してくる。
ティアは自らの胸の前で、手をギュッと握ってその鼓動を確かめるように目を閉じた。
その胸の奥に灯った炎は、鉄の枷となって自分を縛り、答えの無い地獄へと引きずり込んでいくものだ。
逃げたいのに、逃げられない。
そして逃れようとするたびに痛みだけが、鮮やかに残る。
「失礼いたしました……ティア様何かありましたか?」
「……え?」
ティアはドキリとなった。
自分の中で起こりつつある変化を、顏も見えない場所にいるシゼルに看破されたことに驚いた。
「別に……何もないけど?」
「そうですか。それであればいいのですが、少しお声に翳りがあるように感じたもので」
「う、うん……」
鋭い。
ティアは嘘をついた。
本当はあるのだ。
フガクが来てくれたあの瞬間から今に至るまで、胸の中にある心臓の高鳴りが止まらない。
その音は、教会で響く鐘の音のように高らかに、自分の中で鳴り響き続けている。
だがそれは祝福なんかじゃない。
冷たく、逃げ場を与えず、静寂を破るたびに”地獄の鐘”が打ち鳴らされる。
ミユキに「フガクをちょうだい」と言ってしまったこと。
祝勝会のとき、思わずフガクの袖を掴んでしまったこと。
全部、本当は分かっていることだった。
いつからだったのだろうか。
初めて一緒にミューズと対峙したときから?
「地獄の底まで付き合う」と言ってくれたときから?
胸の奥に灯ったこの熱が、これまでになくティアを苛み続けている。
だけど駄目だ。彼は、ミユキを選んだんじゃないか。
二人の背中を押したのは、焚き付けたのは誰だ。
他ならぬ自分だったはずだ。
ティアは額を掌で押さえ、俯き目を伏せる。
だけどこの高鳴りが、もう抑えられない。
「ティア様……? 大丈夫ですか?」
シゼルの声に、ティアはハッとなって我に返った。
「ごめん、何でも無いよ」
「本当に?」
「……」
ミユキに偉そうなこと言っておいて、自分はこのざまだ。
――これからも、私の隣にいてくれる?
あのとき、何のつもりでそう宣ったのか、ティアは己の発言を思い返して顏が熱くなるのを感じた。
「……大丈夫だよ。心に仮面をつけるのは得意なんだ。あなたが教えてくれたんでしょ、シゼルさん」
フガクはミユキを選んだ。
その事実は変えられないし、変えたいとも思わない。
だけどこの胸に灯った熱を、誰かどうにかしてほしい。
自分でも抑えきれないほどの衝動と熱量が、どうか”彼ら”に気づかれないように。
自分はきっと今、もう一つの地獄へ足を踏み入れてしまったのだ。
―ロングフェロー王都編 了―
お読みいただき、ありがとうございました。
これにて第5章完結となります。
次章は12/14 22:10より開幕です。
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