第156話 覚悟の怪物
「―――私がフガクもらってもいい?」
ミユキは言葉を失った。
ティアの瞳の奥には、背筋が凍るほどの怒りが見えた。
怒りの対象は、自分だ。
人生を捧げて復讐に邁進する女の、憎悪と怨念の深さを垣間見た気がした。
なんで?とミユキは思った。
彼女は、自分のことを焚き付けに来てくれたのだと思っていた。
感情を吐き出させるようなことを言って、「スッキリしたね、あとは頑張ってね」と背中を押してくれるものとばかり。
しかし、どうやら違ったようだ。
声の出ないミユキに、ティアは追い打ちをかけるように言葉を続ける。
「さっきのアレ何。”私なんかといるより良い人生に決まってる”ってやつ。あれフガクに言ったら結構怒ると思うよ。”なんでミユキさんが僕の幸せを勝手に決めるんだ”って。しばらく口も聞いてくれないかも」
ミユキはハッとなってティアを見つめる。
確かにそうだと思った。
人の気持ちを勝手に決めつけて、彼にはこっちの方が合ってるなんて、言われたら嫌に決まっている。
そんなことも分からないくらい、自分は頭が真っ白になっていたのかと。
ティアの怒りの原因もそこにあるように思えた。
ミユキは何も言えず、ただ彼女の言葉を聞くことしかできない。
「……フガクは普段あんなだけど、色んなこと考えてるし、馬鹿じゃない。ミユキさんがいらないなら、婚約なんかさせずに私がもらう」
「そ、そんなのフガクくんの……」
「気持ち? それを一番考えてないのは誰よ。だったら、私にフガクをちょうだい。私のこと理解してるし、きっと最後まで旅に付き合ってくれる」
ティアの仮面の微笑からは、本音が見えてこない。
本当にそうするつもりなのか、あるいは卑屈な妄言を垂れ流している自分を叱咤するためなのか。
「……フガクが望むなら、恋人みたいに振る舞ってもいい。私は復讐の旅を続けながらでも、フガクに人並みの幸せや愛情を与えてあげられるし。他にこんな風に思える人なんてこの先出会えるか分からないから――」
ティアはミユキに顔を近づけ、眼を見開いてミユキを眼球の中に捉える。
吐息がかかるほどの距離で、怯えたように声を失う自分の姿が、ティアの瞳の中に映っていた。
「――ミユキさんがいらないなら、私がもらっちゃうけどいいよね?」
ミユキは、選択を迫られていると思った。
ティアの言葉が本気かどうかは分からない。
だが、ここで「フガクを譲る」なんて言おうものなら、本当にそうなってしまうくらいの気迫は感じた。
それくらいティアは、先ほどの発言に怒っているのだと。
ミユキは想像する。
ティアと恋人同士のように振舞うフガクを。
ミユキは昨日、フガクと王宮の庭園を歩いていたときの言葉を思い出した。
――女性は”私だけ特別”って思われたいものなのです
それは、彼のエスコートに気を良くした自分が吐いたただの軽口だ。
だが、彼の”特別”が、自分以外の人だったら。
そう考えたとき、ミユキの両目からは自然と涙が溢れていた。
「……嫌」
「え?」
ポツリと漏らした呻くような声に、ティアは首を傾げる。
ミユキは目に涙を溜めながら、おそらくティアと出会ってから初めて、真っ直ぐに彼女を睨みつけた。
「嫌です……たとえティアちゃんでも、フガクくんを取られたくありません……!」
喉が擦り切れそうなほど痛む。
その言葉が口を出た瞬間、自分の声とは思えなかった。
喉が焼けるように熱く、頬を伝う涙がやけに冷たかった。
吐き出す声は、驚くほど震えていたが、それでもはっきりと世界に向けて放たれた。
「……へえ、ノルドヴァルトで言ってなかった? フガクにはティアちゃんみたいな人こそ相応しいって」
「言いました……でも、嫌です」
「悲劇のヒロイン気取るのはさぞ気持ちがいいでしょうね。そんなことないよって、フガクは慰めてくれる。それに巻き込まれてるフガクが可哀想だね」
ミユキは何を言われても、ティアから目を逸らさない。
ティアのことは信頼しているし、大好きな人だ。
それでも、絶対に譲るつもりはない。
「分かってます!……だけど嫌なんです。ティアちゃんには、あげません」
子どものワガママみたいだなと、ミユキは我ながら感じていた。
だが、ティアにギリギリまで追い詰められ、精神を吐露する他なくなると、ボロボロと心の中の本音が噴出してきた。
やだやだやだ!と駄々をこねるように、ミユキは頬を膨らませてティアをまっすぐに見据えている。
自分が、自分”だけ”が、彼の”特別”でいたいという、これまでになかった独善性が顔を覗かせていた。
「イヤイヤって……子どもじゃないんだから」
「嫌だから嫌なんです……! 私の大事な人を……誰にも渡したくない!!」
語彙力がどこかに吹き飛んでしまい、ミユキは「嫌」を吐き出す機械のようになっていた。
毒気が抜かれたように、ティアは困惑の表情は浮かべる。
「……」
「……」
見つめ合う二人の双眸。
ミユキは目に涙を溜めたまま視線を逸らさない。
そして次の瞬間、ケロリと表情を変えてティアが笑った。
「そ。じゃ、そういうことで」
「……はい?」
ミユキもポカンと口を開ける。
急な態度の豹変に、もう頭の処理が追い付かない。
先ほどまでの恐ろしい表情は鳴りを潜め、ティアはいつもの穏やかでシニカルな彼女に戻っていた。
「どうせなら”私が一番フガクのこと好きだし、フガクの一番は私なの!”くらい言ってほしかったけど、まいいや。あと自分で何とかできるでしょ?」
「え? え? ティアちゃん、まさか私のために……?」
そう言ってティアは踵を返して屋敷の中へと戻ろうとする。
やっぱり自分のことを焚き付けるために来てくれたのだろうか。
あまりの落差に、ミユキは理解できなかった。
「んー……」
ティアはこちらに背中を向けたままで、その表情は見えない。
だが、この豹変ぶりはそういうことなのだろうか。
「もちろんそうだよ。じゃ、あとは自分たちでうまいこと仲直りしてねー」
最後には顔をこちらに向けて笑みを浮かべ、ティアはヒラヒラと手を振りながら去っていった。
その背中を見送りながら、ミユキはホッと胸を撫でおろす。
どうやら自分の選んだ答えは間違っていなかったようだ。
だが、ミユキの胸にはどうにも引っ掛かりが残った。
――本当に、ティアは自分を焚き付けるために「フガクをもらう」と言ったのだろうか。
仮面の微笑に隠されて、ついぞティアの本音は見えないままだった。
しかし今ミユキの中では、荒療治で自覚させられてしまった恋心の余波が、濁流のように押し寄せてきて胸を焦がしていた。
自分の言った言葉の恥ずかしさに、今すぐ部屋のベッドで枕に顔を埋めてバタバタしたい気分になるほどに。
今夜はきっと眠れない。
ミユキは、もう元の関係には戻れないのだろうなと、フガクに想いを馳せた。
―――
「あー! やっちゃったッッ……!」
ティアは部屋に戻るなり、ベッドに飛び込んで頭を抱えた。
枕に顔を埋めて足をバタバタやっている。
ミユキに対してかなり酷いことを言った。
正直、最初はミユキがグズグズやっていたので、ちょっと焚き付けてやろうと思った程度だった。
フガクの婚約話に、二人とも何だか煮え切らない態度を取っていたので、若干イラっとしたのもある。
どうせあなたたちは収まるところに収まるのだから、ウダウダやってないで二人でどうにかしてと思った。
ただミユキが思い詰めていそうだったので様子を見に行ったところ、思いのほか自己否定の真っ最中だったのだ。
元々ミユキはその生い立ちのせいもあってか、自己肯定感が異様に低い。
だからフガクくらい全力で持ち上げないと、良くない方向にメンタルのスイッチが入ってしまう悪癖があった。
今回はフガクがその原因の当事者なので、自分がやるしかないかとティアが赴いたのだ。
(私悪くないよね……? あんな言われ方されたらさすがに……いややっぱ悪いか。言い過ぎだ)
最初はミユキの気持ちをはっきりと自覚させて、自分の想いに正直になってもらおうと思っていた。
だがきっかけは、ミユキの些細な一言だ。
―――そんなの私といるより良い人生に決まってるじゃないですか!
その言葉を聞いたとき、ティアは目の前が真っ白になった。
フガクの気持ちをまるで考えない自己否定に、ティアは出会って初めてミユキに牙を向いた。
何でそんなこと、あなたが決めるんだと。
ただ、あそこまで言わなくても良かったかもとは思う。
彼女は子供の頃から命を狙われ続け、逃げ続ける日々を過ごしていた。
フガクを大事に思うからこそ、先の見えない自分と一緒にいるよりも、目先の幸せを望んでほしいと思ってしまうのはそんなに不自然なことじゃない。
けれど。
「……運命を共にするって、そういうことでしょ」
ティアは仰向けになり、天井に向かってポツリと言葉を投げかける。
彼女達は誓ったはずだ。
一連托生、重なった運命を共にする約束を。
それは、目の前の幸福に背を向けても、必ず信念を全うするという"覚悟"の話だ。
「今より良い道が見つかりそうだから、あなたはそっちに行ったらどう?」なんて、そんな甘い話があるか。
ミユキよりもフガクの方が、よっぽどその覚悟ができていると思った。
だから、ミユキに問うたのだ。
(本当に、それだけだよ……ミユキさん)
ティアは仰向けになって天井を見上げる。
あの『神域の谷』で絶叫をあげた自分を救ってくれたフガクとミユキ。
二人がこんなところで降りることを、自分は許さない。
彼女たちを引きずってでも、旅の果てまで連れて行く。
それが自分の義務だと誓ったからだ。
そんな生半可な覚悟なら、フガクを私にちょうだい。
ティアは僅かに顔を覗かせた自らの気持ちにも、仮面を着けて覆い隠した。
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