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第二十六話 孤独に囚われた姫君

 ブリジッタ・ベルナドットは、生まれながらの孤児ではない。

 彼女が生を受けたのは、ヨーロッパの小国でのことだった。

 両親が最低位ながらも、貴族であったため、特に食べるのに困るでもなく、どちらかといえば裕福な生活をしていた。

 彼女の両親も、貴族特有のプライドの高さを除いては、普通の人たちだった。

 それゆえ、ブリジッタはごく一般的な親の愛情を受け、幸せな幼少期を過ごしてきた。

 転機がやってきたのは、彼女が五歳の誕生日を迎えた直後のことだった。

 屋敷にいたはずの彼女が、忽然と姿を消したのだ。

 彼女の両親は当然慌てた。使用人たちを使い探して回ったが、見つけることはできず。

 三日後、ブリジッタは遠く離れた森で見つけられた。

 子どもの足で行くには遠すぎる場所、両親は当然、大人による連れ去りを疑ったが、当のブリジッタ本人は、自分の足で歩いて行ったと主張して譲らなかった。

 それ以来、彼女の両親は、ブリジッタから目を離さないよう、使用人たちに命令するようになった。けれど、どれだけ注意をしていようと、ブリジッタは姿を消しては、別の場所に現れるということを繰り返した。

 それは、まるで、子どもがかくれんぼでもするかのように。

 無邪気な少女にとって、大人が、特に忙しい両親が自分に注目してくれるというのは、たまらない魅力だったのだ。

 けれど、そんな娘の感情を理解するには、彼女の両親はいささか頑な過ぎた。

 古くからの常識にとらわれた両親にとって、娘の奇行は、いつしか恐怖へと変わっていった。

 彼らは、徐々にブリジッタを遠ざけ、屋敷の彼女の部屋に閉じ込めるようになった。

 無論、三次元的に閉じ込められても、ブリジッタにとっては何の意味もない。

 むしろ、新しい遊びかと思った彼女は喜んで部屋を抜け出して、両親の前に現れて見せた。

 それが決定的となった。

「どう? パパ、ママ、すごいでしょ? わたし、こんなことできるんだよ?」

 そう微笑む娘に両親が向けたのは、隠しようもない恐怖の視線だった。

 求めていた笑顔が返ってこないばかりか、ひきつった顔をする両親を見て、ブリジッタは、自分が間違えたことに気付いた。

「ごめんなさい、パパ。わたし、おとなしくしてる。だから……」

 その日から、ブリジッタは両親の言いつけには決して逆らわないようになった。

 彼女が閉じ込められたのは、古い時代、表に出せない家人をかくまった場所。

 牢獄と呼んでも差し支えのない、窓のない薄暗い部屋だった。

 少女がいるには到底ふさわしくもない場所だったが、ブリジッタは我慢した。

 自分から出ることは決してせず、両親が来てくれるのを待つことにした。

 親への従順な態度、けれど、それは、あまりにも遅すぎた。

 両親にとっては、すでに、一人娘のブリジッタはよくて厄介ごとの種、悪くすれば化け物そのものだったのだ。

 それは、屋敷に務める使用人たちも同じだった。

 ブリジッタは、一人ぼっちになってしまった。

 時折、顔を合わせるのは食事を運んでくる使用人だけだったが、その時間も、ブリジッタを恐れて会話など一切ない空虚なものだった。

 部屋から出られない日々が数か月になり、一年、二年を超えた頃のこと……。

 破局は、唐突に訪れた。

 その日、ブリジッタは、屋敷が騒がしいことに気が付いた。

 首をかしげはしたけれど、部屋から出ることはしなかった。

 勝手に部屋から出たら、きっと怒られるから……。

 言いつけを守って、いい子にしていないといけない。

 だから、彼女は部屋にこもり続けた。

 ……その日から、食事が運ばれなくなった。

 それでも、彼女は我慢した。

 父が、母が、明日来てくれるかもしれない。いや、もしかしたら、今日、あと一時間もしたら来てくれるかもしれない。

 言いつけを破るなんてできない。

 幸い、水道は通されていたから、脱水症状になることはなかった。

 空腹も、多少はそれで紛らわすことができた。

 そうして、待って、待って、待ち続けて……。一週間。

 体力の限界を迎えようというところで、唐突に、部屋のドアが開いた。

 だけど、そこに立っていたのは、ブリジッタが待ち続けていた人たちではなかった。

 黒服に身を包んだ大人たちは、彼女に、待ち人が永久に来ないことを告げた。

 交通事故という、ごくごくありふれた事情によって、ブリジッタは永遠に両親の愛を失ったのだ。


「わたくし……、幽霊は怖くないですわ」

 ぽつり、とつぶやくような言葉で、ブリジッタの過去語りは終わった。

 体育座りのようにして、膝を抱えて床に腰をおろしているブリジッタ。きゅっと曲げた華奢な脚を抱き締めるようにして、体を小さくする彼女は、いつもよりさらに幼く見えた。

そのすぐ隣で、一輝はなにも言えずにいた。

 ブリジッタが怖いもの、幽霊は怖くないという彼女の怖いもの、それは……。

 ――彼女が恐れるのは、一人にされること、か。

 先ほど、明かりを消されたときに取り乱したのも、置き去りにされると思ったから。あるいは、閉じ込められた部屋を思い出したからだろうか。

 彼女にとっては幽霊とは、むしろ、親しい存在なのだ。それがもし存在しているなら、彼女は、自分が求めてやまない人たちに会うことができるのだから。

 ――そうか、もしかすると……。

 一輝は不意に気づいてしまう。

 ブリジッタのどこか偉そうな言葉遣い、気位の高い勝気な態度、それはもしかすると、両親が大切にしていた貴族としてのプライドを、彼女なりに体現しようとしているのではないか、と。

 それを両親との繋がりとして、か細いながらも絆として、彼女が支えにしているとするならば、それは……、なんて悲しいことなんだろうと。

「話がズレてしまいましたが、鳩ノ巣司令を亜空間に引きずりこんでしまったのは、わたくしの責任ですわ。船が亜空間に堕ちたのも、おそらくそのせいです」

 そこで、ブリジッタは立ち上がり、そっと頭を下げる。サラサラの髪が滑り落ち、普段より青ざめて見えるその頬を彩る。その幼い唇はかすかに震えているように見えた。

 彼女にとって、次元感覚失調症は、拒絶の象徴だ。

 ほかの少女たちの場合、魔力は、内に秘めた才能であって、それを使ったがゆえに疎外されたということはなかったらしいが、ブリジッタの場合には違う。

 その特異な言葉は彼女と両親との間に深刻な溝を作り、幼い少女を孤立させたのだ。

 ゆえに……、

「申し訳ありませんでした。罰は、後でいかようにも受けますわ」

 彼女がまとう光が、不安定に明滅していた。

 感情の波を表すように、弱々しく、怯えたように……。

「いや、そんな必要はない。部下の能力を把握しきれてなかった俺にも責任がある」

 軍事的に言えば、それは、部下の失敗を許すという寛容な言葉。

 されど、彼女の心に響くものでは、到底なくって……。だから、

「ありがとうございますわ、鳩ノ巣指令」

 ブリジッタの言葉はどこまでも固く、平坦だ。

 普段の勝気な笑みも、輝くような鮮烈さも、今の彼女からは失われているように見えた。

「では、まいりましょう。元の次元に。早く調査を済ませて皆と合流しなければ……」

 小さな手が、自らの手に触れた。引かれた手を、逆に引き返して、一輝は口を開く。

「なぁ、ブリジッタ、俺は……」

 なんと言葉をかければいいものか、心に迷いが生まれる。

 ブリジッタはすでに一人ではない。

 彼女には大切な仲間があって、もう、彼女は一人ではない。にもかかわらず、目の前にいる彼女は酷く心細そうに見える。

 ならば、どうすればいいのか……。

 答えは容易には出ない。一輝には、彼女の両親の代わりはできないのだから。

 だけど、それでも……、

「俺は、いつ、どんな状況であったとしても君の味方だ。君が大人になって、将来、好きな人ができて、送り出す日までは、無条件に君たちの味方になると約束する」

 結局のところ、それは、父親の真似事でしかないのだろう。

 娘が花嫁として、愛する夫のもとに嫁ぐまでは、自分が身命を賭して守り抜くという誓い。それをもって、せめて、彼女が安心してくれればいいと、ただそれを祈るしかできない。

 いつでも、彼女が失敗しても、うっかり次元の壁を破ったとしても……何があっても見捨てないし、置き去りにはしない、と。

 そう約束をするしか、結局はできなくって……。

 一輝の言葉を聞いて、ブリジッタはきょとん、という顔をしていた。直後、その顔が……、しかつめらしい表情を浮かべて、

「もしかすると、今のは、非常に婉曲な愛の告白、だったりするんですの?」

「……は? いや、いやいやいや、違うから!」

「ふふ、冗談ですわ。司令。そんなに慌てないでくださいませ」

 おかしそうに吹きだした。口元を押さえてしばらく笑って、目じりに浮いた涙を軽く指で拭ってから、

「そうですわね……、そこまで言っていただけるのでしたら、一つだけ、わたくしのお願い聞いていただけるかしら?」

「お願い?」

 首をかしげる一輝だったが、

「ああ、構わないよ。俺にできることだったら、なんでも言ってくれ」

「では……」

 小さくつぶやくように言って、ブリジッタがステップでも踏むように体を寄せてきた。

「……え?」

 次の瞬間、ぽすっと、ブリジッタの頭が一輝の胸に当たっていた。

 預けられた華奢な体を、とっさに体で受け止める。

「しばらく、このままで……」

 背中に回された細い腕、言葉とは裏腹に、その腕に力がこめられる。

 突然のことに、事態を把握しかねていた一輝だったが、すぐに彼女が求めているものを察する。

 彼女が求めているのは、要するに、人のぬくもり。もっと言えば、父親に抱きしめられること。

 ならば、その真似事を宣言してしまった一輝にできることは、一つだけ。

 そっと、少女の小さな頭に腕を添える。そうして、優しく撫でるようにして、抱きしめる。

 もう片方の手は、彼女の背中に。

 水着姿の少女の背中は、当然のごとく素肌で、それを撫でることはいささか以上にハードルが高いことではあったけれど、意を決して、一輝は手のひらを当てる。

 すべすべとした、少女の繊細な肌の感触をおぼえつつも、落ち着けるように、さするように、手のひらを上下に動かす。

 ブリジッタの体を覆う魔力の輝きは、いつの間にか穏やかなものに変わっていた。

「……まさか、わたくしが紗代のライバル候補になるとは思っておりませんでしたわ」

「ん? 何か言ったかい?」

「いえ、なんでもありませんわ。お気になさらずに」

 そう言って、ブリジッタはギュっと抱きしめる腕に力をこめるのだった。


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