第10話 国境の街で働く②
新しい洋服の注文を完了して仕立て屋を出た柊と楓は、十五分ほど歩いて簡易宿泊施設に入った。その裏手には、天然の温泉がある。
こちらの世界で温泉に浸かるということは、温かいプールに入るような感覚で、日本人のように体を洗ったりする場所ではない。だから水着着用で、裸で入るという習慣はなかった。
温泉目当てに長期間滞在している泊まり客も多く、二人はこの街に来てからずっと宿泊している。常に人目があり、刺客対策には都合が良かった。
簡易宿泊施設は連泊する場合でも、その都度受け付けをしなければならない。こちらの世界では前払いが原則だから仕方がないとは思うのだが、毎日荷物を持って歩くのは大変だ。
宿で荷物を預けると、二人はすぐに水着に着替えて温泉へと入る。水着はこの街へ来てから買った物なので、露出度は低かった。
男湯、女湯という概念すらなく、広大な岩風呂が一つあるだけだ。他の泊まり客と一緒にお湯に浸かっていると、柊の頭の上にはメイプルが乗っていた。
実態のない精霊でも、メイプルの姿の時は洋服を着ている。ワンピースのようなヒラヒラとした衣装で、それも柊の妖精に対するイメージから来ている物だ。
頭の上に乗っているから柊には見えていないし、物理的な質量もないから重さは感じない。ただ、精神的なエネルギーを消費するので、メイプルが可視化したという感覚だけはあった。
「別に用がなくても、見えるようになるんだ」
柊と楓にしか見えていないから、他の人には二人が会話しているように感じるだろう。
「あんたは私が、ヒイラギの意志に従ってると思ってるでしょう」
「え、違うの?」
「違うわよ。ヒイラギの精神的なエネルギーで可視化してるのは間違いないけど、立場は対等だし守ってあげたのは私か好意でやってあげたことなんだからね」
「へえ、そうなんだ。それじゃ、私とも立場は対等だってこと?」
「立場は対等だけど、好き嫌いとは別の話しね」
「なんか今、ちょっとイラっとした」
その話しを聞いて、柊は何か思い付いたようだった。
「この辺りには樹齢千年以上の大木がないから、人外が来ても分かるのはメイプルだけだからな。楓の精神エネルギーと交代できれば、情報が共有できて便利かも」
「えーっ!、ヒイラギじゃなきゃ、やだぁ!」
「なんか腹立つな、この精霊…」
メイプルの口が悪いのは、最初に可視化した時に柊がそんなイメージを抱いてしまったからだ。その姿や言動は、柊の想像力によって成り立っている。
楓にもそのイメージがすり込まれているので、見えているということは、その精神力を使って可視化することも無理ではないと柊は思った。
「ちょっと、やってみてくれないか?」
メイプルはあまり乗り気ではなかったが、すぐに姿を消した。そして、次に姿を現したのは楓の頭の上だった。
これで、柊と楓が直接会話が出来ない状況でも、メイプルを通じて意思の疎通が出来る。そう思っていたら、すぐに柊の方へ戻って来た。
「やっぱり、ヒイラギがいいよぉ!」
「なんか腹立つな、この精霊…」
楓はそう言っているが、いざとなればメイプルの指示も聞いてくれるだろう。それだけで状況は、かなり変わるものだ。
会話をしている間にのぼせてきたので、柊はお湯から出て岩風呂の縁で涼んでいた。でも、楓はまだ平気な様子でバシャバシャと背泳ぎをしている。柊が非力なことは比べるまでもなく自分で分かってはいたが、暑さや寒さに対する耐性にも違いが出ている。
エルフというのは最弱人種だなと思うと、他人の体を奪おうとする気持ちも分からないではなかった。
「お嬢ちゃん達は、変わった組み合わせだねえ」
先に涼んでいた泊まり客に声を掛けられた。相変わらずメイプルは頭の上に乗っているのだが、柊と楓以外には見えていない。
六十歳くらいの男性で、その泊まり客を見て柊はゲイルを思い出していた。エルフは長寿だからゲイルは実際にはもっと高齢なのだが、見た目は同じくらいだ。
ゲイルは人外に襲われなかっただろうか。それを確かめる術はない。ただ、無事を祈るしかなかった。
「おじさんは、遠方から来たんですか?」
「東方から隣国を経て、ここへ来たんだよ」
東方と聞いて、何か情報が得られるかもしれないと思った。ただし、詮索し過ぎて怪しまれないようにすることを忘れてはいけない。
「東方って言えば、黒髪の剣士って聞いたことありますか?」
「ああ、黒髪の剣士と言えば、かつてはエイサーデル王国の英雄と呼ばれた男だな。その後は、どうなったか知らんが」
「え、それって、いつ頃の話しですか?」
「数年前だと思うが、当時はエイサーデル王国には居なかったのでな。詳しいことは知らんのだよ」
「あ、大丈夫です。ちょっと小耳に挟んだだけですから」
黒髪の剣士の話しが百年も二百年も前のことなら、情報として意味がない。そんな、お伽話は何処にでもある。しかし、それほど昔の話しではないとすれば、本人に会うことが出来るかもしれない。
柊の体を奪った時、エルフの少女は黒髪の体が必要だと言っていた。エルフと黒髪はどちらも希少な種族だが、柊と楓はまだ自分達以外の黒髪に会ったことがない。そんな人物が居るとすれば、何かしら関係があるとしか思えない。全く関係がない可能性もないとは言えないが、他に手掛かりがない以上はそれに頼るしかない。
エイサーデル王国へ行ってみる価値はある。もう、柊の気持ちは決まっていた。
* * *
夜が明ける前から女将のキアラは、料理の仕込みをしていた。どうやって柊と楓を引き止めよう。そんなことを考えながら厨房で野菜を刻む。
数年前に旦那を亡くしてから、一人で店を切り盛りして来た。女性の社会的な地位が低い世界では、女が一人で生きて行くには大変な苦労がある。そんな所へ舞い込んで来た柊と楓だ。
店の売り上げが上がったからではない。キアラは真面目に働いて文句も言わない素直な二人が、本当に可愛くて仕方がなかった。
身寄りがないなら、引き取って一緒に暮らそう。三人でテーブルを囲んで食事をしたり、毎朝二人を叩き起こしたり、そんな光景を想像しては一人ほくそ笑んでいた。
養子を貰うことは、この世界ではよくあることだ。戸籍などないから、特に手続きが必要な訳ではない。
主導権は柊の方にある。だから、仕事用の衣装を仕立ててみたり、嫌な思いをしないよう客を戒めたりもしていた。しかし、柊から返って来たのは、素っ気ない社交辞令だった。
このままでは、二人はこの街を出て行ってしまう。何とかしなければいけない。何か良い手はないだろうかと、キアラは思慮していた。
不意に店のドアを開けて、人相の悪い男が入って来た。何日も着替えていないのか悪臭を放ち、何故か手首が片方しかない。
「悪いねぇ、まだ開店前なんだよ」
「お前の体を俺に譲ってくれないか?」
「はあ?何言ってんだ、あんた」
「お前の体を俺に譲ってくれと言っている」
「ちょっと、冗談はやめて出て行っておくれよ」
だが、男は厨房の中へ入って来ると、キアラに掴み掛かる。
「何するんだよ!やめておくれよ!」
男はキアラの頭の天辺を片手で掴んで、自分の方へ向かせる。そして自分の口を大きく開けると、その中には巨大なナメクジのような得体の知れない生き物が蠢いていた。
男はもう片方の手でキアラの顎を掴んで、無理矢理その口をこじ開けた。そこへ自分の口を重ねて、二人の口の中は一つの空間になる。ズルズルと這いずるように、得体の知れない生き物はキアラの口の中へと移動して行った。
「うぐぐっ…」
悲鳴を上げることも出来ないまま、ヌルッとした太くて長い物がキアラの喉を通過して行く。食道を押し広げながら、それはズルズルと体内へと侵入して行く。
あまりの苦しさにキアラは白目を剥いて涙を流し、失禁して小便を垂れ流していた。そして、立ったまま気を失っていた。
早朝に柊と楓は、飲食店へ出勤するために街道を歩いていた。先日、仕事帰りに注文していた洋服を受け取り、今朝はそれを二人で着ている。
同じデザイで色違いの洋服を見比べて、楓は一人で勝手に喜んでいた。もしも、柊が男だった時にこんなことをしたら、同級生の女子に嫉妬の目で見られていただろうか。今はもう小柄で華奢な女の子になってしまったが、そこに居るのは間違いなく柊だ。
柊としては、せっかくオーダーメイドで洋服を作ったのに、相変わらず膝上のスカートだということに気恥ずかしさを感じていた。もしかして楓は、柊がエルフのままの方が良いと思っているのではないか。そんな気さえしてしまう。
勿論、楓はエルフのままの方が良いとは思っていない。ただし、エルフのままでも構わないとも思っていた。
今日、柊は女将と話しをして、二、三日中には仕事を辞めるつもりだ。いきなり辞めると店も困るだろうから、多少は延期するかもしれない。その後は、エイサーデル王国へと向かう予定だ。柊が一人で勝手に決めるとまた楓が怒るので、きちんと了解は取ってある。
二人が街道を歩いていると、前方の道端に人だかりが見えた。朝から何事かと思い近寄ってみると、人だかりの中には飲食店の常連客の姿もある。背が高いその男は、二人に気が付いて注意を促した。
「ああ、キアラのとこのお嬢ちゃん達か。気持ちのいいもんじゃないから、見ない方がいい。通り魔か何かだろう」
柊が人と人の間から覗いてみると、道端に遺体が転がっていたのだろうか。既に白い布が掛けられ、軍人が運び出そうとしている。
比較的、治安の良い街でこんなことが起きるとは思っていなかった。治安を守るための組織は国によってまちまちだが、この国では軍人が警察のような役割をしているようだ。特にこの街は国境警備隊が常駐しているために、コソドロのような犯罪者もすぐに捕まることが多い。
この街へ来る途中に、痴情の縺れや怨恨などで殺人事件が起きたという話しは耳にすることがあった。しかし、実際に殺人事件の現場を目撃するのはこれが初めてだった。
「行こう」
人だかりで遺体が見えていなかった楓は、キョトンとしている。そのまま見せないように、柊が手を取って引っ張って行く。
キアラの店の近くでこんな事件が起きるなんて、キアラは大丈夫だろうか。何事もなければ良いが。柊はそんな心配をしながら、店へと向かう。だが、遺体には白い布が掛けられていたために、手首が片方しかないことに二人は気付いてはいなかった。




