第284話 中国大返し
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天正十年(1582年)六月八日。兵庫沖は羽柴の軍船と塩飽の船団でごった返していた。そして、湊そのものには、多くの羽柴の将兵が上陸していた。
「皆のもの!骨折りであった!」
兵庫城から加藤清正、寺沢広高、そして山内康豊を連れて馬を飛ばしてきた重秀が、船や兵を指揮してきた山内一豊を見つけると、そう叫んで馬から降りた。
「おお、若殿!ご無事で何よりでございます!」
重秀に気がついた一豊が、歩いて近づく重秀に対し、片膝をついて跪いた。そして一豊の近くにいた福島正則、脇坂安治、尾藤知宣、大谷吉隆(のちの大谷吉継)、津田盛月・信任親子、三浦義高、そして一豊の家臣である五藤為浄と祖父江勘左衛門も一斉に跪いた。
そんな家臣達に、重秀が語りかける。
「さぁさ、疲れているだろう。城内に入るが良い。皆の家族も城内にて護っている。皆も案じておったから、会って安心させてこい」
重秀がそう言うと、皆から歓声が上がった。しかし、その歓声に水を差すように義高が声を上げる。
「あいやしばらく!若殿、聞けば大殿(秀吉のこと)はこのまま上洛し、謀反人明智光秀を討ち果たす所存とのこと。ここで家族と会えば、兵はもちろん、将ですら情けが芽生え、士気が落ちまする!ここは、家族に会わせるべきではない、と存ずる」
義高の言葉に、その場にいた者だけでなく、近くで話を聞いていた足軽達が険しい目つきで義高を睨んだ。特に、一豊は不満げな顔を露骨に向けていた。
そんな中、重秀が義高に言う。
「荒次郎の言う事もっとも。しかしながら、上様(織田信長のこと)と殿様(織田信忠のこと)が身罷り、逆臣惟任日向守(明智光秀のこと)からいつ兵庫城を攻められるか、という不安に苛まれた家臣達の家族の気持ちも汲み取ってもらいたい。城に籠もって耐えてきた家族達を安心させることも、城主の務めだと思う。
・・・それに、すでに城主たる私が先に城内にて家族と面会している。私だけが面会して家臣に家族との面会を禁止すれば、私は己の欲求のみ満たし、家臣の気持ちを汲み取らぬ暗君と思われる。それは避けたいと思うのだが、どうだろうか?」
重秀がそう言うと、義高は重秀に頭を下げる。
「・・・若殿の家臣の家族へのご配慮、この荒次郎感服仕りました」
「では、私の指示を聞いてくれるな?」
「はっ。我が兵にも一旦の帰宅を認めましょうぞ」
義高がそう言うと、周囲の兵から歓喜の雄叫びが鳴り響いた。その雄叫びが鳴り止むと、重秀が一豊達に言う。
「とりあえず、兵庫城に戻ろう。話はそれからだ」
重秀がそう言うと、船酔いで顔を青ざめた大谷吉隆が重秀に言う。
「・・・お待ち下さい、若殿。・・・実は大殿(秀吉のこと)より命を受けてございます。その命をこなしてから兵庫城に戻りとうございます・・・」
今にも胃の中身を口から吐き出しそうな顔をしつつ喋る吉隆に、重秀が尋ねる。
「父上の命?なんだそれは」
重秀がそう聞いたが、吉隆は口を両手で抑えたまま喋らなくなった。代わりに福島正則が答える。
「ああ、実は大殿の命で、塩飽の船団を総動員して羽柴全軍の武具や弾薬を備中や姫路から兵庫に運ばせてるんだ」
「武具や弾薬を?」
「そう。二万の兵の全ての武具や弾薬をな。大殿とそれに従う将兵は皆、着物一枚で兵庫に駆けて来るってさ」
そこまで言った正則は、何かを思い出したかのような顔をする。
「そうだ。大殿から兄貴に命を預かってたんだ。『六月九日に姫路から兵庫まで昼夜問わずに駆け抜ける故、その間の西国街道筋にある村々と寺社に、篝火と炊き出しの準備をさせよ』って」
正則の言葉に、重秀は唖然とした。そして確かめるかのように正則に尋ねる。
「・・・真か?だとしたら、父上は真に十日に軍勢を引き連れて兵庫に入られるおつもりか?私はてっきりはったりだと思っていたが・・・」
重秀がそう言うと、正則は肩を竦めながら頷いた。その様子を見ていて、更に唖然とする重秀に、正則が話しかける。
「ああ、そうだ。塩飽のくまが来ているぜ?顔を見に行くか?」
「え?ああ、そうだな。案内してくれ。・・・それと、皆には船から武具や弾薬を兵庫城に運ばせるようにしてくれ。それから家族に会いに行くように」
重秀がその場にいる者達に聞こえるように大声を上げると、傍で聞いていた一豊が「承知!」と嬉しそうな声で返すのであった。
重秀が正則とともに佐々木くまの元へ行くと、くまは船から積荷を降ろしている水夫達に指示を出している最中であった。
「くま。骨折りだな」
「ああ、若殿様。生きていたんだね」
そう挨拶を交わした重秀とくま。そんな2人が軽く会話を交わした。
「塩飽の船がすべて動員されていると聞いたが?」
重秀がそう聞くと、くまは頷く。
「ああ。しかも皆、羽柴の大殿様から金銀はもちろん、銭や米まで貰ってる。お陰で皆が喜んでいるよ」
「金銀銭に、米まで・・・」
重秀がそう呟くと、隣にいた正則が呆れたような口調で話し出す。
「実際に配ったのは姫路城に先に来ていた弥兵衛殿(浅野長吉のこと。のちの浅野長政)だけどな。それに、塩飽の水夫だけじゃねぇ。先に姫路城に来ていた俺達や水軍の水夫にも金銀銭、そして米を配布していたぜ」
正則の言葉に、重秀が「ええっ!?」と声を上げた。
「金銀銭はともかく、米まで配布しては籠城できないではないか!?」
「弥兵衛殿も困惑してたぜ。『義兄貴は何を考えているのか?』ってな。ひょっとしたら、備中から転進してきた連中にも配るのかもな」
正則がそう言うと、重秀は天を仰いだ。
―――恐らく父秀吉が士気を上げるためにやったのだろうが、それにしたってやりすぎだろう・・・。まさか、姫路城の米倉と金蔵を空っぽにさせるつもりか!?―――
そう思っていた重秀に、くまが話しかける。
「若殿様よ。まだまだ積荷を降ろさにゃいけねぇんだ。無礼を承知で言うけど、邪魔だから退いてくれないか?」
「え?ああ、すまないな。では私は兵庫城に戻るから、後は指示に従って積荷を降ろしてくれ」
重秀がそう言うと、正則を連れてくまから離れるのであった。
天正十年(1582年)六月九日。重秀は秀吉を迎えるため、兵庫城の城門から西国街道沿いに篝火を置き、夜間でも軍勢が進めるよう整備した。それは、兵庫城から須磨へ、須磨から明石にある林ノ城の直前まで続いた。
秀吉の命令はすでに林ノ城より西の西国街道沿いにある城、宿場町、寺社に届いており、姫路から兵庫までの西国街道は、篝火によって夜でも明るい状態となった。
また、西国街道沿いにある城や宿場町、寺社や農村に対し、炊き出しの準備を命じていた。こうすることで、全軍を昼夜問わずの強行軍によって、六月十日までに兵庫城に入れるような準備を行った。
そして六月九日。前日1日の休暇を終わらせた羽柴軍2万は、一斉に姫路城を出発した。そして、一路兵庫に向けて爆走した。
いくら街道沿いに水や食料を摂れる補給施設を作ったとはいえ、脱落する者は多くいた。しかし、秀吉を始め、小一郎、蜂須賀正勝、前野長康、黒田孝隆等の羽柴軍の中枢は、秀吉の馬廻衆と共に姫路―兵庫間を踏破。六月十日の丑の刻(午前0時半頃から午前1時半頃)に兵庫城に到着した。
「父上・・・!?」
深夜にもかかわらず、兵庫城の城門まで出迎えに来ていた重秀は、城門の手前で馬から降り、重秀に近づいてくる秀吉の頭を見て絶句した。
秀吉の頭に髪の毛が全く無く、ツルッツルの頭になっていたからである。
「おお、藤十郎!無事で何よりじゃった!そして上方の状況を知らせてくれて助かった!骨折りじゃったのう!」
そう言いながら重秀に抱きつく秀吉。重秀は一旦は抱きとめたが、すぐに離れる。
「父上もご無事の帰還、この藤十郎、心よりお慶び申し上げます。それにしても、その頭は・・・?」
「ああ、これか?丹後の長岡殿(長岡藤孝のこと)とその御子息(長岡忠興のこと)が髻を落として上様と殿様の御霊を慰める、と兵庫から戻った彦右衛門(蜂須賀家政のこと)から聞いてのう。儂も上様と殿様を弔うために髻を落としたのじゃ」
秀吉の説明を聞いた重秀は、納得したかのように「なるほど」と言った。そんな重秀に秀吉が更に話しかける。
「よしっ、藤十郎!親子の再会を喜ぶのはここまでじゃ!源四郎君(織田信吉のこと)にご挨拶しなければのう!案内いたせ!」
秀吉がそう言うと、重秀は困ったような表情をしながら応える。
「父上・・・。今何時だと思っているのですか?源四郎君はもう休まれております」
「ああ・・・。そうであったか。久々に源四郎君のご尊顔を拝せると思ったんじゃがのう」
そう言ってうなだれた秀吉に、重秀が話しかける。
「それよりも父上。本丸御殿の『表』にて、風呂を用意しております。どうか汗をお流しください」
「おお、そうか!お主は気が利くのう!では、儂だけでなく、小一郎達にも入って・・・」
秀吉はそこまで言うと黙ってしまった。重秀が訝しんでいると、何かを思いついたような顔で秀吉が言う。
「・・・藤十郎。儂と風呂に入れ。お主に話しておきたいことがある」
秀吉の言葉に、重秀は露骨に嫌な顔をしながら「ええ・・・」と言った。秀吉が怒ったような顔をする。
「なんじゃその物言いは!?儂と風呂に入るのが嫌か!?」
「女子と入るのはともかく、男子と入るのは嫌でございます。ましてや実の父と入るのは・・・」
「阿呆!お主は何を考えておるのじゃ!儂かて男子と風呂に入りとうないんじゃ!じゃが、これから先は時が惜しい!お主とじっくりと今後について話す時は今しかないんじゃ!つべこべ言わずに一緒に風呂に入れ!」
秀吉が怒りながらそう言うと、重秀は「はぁ〜い」と、嫌そうな表情で応えるのであった。
兵庫城本丸御殿の『表』にある風呂は、元々は客人を饗すための蒸し風呂であった。当時は客を風呂に入れるというのは、最上級の饗しだったのである。
そんな本丸御殿『表』の蒸し風呂には、重秀と秀吉が湯帷子を着ながら入っていた。
「あ゙あ゙〜っ、良い風呂じゃ。馬上で凝り固まった身体が蕩けるようじゃ〜」
そう言いながら身体を伸ばす秀吉。そんな秀吉に、重秀は汗を手ぬぐいで拭いながら尋ねる。
「して、父上。私に話とは何ですか?」
「そんなに慌てて聞くな。余裕がないと思われるぞ。ほれ、儂の背中を擦ってくれ」
そう言うと秀吉は自分が持っていた手ぬぐいを重秀に放り投げた。重秀が手ぬぐいを掴み取ると、秀吉は湯帷子を脱いで重秀に背を向けた。
重秀が秀吉に近づき、汗と水蒸気で濡れた背中をゴシゴシと擦り始めた。すると、秀吉の背中から垢がボロボロと出てきた。
「はぁ〜、気持ちいいのう。高松城を攻めていた時は、水攻めの湖や雨で体を洗っていたが、冷たくてかなわん!」
そう声を上げた秀吉であったが、直後にそれまでの蕩けたような笑顔を止め、真面目そうな顔つきになる。
「・・・藤十郎、よく聞け。儂は天下を取るぞ」
「・・・は?」
重秀が手の動きを止め、思わず聞き返した。秀吉は再び「天下を取るぞ」と宣言した。
「藤十郎。天下を取る、とはどういう意味か、分かるな?」
「・・・畿内五カ国とその周辺を押さえることにございます」
「藤十郎の言う通りじゃ。儂は畿内五カ国を羽柴のものにする。藤十郎もその事を肝に銘じてほしいのじゃ」
秀吉がそう言うと、重秀は再び秀吉の背中を擦り始める。
「・・・父上。父上は播磨、摂津、但馬、因幡を有し、更に宇喜多の備前、美作、毛利の備中、伯耆を有するようになりました。更に畿内五カ国を望まれるのでございますか?」
「そう言わなければ、儂の軍勢は霧散するところであった」
そう言うと秀吉は、備中の石井山で孝隆から言われたことを重秀に説明した。
「・・・そういうことでしたか。畿内五カ国を有することで、羽柴についてきた将兵達に報いようとする、と」
「それだけじゃない。もし明智が畿内五カ国を有したならば、日向守(明智光秀のこと)がこの日本を治めようとするじゃろう。あ奴は朝廷と公方(足利義昭のこと)との結びつきをもっているからのう。朝廷を奉るか、公方を京に引っ張ってくるか、どちらにしてもそうなれば明智が官軍じゃ。我等は、いや織田家が賊軍として討たれることになる。それだけは阻止せねばならぬ。
・・・しかし、今ならまだ間に合う。朝廷や公方が明智のやったことを認める前に、我等が源四郎君を担ぎ上げ、上様と殿様の仇を討つ、とすれば、我等に大義が生まれる。織田家の家臣や与力を羽柴に引き寄せることができる。さすれば、我等は明智を討つことができるのじゃ。
・・・あ、背中はもう良いぞ。そろそろ痛くなってきた」
秀吉がそう言ってきたので、重秀は秀吉の背中を擦るのを止めた。そして湯帷子を渡すと、手に取った秀吉が湯帷子を羽織る。
「よいしょ、と・・・。藤十郎、今度はお主の背中を擦ってやろう。さっさと湯帷子を脱いでそこに座れ」
「えっ?いや、結構です・・・」
「何を言っておるのじゃ!親が背中を洗うと言っておるのじゃ!大人しく言うことを聞け!」
秀吉から怒られた重秀は、渋々湯帷子を脱いで秀吉に指図された場所に座った。秀吉が重秀から渡された手ぬぐいを背中に当て、上下に擦り始める。
「・・・お主の背中も広くなったのう。岐阜にいた頃は小さい背中だったのに。覚えておるか?岐阜の屋敷で井戸水をたらいに入れて行水したのを」
「・・・覚えていないですね・・・。市(福島正則のこと)や虎(加藤清正のこと)、それに孫四(前田利勝のこと。のちの前田利長)とはよく川で水浴びをしていたのは覚えておりますが」
「そうか・・・。まあ、それはともかく、儂等は明智を討たねばならぬ。そして畿内を、天下を治め、労を重ねた将兵に報いなければならない。そこまでは分かるな?」
秀吉がそう言うと、重秀が「はい」と答えた。秀吉が更に話す。
「じゃが、そこから先については儂も悩んでおる」
「は?」
「天下・・・畿内五カ国を治めるということは、帝がおわす京を治めるっちゅうことじゃ。当然、帝の臣たる公家衆との付き合いもせにゃならん。となると、嫌でも朝廷を奉らなきゃいかん。さすがに朝廷を廃したり蔑ろにすることはできん。そんな事をすれば朝敵として他の勢力から袋叩きにされるからのう。
・・・じゃが、儂としてはそこまでは考えておらん。無論、儂にも欲はある。じゃが、それは美味い物が食えて、美女を侍らせてヤッて、おっ母に孝行できれば十分じゃ。全国の大名に号令をかけようとは思っとらん。
まあ、有り体に申さば、天下は欲しいが天下はいらんのじゃ」
秀吉がそう言うと、重秀は黙り込んでしまった。秀吉が更に言う。
「・・・実は姫路城の米倉と金蔵は空っぽじゃ。全ての米と銭、金銀を将兵と塩飽の水夫共に配ってしもうた。お陰で羽柴はすっからかんじゃ。それに加えて、明智との戦に勝利したら、さらなる褒美も約束してしまった。大勢の将兵の褒美を賄うためには、商いが盛んで商人も多い畿内五カ国を有するしかないんじゃ」
秀吉の言葉に重秀は絶句した。秀吉はそんな重秀の背中を擦るのを止めると、赤くなっている重秀の背中をバシッと叩いた。重秀が思わず「痛てぇ!」と叫んだ。
そんな重秀の前に、秀吉が座る。
「藤十郎。儂は明智に勝つぞ。負けることなど全く考えておらぬ。それ故、儂は姫路城の金蔵と米倉を空っぽにしてきんじゃ。儂は姫路に戻らぬつもりじゃ」
秀吉が決意が籠もった眼差しを重秀に向けてそう言った。その凄みに重秀は思わず息を呑む。そして、秀吉が両手で力強く重秀の両肩を掴む。
「藤十郎、お主にも働いてもらうぞ。儂等親子で天下を取るんじゃ。そして、お主にその天下を譲る。その気概を以て、惟任日向守を討ち果たすんじゃ!」
秀吉の気迫ある、それでいてどこか現実離れした言葉に、重秀はただ「分かりました・・・」としか答えることができなかった。




