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大坂の幻〜豊臣秀重伝〜  作者: ウツワ玉子
兵庫編

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第252話 寝返りの衝撃

感想、評価、ブックマーク登録、いいね!を頂きありがとうございます。大変励みとなっています。


誤字脱字報告ありがとうございました。お手数をおかけしました。

 天正十年(1582年)四月五日。羽柴秀吉が宇喜多の居城である石山城に入ったちょうどその日、重秀は塩飽本島にある笠島城本丸御殿である人物と面会していた。


「少輔太郎殿(村上元吉のこと)。村上家当主直々のお越し、この羽柴藤十郎恐悦至極に存じます」


 重秀はそう言って、対面している村上元吉に軽く頭を下げた。すると、後方に控えていた重秀の家臣達も一斉に頭を下げた。その様子を見ていた元吉も軽く頭を下げる。


「いや、こちらこそ我等能島村上家の織田家への加わりを認めていただき、恐悦至極にござる」


 元吉がそう言うと、元吉の後ろに控えていた弟の村上景親と家臣達が一斉に頭を下げた。元吉が更に話を続ける。


「そして、能島まで来ていただき、我等との交渉で骨を折って下さった弥三郎殿(石田正澄のこと)にも厚く御礼申し上げる、とお伝えくだされ」


「承りました。今、弥三郎は来島の村上助兵衛殿(村上通総のこと)のところに行き、能島との和解のための交渉に赴いております故、少輔太郎殿の言葉は私から伝えましょう」


 元吉の言葉に、重秀がそう答えた。


 能島村上家の実質的な指導者である村上武吉が、塩飽の船方衆の一人である佐々木新右衛門に織田家への臣従の連絡を入れた後、重秀は能島に石田正澄を送り込んで交渉させた。正澄の穏やかだが毅然とした交渉によって、能島村上家は織田家への従属を決断した。

 その後、正澄はその足で来島に行き、村上通総と会って来島と能島のわだかまりを解消すべく動いていた。正澄は塩飽には戻っていなかったが、彼から届けられた手紙によれば、来島は能島との和解の条件についてほぼ同意しているとの話であった。


「では、証人立ち会いの下で誓紙の交換をいたしましょうか。ここに父筑前守が発した誓紙があります。これに私の血判を記しますゆえ、少輔太郎殿も掃部頭殿(村上武吉のこと)の誓紙に血判を記してください」


 重秀がそう言うと、元吉は「承った」と頷いた。二人は誓紙に自身の名前と花押を書き、その上から指を傷つけて流れた血を垂らした。そして証人―――塩飽本島にある専称寺の住職の目の前で誓紙が交換された。

 こうして、来島村上家に続いて能島村上家が織田方に寝返ったのだった。


「では、誓紙の通り、毛利が我等に攻め寄せた際には良しなに」


「分かっております。すでに兵糧を用意してあります故、塩飽の者共に能島へ送るよう伝えます。その代わり、来島のことはお頼み申し上げる」


「承知いたした。来島が南に向かう限り、我等は来島の北を守りましょう。まあ、我等が織田方についた以上、来島家の河内殿(村上吉継のこと)は早晩来島に従うと思いますが」


 村上河内守吉継は来島家を支える重臣の家である。重臣、と言っても常に通総の傍にいるわけではなく、能島の北西にある大三島おおみしまの東側に浮かぶ古城島にある甘崎城の城主として甘崎城にいた。地理上、親毛利派ではあったが、近くの能島が織田方についた以上、吉継も来島と歩調を合わせるであろう、と元吉は予想していた。

 そして元吉の予想どおり、この頃には能島に残っている村上武吉が使者を甘崎城に送って説得を試みており、吉継もまた織田方につく決断をしていた。


「それは重畳至極。真鍋右衛門之大夫殿が縁戚にあたる村上弾正殿(村上景広のこと)を説得しておられますが、なかなか上手くいきません」


「弾正殿は我が父の従兄弟に当たる方。父を通じて我等からも働きかけましょうぞ」


 元吉がそう提案すると、重秀は「かたじけのうございます」と言って頭を下げた。そんな重秀に、元吉が更に話しかける。


「それと・・・、人質の件なのでござるが・・・」


 元吉がおずおずとそう言うと、重秀は申し訳無さそうに元吉に言う。


「いやぁ。本来人質を取るつもりはなかったのですが、来島の村上助兵衛殿が人質をこちらに送ってきましてね。お帰りいただくよう促したのですが、どうしてもということで預かってしまいまして。

 それで来島から人質を預かったのに、能島から預からない訳には参りませんので、掃部頭殿や少輔太郎殿には無理を言ってしまいました」


 重秀の言う通り、実は重秀と秀吉は村上から人質を取る気はなかった。というより、今回の毛利に対する調略は、あくまで毛利の足を引っ張るのが目的で、毛利の家臣や国衆を積極的に用いる気はなかった。なので人質を取ろうという発想はなかった。

 しかし、通総は羽柴や織田の援助が欲しいため、積極的に人質を出して結びつきを強めようとした。なので通総は弟の村上通清を人質として送ってきたのであった。

 ちなみに、村上通清には数隻の小早とそれに乗る水夫を連れてきていたため、来島水軍として重秀の下につくことになっていた。


「いやいや。来島が人質として当主の弟を差し出したのに、どうして能島が出さないことがありましょうや。我が弟、源八郎(村上景親のこと)を置いていきますので、存分にお使いください」


 元吉はそう言うと、後ろに座っていた景親に自己紹介をするように命じた。それを受けて景親が重秀に平伏する。


「お初にお目にかかりまする。拙者、村上掃部頭(村上武吉のこと)が息、村上少輔太郎の弟の村上源八郎と申しまする。拙者も少ないながらも小早を連れてまいりました。船を操る水夫共は皆村上が誇る者共ばかり。何卒存分にお使いくださいませ」


「おお、それは心強い。我が羽柴水軍はできてさほど年を経ていないため、船軍ふないくさはどうしても劣ってしまいます。そんな羽柴水軍に村上が加わってくれれば、まさに万の援軍を得たのも同じです。どうぞ、我等に船軍の何たるかをご教授していただきたい」


 重秀がそう言って頭を軽く下げると、景親は「ははぁ!」と言って頭を深く下げるのであった。それを見た重秀は、頷くと今度は元吉に声を掛ける。


「そういえば、掃部頭殿は連歌をなさるとか?」


 重秀の質問に、元吉が答える。


「ああ、はい。父は村上家の結束を固めようと、一族を集めて大三島にある大山祇神社にて連歌会をよく催しておられました。他にも事あるごとに一族を集めては祭りとか猿楽の催しをやっておりました」


 元吉の話を聞いた重秀が「なるほど」と頷いた。


「それならば、掃部頭殿に贈りたき物がございます」


 重秀はそう言うと、後ろにいた寺沢広高に声をかけた。広高は立ち上がると、重秀の傍らにやってきて片膝をついてひざまずくと、両手に持っていた書物と蒔絵の箱を重秀の前に置いた。


「この書物は天正八年(1580年)九月に日野権中納言様(日野輝資のこと)と広橋参議様(広橋兼勝のこと)、それに柳原前権大納言様(柳原淳光のこと)と烏丸権中納言様(烏丸光宣のこと)が須磨にて連歌会をなされた折に連歌を記した書でございます。そして、この蒔絵には京で流行りの百人一首カルタが入っております」


 重秀がそう言うと、元吉は「は、はあ」と気の抜けた返事をした。


「・・・いや、父は連歌を嗜んでおりますが、それがしはあまり興味がなくて・・・。まあ父なら喜ぶと思いますゆえ、有り難く頂戴いたしまする」


 その後、元吉は父の武吉に書物と蒔絵の百人一首カルタを渡した。すると、武吉はこれまで見たことのないほどの喜びを示し、元吉はその姿に驚かされるのであった。





 能島村上家と来島村上家が揃って織田方に寝返ったという情報は、各地に衝撃を与えた。

 重秀から報せを受けた秀吉は、重秀の予想以上の働きに大いに喜び、さっそく織田信長に伝えた。が、この頃信長は滅亡した武田家の本拠地であった甲府に向かっており、しかも帰りは富士山を見物して帰る、という信長の希望で甲斐国から南下して駿河国を通って帰るというルートを選んでしまったため、秀吉の報告は信長が進んだルートを追いかけることになった。

 結局、信長が村上の寝返りを知ったのは、安土に戻った天正10年(1582年)の四月二十一日であった。

 武田が滅び、富士山を見学し、徳川家康から接待を受けて上機嫌の信長は、村上の寝返りに更に上機嫌となった。


「村上水軍のいない毛利など恐れるに足らず。余は秋には中国に向かい、毛利に引導を渡してやろうぞ」


 信長は共に武田領に行っていた明智光秀に機嫌良くそう言ったと言われている。


 さて、上機嫌ついでに信長は秀吉と重秀に1通の朱印状を出していた。それは、外峯四郎左衛門こと津田盛月を赦すことを認める朱印状であった。

 領地トラブルで柴田勝家の代官を斬った盛月は、息子の津田信任と共に織田家から追放されていた。その後、偽名で重秀の家臣となり、外峯四郎左衛門として水軍に所属していた。

 勝家の代官を斬ってからだいぶ時が経ち、そろそろほとぼりが覚めているだろう、と思った秀吉は、村上の寝返りを報せる書状に、外峯四郎左衛門が乃美盛勝を討ち、その正体が津田盛月であることを添えた。そして更に、盛月を赦すよう願い出た。

 これは秀吉にとって賭けであったが、秀吉はこの賭けに勝つことができた。


 さて、秀吉が送った使者は信長の後を追うように走り回った。そしてそのルート上で秀吉の報告のあらすじを織田家の諸将に報告した。行く先々で「上様に何用か?」と聞かれるたびに答えたからである。

 結果、重秀による村上調略は織田家中のみならず信濃、甲斐の国衆達、そして三駿遠を治める徳川家にも伝わることになった。

 天正四年(1576年)の第一次木津川口の戦いで敗北して以来、村上水軍は織田家中にその名を響かせていた。そんな村上が織田に寝返ったことは、家中に驚きと喜びを与えた。当然、寝返らせた重秀の評価は一層高まった。

 一方、話を聞いた信濃、甲斐の国衆の反応は薄かった。彼等は海を知らないし、彼らにとって村上とは北信濃の村上のことであり、西の村上には全く興味を持っていなかったからだ。ただ、織田家の重臣である羽柴筑前守の息子が寝返らせた、ということに、織田家の次世代も優れたものだという認識を与えた。


「前右府様(織田信長のこと)の嫡男たる三位中将様(織田信忠のこと)が優れておられるのは先の武田攻めでよく分かった。それだけでなく前右府様の重臣達の嫡男達も優れている者が多いようじゃな。早めに織田に臣従して良かったわい」


 信濃の国衆の一人で、信濃国小県郡と上野国吾妻郡と利根郡に領地を持つ真田昌幸は息子達にそう言った。彼が羽柴重秀、のちの豊臣秀重を更に知るのはもう少し後の話である。


 同じ頃、駿河を得たばかりの徳川家康は、重秀による村上寝返りの話を本多正信から聞いた。


「ほう・・・。村上水軍については儂も聞いたことがある。西海にて前右府様を苦しめていた毛利の水軍の中核を担っていたはずだな。それを寝返らせるとは面白いな」


「確か藤十郎殿は二十歳を超えたばかり。それでいて敵の重要な水軍を寝返らせるとは。いやはや、長浜で養蚕を行っていた若人とは思えぬ活躍でござる」


 懐かしそうな顔でそう言う正信に、家康は「そう言えば」と話しかけてくる。


「弥八郎(本多正信のこと)が羽柴から戻った際、蚕を持ってきていただろう?あれはどうなった?」


「はあ。あれは周辺の農村にて飼ってもらっていたのですが、世代を重ねることに糸の質が酷くなりまして・・・。屑繭を集めて真綿にするのがやっとと相成りました」


「真綿か・・・。三河では木綿が採れる故、真綿だけではあまり面白くないのう。・・・聞けば、安土では北近江や越前から良質な絹が流れているとか。これでは我等の絹は売るに売れぬ」


 家康が面白くなさそうな顔でそう言うと、正信も同意するかのように頷く。


「仰るとおりかと。まあ、三河の木綿が西ではよく売れますからな。絹よりもそっちの方が有用なのは間違いないかと」


 正信がそう言うと、家康は「うむ」と頷いた。


「まあ、それはともかく。筑前殿(羽柴秀吉のこと)は誠に良き跡取りを持ったものよ。羽柴家は親子二代で前右府様と岐阜中将様を支えることになろう。

 ・・・一方、儂の方はどうじゃ。長松(徳川家康の三男。長丸とも言う)は未だ四歳。これでは徳川の行く末はどうなることやら」


 そう言うと家康は溜息をついた。そんな家康の様子を見ながら、正信は思う。


 ―――やはり殿はお世継ぎをお義伊様(徳川家康の次男。義伊丸とも言う)ではなく長松様になされるおつもりか。まあ、母親の身分を考えるとそうなるか―――


 そう思っていた正信に、家康が話しかける。


「羽柴は西国を担当している故、我等とは関係ないと思っていた。しかし、今後のことを考えれば、誼を通じても面白いのではないだろうか?」


 家康からそう言われた正信は少し考えると、家康に自分の考えを述べる。


「まあ、拙者は藤十郎殿を知っておりますれば、その伝手を使って連絡を取ることは可能にございます。しからば、少し連絡を取ってみますか?ついでに、養蚕についても相談してみますか」


 正信の言葉に、家康は黙って頷くのであった。





 来島、能島の村上家が織田に寝返ったのを小早川隆景が知ったのは、能島村上家の若き当主である村上元吉の妻で隆景の養女が離縁されて戻されたのがきっかけであった。

 当然、小早川家中では大騒ぎになったが、隆景は冷静に受け止めていた。


 ―――伊予の河野家に執着している村上助兵衛と、一度毛利から離れたことのある村上掃部ならば、さもありなんと言うべきだな。しかし、甘崎城の村上河内守(村上吉継のこと)まで寝返るとは思いもせんかったが―――


 隆景はそう思うと、今後の対応を話すべく家臣達を集めた。


「おのれ掃部!殿の養女を息子に娶せながら、我等を裏切るとは!」


「殿!このままでは村上は小早川を、いや毛利が馬鹿にされまする!小早川の全軍を以て能島と来島を攻め落としましょうぞ!」


 集められた家臣達は口々に村上討伐を叫んだ。しかし、隆景がこれを抑える。


「皆の気持はよく分かる。しかし、ここで村上を討つべく軍を動かせば、羽柴と宇喜多が備中に雪崩込んでくる。未だ御屋形様(毛利輝元のこと)や兄上(吉川元春のこと)が三原に来ていない今、我等は動くことはできない」


 隆景が毅然とした態度でそう言うと、家臣達は一斉に口をつぐんだ。その様子を見た隆景がまずは家臣の筆頭格に当たる桂景信に言う。


「まず兵部(乃美宗勝のこと)に兵を連れて三原に戻るように伝えよ」


「・・・兵部殿は常山城に詰めておりますが、常山城を放棄なさるおつもりですか?」


 景信の質問に隆景が即答する。


「そうだ。もはや我等が児島を有する余裕はない。兵部には残った因島の村上との取次をしてもらう。それに、確か笠岡城の村上弾正はまだ織田に寝返っていなかったはず。毛利に留まるよう、兵部に説得してもらう」


「それで常山城は?」


「宇喜多の彼奴きゃつ等にそのまま渡すのは口惜しい。かと言って兵糧物資を引き上げる時もない。火を放つよう伝えよ。もっとも、兵部なら心得ているとは思うがな」


 隆景がそう言うと、景信は「承りました」と言って隆景の下から退席した。隆景が次に鵜飼元辰に視線を移す。


「新右衛門(鵜飼元辰のこと)、境目七城に居る備中、備後の国衆の監視を強めるように伝えよ。それと四郎兵衛(粟屋景雄のこと)に命じて兵を鞆に向かわせるようにせよ」


「鞆・・・でございますか?」


 元辰がそう尋ねると、隆景は「鞆だ」と力強く言った。


「塩飽の羽柴が鞆を狙い、公方様(足利義昭のこと)を害する、もしくは拐われることがなきよう警固を固める。また、鞆の湊を守る大河島城の村上左衛門大夫(村上亮康(すけやす)のこと)が羽柴に寝返らぬように見張る」


 隆景の言葉に対し、元辰は恐る恐る尋ねる。


「四郎兵衛殿とその配下は小早川でも精強を誇るつわものばかり。それを備中から移すのは如何なものかと・・・」


「分かっている。しかし、ここでもし羽柴が鞆を攻めて公方様に何かあれば、毛利の面目は完全に叩き潰されてしまう。そうなれば、中国中の国衆が毛利を見限るぞ!そうなる前に手を打つのだ!」


 大声を上げる隆景に、元辰は思わず身震いしながら「しょ、承知いたしました!」と平伏した。そんな元辰に、隆景が更に命じる。


「それと、儂はこれより御屋形様と兄上、そして一任斎殿に文を書く。それを届けて欲しい」


「承知いたしました。・・・一任斎・・・殿?」


 一旦は了解した元辰であったが、隆景が最後に言った人物の名に心当たりがなかったため、思わず聞き返してしまった。隆景はそれを咎めることなく元辰に言う。


「安芸国の安国寺の住持だ。・・・瑶甫恵瓊ようほえけい殿といえば分かり易かろう」


「ああ。昔、織田との交渉を行った坊さんですか。・・・あれにも文を出すのでございますか?何故に?」


 元辰がそう訪ねたが、隆景は何も答えなかった。黙った主君の姿を見た元辰は、頭を下げると隆景の元から退出するのであった。


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― 新着の感想 ―
こうして迫ってくるとそわそわするな
村上寝返らせるの有能で草。 昌幸のシーン、真田丸のあの人達で再生されたな。いずれ信繁も来そうで楽しみ
味方が続々と寝返る状況に小早川隆景も流石に形振り構っていられない訳か。史実よりも早く安国寺恵瓊を派遣して極秘に和睦交渉を始める様だが、ここまで織田方が有利だと領国の半分である五国割譲を申しても瀬戸内を…
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