81.闇の中での出会い
母に言われるまま着替えを済ませると、すぐさま部屋から連れ出された。
真夜中の王城は、インクの色より深い闇に包まれている。扉の前にいた警備兵二人は、気持ちよさそうに大いびきをかいていた。
「時間がないの。早く行きましょう」
母に手を引かれて、暗闇の廊下を進んでいく。眠っているのは警備兵だけではなかった。城内を巡回しているはずの兵士たちも、皆、壁を背にしたり床に体を横たえたりして熟睡している。
警備の要である門番たちですらも、低いいびきを響かせて眠っているではないか。おかげで、ラヴォントたちは難なく城の外に出ることができた。
「ラヴォント、母様にしっかり捕まっているのよ」
母はラヴォントを抱き締めると、瞼を閉じて魔力を集中させた。柔らかな緑色の光が二人を包み込み、ゆっくりと空中に舞い上がった。
母は、ラヴォントと同じ風属性の魔法を操ることができる。穏やかな風によって、二人の体が真っ暗な夜空を泳ぐように前へと進んでいく。
みるみる小さくなっていく王城を振り返るたびに、ラヴォントは言いようのない不安に襲われた。
「は、母上……どこに行くつもりだ? 父上はこのことを知っているのか?」
母は何も答えようとしない。暗い光を灯した瞳はラヴォントではなく、前方に聳える霊峰を映していた。
エスキスの上空に達すると、母は懐から香り袋を取り出した。そして微弱な風を起こし、麓に向かって香りを流し始めた。直後、入り口を見張っていた兵士たちは、次々と倒れていった。
「……っ」
「大丈夫、城の兵士たちと同じように薬で眠らせただけよ。朝には目を覚ますわ」
大きく息を呑む息子に、母は淡々とした口調で告げて山中に降り立った。初めて踏み入れた聖地は不気味なまでの静寂に包まれていて、張り詰めた空気が肌を刺すようだ。
「母上、早く城に帰ろう! もし私たちがいないと知ったら、皆が心配してしまう!」
「いいえ、あそこには二度と戻らないわ」
「何故だ! 今夜の母上はいつも以上に様子が……」
そう言いかけて、「違う」と思った。
凛々しく冷静でありつつも、どこまでも深い慈愛を湛えた眼差しが、ラヴォントに向けられている。
様子がおかしくなる前の、ラヴォントがよく知る母の姿そのものだった。
「……大丈夫。私が私でなくなる前に、あなただけは守ってみせるから」
ラヴォントの手を取ると、母は何かに導かれるようにどこかへ向かって歩き出した。
「ま、待ってくれ、一体何の話をしているんだ?」
ラヴォントの不安と困惑は膨れ上がって、今にも破裂しそうだった。
「母上は他の誰でもない! 私のたった一人の母上ではないか……!」
「違うのよっ!」
今まで聞いたことのない、悲鳴にも似た声が夜の闇を震わせる。
ラヴォントの手を引きながら、母は言葉を続けた。
「私が『リラ』の名を与えられた以上、私はその呪われた運命を辿るしかない。夫と息子を執着するあまり、周囲に不幸と恐怖を撒き散らす女よ。そんな悍ましい人間になりたくない! あなたを私の愛で縛りつけたくない……!」
「え?」
「そうなる前に、この世界から逃げ出すの。伝承が確かなら、この魔力を辿っていけば向こうへ渡る扉が……」
その時だった。
足元が急に脆く崩れ落ちた。暗闇のせいで気付かなかったが、いつの間にか崖の淵に立っていたのである。
「あ──」
全身が粟立つような浮遊感の中、ラヴォントは瞼を閉じる。
けれど、痛みと衝撃はなかなか訪れない。
恐る恐る目を開くと、緑色の光がラヴォントを包み込んでいた。母が咄嗟に魔法を使い、風の壁で衝撃を和らげてくれたのだ。
我が子を守ることで精一杯だったのだろう。母は地面に倒れ伏したまま、ピクリとも動かなかった。
「は、母上……?」
掠れた声での呼びかけは、ただ闇に吸い込まれるばかりだった。
際限のない恐怖に襲われ、全身が小刻みに震え出す。まだ幼い体では、魔法を使っても王城まで連れ帰ることもままならない。
今のラヴォントにできるのは、母を揺さぶりながら叫び声を上げることだけだった。
「頼む、誰か助けてくれ! 母上が目を覚まさないんだ! お願いだ、誰でもいいから……!」
心の底では無駄だと分かっていても、僅かな希望に賭けるしかない。ラヴォントの瞳には涙が滲んでいた。
「あれ? 何でこんなところに人間がいるの?」
「ほんとだ。片方はまだ小さな子供だ」
「大人の方は虫の息。長く持ちそうにないね」
周囲の木々の影や岩陰のあちこちから、いくつもの微かな囁きが聞こえてくる。
すると、一匹の黒い狐が、青白く光る巨大な花を傘のように頭上に掲げながら、ラヴォントへと駆け寄ってきた。
「早く助けなくちゃ! ぽんぽこりん!」
そう叫んだ直後、狐の姿が白い煙に包まれ、その奥から屈強な体つきの兵士が現れる。
そして、ぐったりしたままの母を抱き上げた。
「夜になると悪い精霊も出るから、一人でいると危ないよ。僕についてきて!」
「わ、分かった!」
状況が飲み込めないまま、兵士の後を追いかける。
これがラヴォントと写し狐の出会いだった。




